第46話 新国家のCEO就任
初夏の心地よい風が、アビス領――いや、今や「アビス大公国」となった新たな国家の心臓部である大公府を吹き抜けていく。
開け放たれた窓からは、朝から活気に満ちた街の喧騒が、力強いノイズとして途切れることなく流れ込んできた。平たく切り出された石畳を叩く重厚な荷馬車の車輪の音、商人たちが異国の言葉を交えながら威勢よく値切り交渉をする声、そして新設された工房群から響く一定のリズムの槌音。それらはすべて、このアビス大公国という巨大な経済機構が、健全かつ猛烈な勢いで稼働している証であった。
広く清潔な私室で、セレスティアンはダークネイビーの仕立ての良いスラックスに足を通し、糊の利いた白いシャツの袖口のボタンを静かに留めていた。
鏡の前で無駄のない所作でネクタイを締め上げると、視線を足元に落とす。
そこには、黒と茶色の若犬――ポチが、床に置かれた大きな木製の皿を前にして座っていた。
数ヶ月前に路地裏で拾われた小さな毛玉は、厳しい冬を越え、今や見違えるほど強靭な骨格と引き締まった筋肉を持つ若犬へと成長していた。換毛期を経て艶やかさを増した夏毛が、窓から差し込む朝の光を美しく弾いている。
皿の前に座るポチの姿勢は、以前のような全身を小刻みに震わせる仔犬のそれではない。後ろ脚をどっしりと床に下ろし、前足に均等に体重を乗せた、彫像のような完璧な「待て」の静止姿勢だった。
だが、冷静な構えとは裏腹に、皿から立ち上る匂いを嗅ぎ取る鼻先だけが、本能を抑えきれないようにヒクヒクと忙しなく動いている。
今日のポチの朝食は、港町から氷結魔法で運ばれたばかりの新鮮な鮭の切り身を香ばしく焼き、骨を1本残らず丁寧に抜いてほぐしたもの。そこに、領内の農家が育てた甘みの強いカボチャと、茹でて細かく刻んだブロッコリーを合わせ、人肌に温めたヤギのミルクをたっぷりと注いだ特製のメニューだ。
魚の香ばしさとミルクの甘い匂いが湯気と共に立ち上り、ポチの鼻腔を容赦なく刺激している。
「……よし」
セレスティアンの低く静かな許可が下りた瞬間、ポチは無駄のない滑らかな動作で皿へ顔を寄せた。
ペースト状の餌を必死に舐め取っていた頃とは違う。大きく口を開け、香ばしく焼かれた鮭の身を的確に捉えると、強くなった奥歯で力強く咀嚼し始める。ザクッ、チャクッという心地よい音が室内に響く。鼻の頭にカボチャを飛ばすような不器用さはもうなく、効率的に、かつ凄まじい速度で皿の中身を胃袋へと送り込んでいく。
それでも、食べている最中にちぎれんばかりの速度で左右に振られる短い尻尾だけは、仔犬の頃から何1つ変わっていなかった。
「ふぅーっ」
皿の底にこびりついた最後の一滴までを完全に舐め回し終えると、ポチは満足げな大きな鼻息を吐き出した。
そして、短い前足で空の皿をコトンと鳴らし、琥珀色の瞳でセレスティアンを見上げる。明確な「おかわり」の要求だった。
「だめだ。お前は最近少し腹回りが重くなっている。これ以上は運動のパフォーマンスに影響が出る」
セレスティアンは淡々と却下し、自分の朝食――もろみしぼり酢と、タンパク質を凝縮した簡易なブロック――を口に放り込んだ。健康管理と時間効率を極限まで追求した彼自身の食事は、ポチのそれとは比べ物にならないほど素っ気ない。
ポチは不満げに「ぶふっ」と鼻を鳴らしたが、主の決定が覆らないことは完全に理解しているらしく、諦めて口周りの汚れを前足で器用に拭い始めた。
★★★★★★★★★★★
大公府の最上階に位置する執務室。
そこは今、1つの国家――あるいは超巨大な多国籍企業――の中枢として、かつてないほどの熱量で稼働していた。
「……ゼノア公国を中心とする北部商業連盟から、正式な『国家承認』および『独占的通商条約』の締結申し入れが届いております。これに伴い、昨日付で王都へ向かっていた彼らの商隊はすべて、アビス大公国へと進路を変更しました」
代官補佐――いや、今や大公国主席秘書官となったカイラ・アシュフィールドが、手元の書類から顔を上げ、涼しげな瞳で報告した。彼女の細身の執務服は寸分の乱れもなく、背筋は真っ直ぐに伸びている。
「当然の判断だ」
セレスティアンはマホガニーの執務机で決裁書類に承認印を押し続けながら、視線を上げずに答える。
「王都はすでに経済的に死んでいる。利益を生まない泥船に義理立てする商人はいない。契約の精査はカミラに回せ。向こうの特権階級がこの国の特産品に依存し始めている今が、最も有利な条件を引き出せるタイミングだ。関税の優遇措置を餌に、向こうの熟練した石工や錬金術師の移住枠をさらに拡大させる条項をねじ込め」
「承知いたしました。すぐに法務部門へ通達します」
「代官様……いえ、セレスティアン大公。周辺国の特権商人たちからの投資資金が、一昨日から凄まじい勢いで流れ込んできていますわ」
カウチソファに優雅に腰を下ろしたヴィオラ・クレメントが、ルビー色の果実水を揺らしながら艶やかな笑みを浮かべた。
「独立宣言の効果は絶大でしたわね。王家という不安定なリスクが完全に排除されたことで、彼らは安心してこのアビスに金貨を投じられるようになった。クレメント商会の金庫だけでは、とても捌ききれない額ですわよ」
