第47話 ヒロインたちとの祝賀会
アビス大公国の設立宣言から数時間後。
領都の喧騒はいまだ収まる気配を見せず、大通りからは夜空を焦がすような熱気と祝祭の音楽が途切れることなく響き続けている。広場に設置された魔導灯は普段よりも出力を上げられ、街全体が白夜のように明るく照らし出されていた。
しかし、分厚い石壁と幾重もの防音魔法陣に守られた大公府の最上階、セレスティアンの私的なラウンジは、重厚なオーク材の扉によってその狂騒から完全に切り離されていた。
部屋の中央に置かれた黒曜石のテーブルの上には、王都の最高級酒場でも滅多にお目にかかれない年代物の酒瓶が並び、グラスの中で氷が溶ける微かな音がしている。
だが、部屋の中が静寂に包まれているかといえば、決してそうではなかった。
「……ガサッ、シャカシャカシャカッ。くぅーん」
床に敷かれたペルシャ絨毯の上で、絶え間なく鳴り続ける乾いた音。
各国の外交官や有力ギルドの代表から贈られた、山のような祝いの品々。セレスティアンはそれらの高価な中身――希少な魔石や、熟練の職人が数年がかりで彫り上げた精巧な美術品――には目もくれず、一部を執務室の金庫に送るよう手配した後、残りの「梱包材」を床に放置していた。
生後数ヶ月を経て、骨格がしっかりとし始めた若犬のポチが今、興奮のあまり短い尻尾を弾かれたようにバタバタと床に打ち付けながら格闘しているのは、ゼノア公国の特権商人が持参した、非常に分厚く上質な「ただの厚手の手提げ紙袋」だった。
ポチは紙袋の入り口に頭を突っ込み、暗く狭い空間の魅力に抗えずに前足まで滑り込ませている。そのまま袋の底に前足を押し当てて何かを掘るような仕草をしていたが、引き返そうとしたところで紙袋の縁が肩に引っかかり、顔に袋を被ったまま「ヒャンッ」と短い悲鳴を上げて後ずさりした。
絨毯の上をガサガサと不規則に後退し、ソファの脚にぶつかってコテンと転がる。それでも紙袋という得体の知れない強敵を離すまいと、今度は仰向けのまま短い後脚で袋を蹴りつけ、小さな牙で厚手の紙を噛み千切ろうと必死に唸り声を上げていた。
「……どれだけ高価な玩具を与えても、結局は梱包材に行き着くのは変わらないか」
セレスティアンはスラックスのポケットに片手を入れ、琥珀色の蒸留酒が注がれたグラスをもう一方の手に持ちながら、その光景を静かに見下ろした。
ネクタイはすでに外され、第一ボタンが開いたシャツの襟元からは、長丁場を終えた確かな疲労が滲んでいる。だが、足元で転げ回る毛玉の無防備な姿は、不思議と凝り固まった思考の糸を解いていくようだった。
「あら、それは人間も同じですわよ。どれだけ美しい言葉や豪華な飾りを与えられても、最後に欲しくなるのは、中身の剥き出しの熱ですもの」
甘く、そして鼓膜を直接撫でるような声とともに、セレスティアンが腰を下ろした革張りのソファが僅かに沈み込んだ。
右側に座ったのは、カミラ・フォン・ローゼンベルクだ。今日の彼女は公的な式典用のカッチリとしたドレスではなく、肩のラインが滑らかに露出した、極めてプライベートなボルドーのイブニングドレスを纏っている。彼女が動くたび、熟成されたワインと、夜に咲く花のような蠱惑的な香水が混ざり合った匂いが鼻腔をくすぐった。
カミラは細い指をセレスティアンの腕に這わせ、アシンメトリーな髪の隙間から妖艶な流し目を向ける。
「お疲れ様でした、私たちの『大公閣下』。王都の連中が首を絞められて絶望する様、特等席で見せていただきましたわ。……最高の気分よ。あなたが構築した盤面で踊る彼らの滑稽な姿を思い出すだけで、いくらでもお酒が飲めそう」
「抜け駆けは感心しませんわね、カミラ殿。利益の公平な分配はビジネスの基本ですわ」
