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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第45話 アビス大公国の誕生

 初夏の風が、アビス領代官所の分厚い石壁を抜け、広く清潔な執務室を心地よく通り抜けていく。


 重厚なマホガニーの机に向かうセレスティアン・フォン・ルシフェルは、次々と運ばれてくる決裁書類に淡々と承認印を押し続けていた。

 机の右側に山のように積まれているのは、ゼノア公国を中心とした北部商業連盟や、多数の有力ギルドから届いたばかりの大量の公文書である。そのどれもが、資金繰りが完全にショートし内部崩壊を起こした王都を見限り、「アビス領を正式かつ唯一の交渉窓口として承認する」という内容だった。王室御用達の紋章ではなく、各国の実利を重んじるギルドの印が押された書類の束は、この数日間で起こった劇的なパワーバランスの変化を物理的に証明している。

 対して左側に無造作に放り出されているのは、王都から届いた数通の書状だ。使節団として訪れたエリシアとマリアンを拘束したことに対する抗議と、直ちに解放しなければ討伐軍を送るというヒステリックな脅迫文。しかし、使われている紙は市場に出回る粗悪品で、インクも薄く掠れており、最早脅威の欠片も感じられない。

 セレスティアンはそれらの脅迫状を一瞥しただけで、「裏紙として再利用」のトレイに分類し、淡々と実務に戻った。


 足元では、黒と茶色の若犬――ポチが、執務机の下で腹を上に向けて無防備に眠りこけている。

 初夏の日差しが石造りの部屋を温め始めたここ数日、ポチは最も風通しが良く、かつひんやりとした石の床が露出している場所を的確に探し出す能力を開花させていた。分厚い絨毯を器用に避け、窓からの風がちょうど抜けるセレスティアンの椅子の横に陣取っている。時折、風が運んでくる街の屋台の匂いに鼻先をピクピクとヒクつかせてはいるが、目を覚ます気配はない。


「本当に、相変わらず無駄のない動きね」


 ノックの音とともに、明るく弾んだ声が執務室に響いた。

 入ってきたのは、広報・PR統括であるクロエ・ヴァレンタインだ。

 今日の彼女はいつもの動きやすいオフィス・カジュアルではなく、初夏の爽やかさを完璧に体現するミントグリーンのサマードレスに身を包んでいた。風を孕む軽やかな生地が、彼女の豊かで女性らしい曲線を上品に包み込み、結い上げられた髪から覗く白い首筋が目を引く。


「周辺国への根回しと、新しい『看板』のお披露目準備、完全に整ったわよ」

「ご苦労だった」


 セレスティアンは万年筆を止めずに短く返した。


「カミラが他国の法務担当と徹夜で詰めてくれたおかげね。これで、あんな沈みかけの泥船の『直轄領』という足枷をつけたまま、不利な関税交渉をしなくて済むわ。諸外国のギルド連中も、早く新しい『国名』を契約書に書き込みたくてうずうずしているみたいだし」

「王家の債務不履行が確定した以上、我々の資産を保護し、対等な通商条約を結ぶためにも、独立した経済圏としての名目化は急務だ」

「ええ。だからこそ、その歴史的な瞬間の舞台装置は、私が完璧に仕上げてきたわ」


 クロエは机の前に歩み寄り、両手をついてセレスティアンの顔を覗き込む。


「時間は午後2時。それまで少し時間があるわ。最終確認も兼ねて、私をエスコートしなさい」


★★★★★★★★★★★


 2人が代官所を出て大通りに出ると、初夏の陽光に照らされた街の熱気が直接肌に打ち付けてきた。

 ダークネイビーのスーツをラフに着崩したセレスティアンと、洗練されたドレス姿のクロエ。

 領都のメインストリートを行き交う領民や商人たちは、2人の姿に気づくとパッと顔を輝かせるが、大袈裟に騒ぎ立てることはなかった。彼らは自分たちの手にある商品や取引相手から目を離さず、すれ違いざまに深く、しかし素早く実務的な敬意を込めた会釈を送るだけだ。

 王都のように権力者を恐れて平伏し、過剰に道を譲るような不毛な儀式はここにはない。あるのは、自分たちの生活を圧倒的に豊かにしてくれた「有能な経営者」に対する、純粋な信頼と合理的な対応だった。


「……良い街になったわね」


 クロエはセレスティアンの右腕に自然な動作で自分の腕を絡めながら、周囲の喧騒を楽しげに見回した。


「最初の頃は、ただ目先の金貨に浮かれているだけだった。でも今は、誰もが『明日もこの街で稼ぐ』という前提で動いている。根無し草だった異国の商人たちが、この土地に根を張り始めているわ。昨日発行した特報の号外も、周辺国で飛ぶように売れているそうよ」