「資金はイレーネの第4実験区画と、南部の新物流拠点の建設に最優先で回す。金は金庫で眠らせるな。血流と同じだ。常に末端まで循環させ、労働と生産に変換しろ」
セレスティアンのペンの動きは一切止まらない。
「防諜と治安維持についても、問題ありません」
壁際の影から、ダークトーンのレザースーツに身を包んだエレナが音もなく姿を現した。
「王都から放たれたであろう3流の密偵が数名、国境付近をうろついておりましたが、私兵部隊がすべて『無力化』いたしました。……なお、王都の内部は完全に恐慌状態にあるようです。エリシア殿下の側近たちは責任のなすりつけ合いに終始しており、軍を動かせるような状況ではありません」
「放置でいい。外部からの干渉がなければ、彼らは自分たちの無能さで自壊していく」
セレスティアンは最後の1枚にサインを終えると、万年筆を静かに置いた。
そのタイミングを見計らったかのように、執務室の扉が勢いよく開いた。
「主役の準備はできてるかしら?」
愛嬌のある笑顔を浮かべたクロエ・ヴァレンタインが、手にしたバインダーをパタパタと振りながら入ってくる。
「広場の特設ステージ、音響魔導具の調整、そして周辺国の外交官たちの座席配置。すべて完璧に整えたわ。あとは、我がアビス大公国の『CEO』が、投資家と労働者たちに向けて次なる方針を示すだけよ」
セレスティアンはゆっくりと立ち上がった。
「国を名乗ろうと、王家の軛が外れようと、本質は何も変わらない」
彼は執務用のジャケットを羽織り、冷徹な三白眼で部屋の窓の向こう――活気に満ちた領都を見据えた。
「俺たちは、効率的に利益を生み出し、それを正当に分配し続けるための『法人』として機能する。それだけのことだ。……行くぞ」
★★★★★★★★★★★
アビス大公国の中心に位置する大広場。
そこには、足の踏み場もないほどの群衆が押し寄せていた。領民だけでなく、クレメント商会の流通網に乗ってやってきた各国の商人、そして独立の噂を聞きつけて駆けつけた周辺国の外交官たち。数万の人間が発する熱気は、初夏の空気をさらに熱く焦がしていた。
広場の正面に設けられた豪奢な特設ステージ。
クロエはあえて無音の演出を用いた。鐘を鳴らすことも、声を張り上げることもない。
ただ、ステージの中央へ向かって、ダークネイビーの仕立ての良いスーツを着た長身の男が歩み出ただけだった。
しかし、無駄な装飾を一切削ぎ落としたその男がそこに立つだけで、その空間の重力が変わったかのような絶対的な支配力があった。
数万の人間が発していた轟々たる喧騒が、潮が引くように自然と静まり返っていく。誰もが、これから語られる言葉を1文字たりとも聞き逃すまいと、ステージ上のセレスティアンに視線を縫い付け、息を呑んでいた。
セレスティアンは広場を見渡し、魔導具によって増幅された超低音の声を響かせた。
「アビスの民、そして各国の代表者たちに告ぐ」
感情の読めない、氷のように冷たく、しかし建物の石壁を震わせるほどに重い声。
「先日の宣言の通り、この土地は王家の軛を完全に脱し、アビス大公国として新たな歩みを始めている。だが、俺は王になるつもりも、神聖な君主として君臨するつもりもない。俺の役割は、この巨大な法人の最高経営責任者として、継続的な利益の創出と、その適正な分配をシステムとして維持し続けることだ」
広場は水を打ったように静まり返っている。
「王家による理不尽な搾取は終わった。もはや、お前たちが生み出した富を、無能な権力者の遊戯のために奪われることはない。俺が約束するのは、ただ1つの合理的な事実だ」
セレスティアンの三白眼が、群衆の最前列で働く職人や農民たちを真っ直ぐに捉える。
「お前たちの労働と知恵は、すべてお前たち自身の豊かさに直結する。価値を生み出せば、その対価は必ず支払われる。俺は、そのための土台とシステムを未来永劫保証する」
冷徹な言葉が、広場に響き渡る。
「働き、稼ぎ、消費しろ。アビス大公国は、お前たちの欲望と労働を金で買い取る」
その言葉が落ちた瞬間。
1拍の静寂の後、広場を揺るがすような凄まじい地鳴りが巻き起こった。
「うおおおおおおおっ!!」
「セレスティアン大公万歳!!」
「アビス大公国万歳!!」
数万人が天に向かって一斉に拳を突き上げ、歓喜の絶叫を上げる。
周辺国から訪れた商人たちは新たなビジネスチャンスの幕開けに目を輝かせて拍手喝采を送り、最前列の職人や農民たちは互いの肩を激しく叩き合って喜びを爆発させていた。
割れんばかりの歓声の中心で、セレスティアンの表情は一切崩れない。
彼はただ静かに群衆を見下ろしながら、頭の中で来期に向けたインフラ投資の予算配分と、他国との関税交渉のロードマップを並行して組み立て始めていた。
ステージの袖では、カイラが誇らしげに胸を張り、ヴィオラが扇の奥で妖しく微笑んでいる。
そして、大公府の執務室の窓際では、留守番を任されたポチが「わふっ!」と1声吠え、短い尻尾をパタパタと振って広場の熱狂に応えていた。