反対側、左のソファのクッションが沈む。
ヴィオラ・クレメントが、タイトな黒のドレスから伸びる長い脚を組み替えながら、セレスティアンの左腕に自身の豊満な身体を密着させてきた。彼女の手には、年代物の赤ワインが注がれたグラスが握られている。
「乾杯しましょう、セレスティアン。クレメント商会にとっても、今日は記念すべき独立記念日。……これからは、王都の顔色を窺うことなく、あなたと二人三脚で世界中の富を吸い上げられますわ。そのためにも、今夜は今後の展望について、もっと深いところまで擦り合わせをしておきませんこと?」
ヴィオラはグラスをセレスティアンのそれに軽く当て、澄んだ音を鳴らすと、挑発的な視線で彼の三白眼を見つめてきた。彼女の太ももが、スラックス越しに明確な熱を持って押し付けられている。
左右を王都屈指の悪女たちに固められ、逃げ場を失った形になる。彼女たちの香水とアルコールの匂いが混ざり合い、思考を鈍らせるような濃密な空間を作り出していた。
セレスティアンが表情を崩さず、グラスを傾けようとした瞬間だった。
「あっ、狡い! 私だって、今日一番の功労者を独占する権利があるわ!」
パタパタという軽快な足音とともに、クロエ・ヴァレンタインが正面から飛び込んできた。少しラフなシャツの胸元を大胆に開けた彼女は、一切の躊躇いなくセレスティアンの膝の間に割り込み、その首に両腕を回して抱きついた。
「っ……」
「大成功だったわね、セレスティアン! あの数万人の群衆が、あなたの言葉1つで完全に支配される瞬間……演出した私でさえ鳥肌が立ったわ。あぁ、本当にあなたって最高の『主役』ね」
クロエの健康的で柔らかな身体の感触と、石鹸の甘い匂いが正面から押し寄せる。彼女の猫目がちな大きな瞳が、至近距離でイタズラっぽく細められた。計算し尽くされた完璧な愛嬌だと分かっていても、これほどのゼロ距離で直撃を受ければ、並の男なら一瞬で理性を消し飛ばされるだろう。
彼女の吐息がセレスティアンの首筋にかかる。
「これで私の任務も一旦終了ね。周辺のネズミはすべて地下に放り込んできたわ」
不意に、後頭部のすぐ近くから声が降ってきた。
いつの間にか背後に回っていたエレナ・ルージュが、ソファの背もたれ越しにセレスティアンの肩へしなやかな腕を絡ませてきたのだ。彼女は身に着けていたタクティカルベストをすでに脱ぎ捨て、薄手のインナー1枚という無防備な格好だ。極限まで鍛え抜かれた腕が、彼の首元に心地よい冷たさと体温を同時に伝える。
「防諜網の維持、ご苦労だった。各ギルドからの使者の警護に隙はなかったか」
「言葉だけ? 私の特別手当は、こういう夜にもっと直接的な形で支払われるべきだと思うんだけど」
エレナは獲物を狙うような妖艶な笑みを浮かべ、セレスティアンの耳元に唇を近づけた。彼女の髪から微かに硝煙と夜風の匂いがする。
「ちょっとエレナ、邪魔よ。私の精密な測定の障害になるわ」
さらにその後ろから、イレーネがふらりとした足取りで近づいてきた。祝杯のアルコールがすっかり回っているのか、白衣の下のタイトなインナーは少し乱れ、銀縁の眼鏡が僅かにずれている。頬を赤く染めた彼女は、エレナを押し退けるようにしてセレスティアンの肩に乗りかかり、その胸元に無造作に耳を押し当てた。
「……ふふっ。平然とした顔をしてるけど、心拍数は平常時より1割ほど上がってるわね。大群衆を前にした興奮の残り? それとも……この状況に対する自律神経の乱れかしら? もっと近くで、詳細なデータを採取させてちょうだい……」
イレーネの豊かな胸の感触が、背中から後頭部にかけて容赦なく押し付けられる。
「イ、イレーネ様! 近すぎます! クロエも、離れなさいよ!」