「インフラへの投資と、法による保護を約束した結果だ。人は、自分の資産と権利が論理的に守られる場所にしか定着しない」


 セレスティアンは歩調を変えず、新設された巨大な倉庫群の前に並ぶ荷馬車の列と、整備された排水路の稼働状況を確認しながら答えた。


「可愛げのない返し。少しは私のプロモーションの効果だと認めたらどう?」


 クロエは小さく唇を尖らせたが、その表情は心底楽しそうだった。


 大通りを抜け、新設された高級商業区のカフェに入り、テラス席に落ち着く。

 冷たく冷やされた果実水が運ばれてくると、クロエはストローに口をつけ、広場の向こうで着々と進む「宣言」のための舞台設営を見つめた。


「……王都の劇場で、馬鹿な貴族たちを相手に愛嬌を振りまいていた頃が、ずっと昔のことのように思えるわ」


 彼女の大きな瞳が、微かに細められる。


「あの頃の私は、自分の才能をすり減らして、誰かの暇つぶしのための虚像を作っていた。でも今は違う。私たちが作り上げるこの熱狂は、現実の経済を回し、人々の生活を根底から作り変えている。……最高の劇場ね」

「感傷に浸るのは勝手だが、まだ何も始まっていない」


 セレスティアンはグラスの冷たい表面についた水滴を指先でなぞった。


「これはただの地固めだ。王家という負債を完全に切り捨て、独自の通貨発行権と関税自主権を手に入れた後、周辺国という巨大な市場との本格的な競争が始まる」

「わかっているわよ。だからこそ、最高の幕開けにするんじゃない」


★★★★★★★★★★★


 午後2時。

 領都の中央に新設された巨大な石造りの広場には、圧倒的な数の群衆が押し寄せていた。

 領民たちだけでなく、クレメント商会を通じて滞在している各国の特権商人たち、さらには近隣の村々から集まった労働者たちで、広場は足の踏み場もないほどに埋め尽くされている。遠くに見える新設された工房群からは、今日も魔導炉の煙が絶え間なく立ち上り、この領地の尽きることのない生産力を示していた。

 ざわめきが波のように広場を揺らす中、代官所のバルコニーにセレスティアンが姿を現した。


 彼がバルコニーの縁に手をかけた瞬間、クロエが裏で仕込んでいた数カ所の魔導拡声器から、低く重厚な鐘の音が鳴り響く。

 それを合図に、広場を埋め尽くしていた群衆の喧騒が嘘のように静まり返った。

 何千という数の視線が、ただ1人の男に縫い付けられる。


 セレスティアンは広場を見下ろした。

 冷徹な三白眼は、熱狂に身を委ねようとする民衆の顔を感情的に捉えることはない。彼が見ているのは、これから生み出される莫大な利益と、それを支える巨大な経済機構を構成する歯車の集合体だった。


「通達する」


 魔導具によって増幅された超低音の声が、領都の隅々にまで物理的な重さを持って響き渡る。


「現時刻をもって、王家による当領地に対する一切の管轄権、および徴税権の消滅を宣言する。王国の国庫は事実上の債務不履行に陥り、国家としての経済機能は完全に停止した。これ以上、あの泥船に我々が生み出した利益を吸い上げさせる理由は存在しない」


 広場に、どよめきが静かに、しかし確実に広がっていく。

 誰もが薄々感づいていたこととはいえ、公の場で王家の崩壊と完全なる決別が断言された衝撃は計り知れない。商人たちは息を呑み、領民たちは隣り合う者の顔を無言で見合わせた。


「我々はこれより、旧王国の負債と腐敗から完全に切り離された、独立した経済圏として機能する。関税の撤廃、特許の絶対的な保護、そして正当な労働に対する対価の支払い。現行の制度はすべて維持され、さらに拡充される」


 セレスティアンは言葉を切り、広場を埋め尽くす群衆の目を見据えた。


「この地に、略奪するだけの王族はもういない。あるのは、富を生み出す明確なルールと、それに応える者への確実な報酬だけだ」


 彼が右手を軽く上げると、バルコニーの背後に控えていたカイラとヴィオラが、新しい紋章の描かれた巨大な旗を静かに降ろした。

 ルシフェル公爵家の紋章でも、王家の双頭の鷲でもない。この辺境で新たに生まれた、歯車と剣を組み合わせた洗練された意匠が、初夏の風を孕んで大きくはためく。


「今日この瞬間より、この地は『アビス大公国』となる」


 セレスティアンの声が、広場を完全に支配する。


「俺の論理に従い、利益を生み出す意志のある者だけが、この国の恩恵を享受しろ」


 バルコニーから放たれたその宣告は、広場に集まったすべての人々の胸に重く突き刺さった。

 一瞬の静寂。

 風が新しい旗をはためかせる音だけが、不自然なほど大きく聞こえる。

 誰もがその言葉の圧倒的な重みと、歴史が完全に塗り替えられたという事実に縫い留められ、声を発することすら忘れていた。飢えと搾取の時代が永遠に終わり、自分たちの労働が確実に富に変わるという絶対的な保証。歓声を上げる隙すら与えない、冷徹で完璧な論理の提示がそこにはあった。


 張り詰めた沈黙を背に受けながら、セレスティアンは静かに踵を返した。

 バルコニーの奥では、待ち構えていたクロエがイタズラっぽく目を細め、完璧な愛嬌のある笑みを浮かべて彼を迎える。


「最高の宣誓ね、初代大公閣下。みんな、衝撃で息が止まっていたわよ」

「ただの事実確認の場だ」


 セレスティアンはネクタイをわずかに緩め、執務室へと続く廊下へ歩を進めた。


「行くぞ。各国のギルドとの為替の設定会議が待っている」

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