部屋の入り口付近で、銀のトレイに温かいお茶のセットを乗せたソフィアが、顔を真っ赤にして叫んだ。
彼女は足早にテーブルまで歩み寄ると、ドンッと音を立ててトレイを置き、クロエの背中の服を引っ張った。
「セレスティアンは疲れてるの! みんなでお酒臭い息を吹きかけないでよ!」
「あらソフィア。お子様にはまだ早い大人の慰労会よ。あっちでポチと遊んでいなさいな」
「子供扱いしないで! 私だって……私だって、王都の情報を完璧に集めてきたんだから……!」
ソフィアは唇を尖らせ、カミラとクロエの隙間を縫うようにしてセレスティアンの膝の横に陣取ると、彼のシャツの裾をギュッと強く握りしめた。その青緑色の瞳が、不器用に、しかし強い独占欲を孕んで彼を見上げている。
四方八方からの物理的、精神的なアプローチの飽和攻撃。
セレスティアンは微かに息を吐き、グラスをテーブルに置いた。
「……お前たち、少し浮かれすぎている。明日の午前には、各ギルドとの新法案に関する最終調整が控えているはずだ。業務に支障を来すようなら――」
「明日の実務に関するスケジュール調整および、決裁文書の最終確認は、すでに私がすべて完了させております。代官……いえ、大公閣下」
凛とした、しかしどこか絶対零度の冷気を伴った声が響いた。
カイラ・アシュフィールドが、革張りの分厚いファイルを手にして立っていた。彼女はいつもの軍服風の執務服ではなく、動きやすさと優雅さを両立させたダークネイビーのパンツスタイルだが、その姿勢は元騎士のように一切の隙がない。
カイラは静かな足取りでテーブルに近づくと、カミラとヴィオラに対して冷ややかな視線を向けた。
「今日は歴史的な一日です。大公閣下が疲労を癒やすための時間は、当然確保されるべきですが……それは、あなた方のような無秩序な騒ぎによってもたらされるものではありません」
正論による制圧。しかし、彼女の行動はそれに伴っていなかった。
カイラは空いていた唯一のスペース――セレスティアンのすぐ斜め前、ソフィアの隣――に腰を下ろすと、ファイルをテーブルに置き、真っ直ぐに彼の三白眼を見つめた。
「閣下。首回りの筋肉が硬直しています。過度の緊張状態が続いた証拠です。私が、血流を促すマッサージを……行います。皆様は少し、お下がりください」
「カイラ、あなた実務を盾にして一番いいポジション取ろうとしてるじゃない!」
クロエが抗議の声を上げ、ヴィオラも目を細めて扇を開く。
「抜け駆けは感心しませんわね、筆頭補佐官殿。労いなら私が――」
「私はただ、閣下の健康管理を行おうとしているだけです」
女たちの視線が空中で激しく交錯し、見えない火花が散る。
「……セレスティアン? どうしたの、黙り込んで」
クロエが不思議そうに顔を覗き込み、カミラの指先が彼の顎のラインをなぞる。
彼はゆっくりと目を開け、自分を取り囲む7人の有能すぎる役員たちを見回した。彼女たちの瞳の奥にあるのは、利益や保身ではない。ただ彼という存在に対する、強烈で純粋な執着と忠誠だった。
「……好きにしろ。ただし、明日の業務開始時刻に1分でも遅れた者は、即座に減給だ」
超低音の声で、それだけを告げる。
「ふふっ、厳しい大公閣下」
「望むところですわ」
「やった!」
彼女たちの華やいだ笑い声が、夜のラウンジに溶けていく。
セレスティアンは再びグラスを手に取り、ソファーの背もたれに深く身を預けた。
視線の先では、激闘の末にようやく「紙袋」という強敵に勝利し、その中に身体を半分突っ込んだまま、静かな寝息を立て始めたポチの姿があった。
騒がしくも心地よい重みに身を任せながら、彼は琥珀色の液体を喉の奥へと流し込んだ。




