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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第44話 経営権の剥奪

 アビス領代官所、最上階の奥に位置する賓客用の特別応接室。

 分厚いオーク材の扉によって外部の喧騒から完全に遮断されたその空間は、極上の調度品で整えられているにもかかわらず、まるで冷水の中に沈められたかのような息苦しい静寂に満たされていた。


 王都からの使節団としてこの地に足を踏み入れたエリシアとマリアンが、事実上の軟禁状態に置かれてから数日が経過していた。

 窓の外からは、経済特区として爆発的な発展を遂げているアビス領の活気に満ちた喧騒が、絶え間なく響いてくる。しかし、この部屋の中に王都からの吉報が届くことは一度としてなかった。


 ソファーに深く沈み込んでいるエリシアは、虚ろな目で宙を見つめていた。

 到着した日に着ていた豪奢なドレスは、着替える気力すら失われたのかシワが刻まれ、完璧に結い上げられていたはずの金糸の髪も乱れたままだ。数日間の不眠と絶望が、彼女の顔から血の気を奪い、目の下には濃い隈を落としている。


 静寂を破り、重い扉が金属的な音を立てて開いた。

 入ってきたのは、ダークネイビーの執務用スーツを身に纏ったセレスティアン・フォン・ルシフェルだった。彼の背後には、代官補佐のカイラと、監査役のソフィアが冷ややかな視線を伴って続いている。


 セレスティアンはエリシアたちが座るテーブルの向かいに腰を下ろすと、手元にあった数枚の羊皮紙を無造作に滑らせた。


「数日前に通達した通り、王立銀行のデフォルト宣告に伴う猶予期間は、昨夜をもって完全に終了した」


 感情の読めない超低音の声が、石造りの床を這うように響く。

 エリシアの肩がビクッと跳ねた。


「クレメント商会を含む周辺国の特権ギルド連合は、王家の所有するすべての土地、施設、および動産の差し押さえ手続きに移行した。未払い給与に耐えかねた近衛騎士団は事実上解散状態となり、一部の兵士は暴徒と化して王都の貴族街で略奪を始めている。……もはや、あそこに国家としての機能は存在しない」


 セレスティアンは瞬き一つせず、この数日間で確定した事実だけを羅列していく。


「嘘よ……そんなの、全部嘘に決まっているわ」


 エリシアが両手でテーブルの端を掴み、ひび割れた声を上げた。焦点の定まらない目でセレスティアンを睨みつけ、迫り来る現実から逃れようとするかのように首を横に振る。


「数日で国が滅ぶなんて、あるはずがない! 私は王女よ! 領民も、騎士も、商人も、すべて私に仕えるために存在しているのよ! あなたが裏で手を回して、偽の情報を流しているだけでしょう!?」

「偽の情報かどうか、その書類の署名を見ればわかるはずだ」


 セレスティアンの静かな声が、彼女の叫びを物理的に断ち切る。

 テーブルの上の書類には、王都の法務局長や財務大臣、果てはエリシアの父である国王自身の震えるサインが記された「債務不履行の承認書」が含まれていた。


「あ……っ、ああ……っ」


 エリシアの真っ赤に塗られた唇から、空気が漏れるような音が鳴る。

 彼女の目は大きく見開かれ、握りしめられた両手は白く鬱血し、小刻みに震えていた。


「国とは、そこに住み、働き、価値を生み出す者たちの集合体だ」


 セレスティアンは冷徹な三白眼で、錯乱するかつての妻を真っ直ぐに見据えた。


「王室という経営陣は、その集合体を維持し、発展させ、現場に利益を還元するために機能する役割にすぎない。感情で無計画な浪費を繰り返し、必要な投資を怠り、従業員である領民や兵士の生活を破綻させた。……赤字を垂れ流し、組織を不渡りの危機に陥れた経営陣が取るべき行動は1つしかない」


 セレスティアンは静かに、しかし絶対的な重みを持って宣告した。


「無能な経営陣は、速やかに退陣すべきだ。これ以上、王国の資産と人命を食い潰す前に、すべての実権を放棄しろ」


 その言葉が落ちた瞬間、エリシアを支えていた最後の糸が切れた。

 彼女は力なくソファーから滑り落ち、冷たい床の上に両膝をついて顔を覆い、くぐもった嗚咽を漏らし始めた。


「ぼ、僕には関係ありません!」


 突如、沈黙を破って甲高い声が響いた。

 エリシアの背後に控えていた側近、男爵令息のマリアンだった。彼は床に泣き崩れる主君を助け起こそうともせず、恐怖に顔を引き攣らせながら後ずさった。


「正規軍を動かしてこの代官所を制圧するなどという暴挙、僕は止めたんです! 確かに一案としては口にしましたが、本気で実行するなんて思わなかった! 実際に全軍を動かす決定を下したのはエリシア殿下ご自身だ! 僕は一介の側近にすぎない、逆らえるはずがないじゃないですか!」


 直前までエリシアにすり寄り、辺境への侵攻を唆していた男の、あまりにも醜い保身だった。

 マリアンは革靴の踵を鳴らし、会議室の重厚なオーク材の扉へと一目散に駆け出した。


「僕は王都へ戻る! 実家へ帰らせていただきます!」


 マリアンが扉の取っ手に手をかけ、体重を乗せて引き開けようとした、その時だった。

 音もなく伸びてきた手が、彼の腕を掴んだ。


「あら。まだ話し合いの途中なのに、無断退席は感心しないわね」


 何もないはずの扉の横の影から、静かな声が響いた。


「なっ、離せ……!」


 マリアンが振り払おうとした腕を、相手は最小限の動きで絡め取り、体重を利用して彼の背中側へ捻り上げた。


「ぎゃああっ!?」

「静かに。関節の構造を無視して暴れれば、腕が千切れるわよ。……それとも、千切ってあげた方が大人しくなるかしら?」


 ダークトーンのレザースーツに身を包んだエレナが、氷のように冷たい微笑を浮かべながらマリアンを床に這いつくばらせていた。プロの暗殺者である彼女の動きには、一切の淀みも無駄もない。マリアンは悲鳴を上げることもできず、冷たい石の床に顔を押し付けられ、ヒクヒクと痙攣するように呼吸を荒らげた。


 エレナはマリアンの背中を片膝で軽く押さえつけたまま、セレスティアンの方へ視線を向ける。


「彼名義でクレメント商会から引き出されていた王国資金の横領の証拠、すでにソフィアが裏ルートで完全に押さえてるわ」

「ええ。口座の履歴から、私兵を雇うための裏帳簿まで、全部揃ってるわよ」


 壁際でソフィアが手元の羊皮紙をパチンと弾き、青緑色の瞳を冷酷に光らせた。


 セレスティアンは表情を変えずに応じた。


「カイラ。彼らを地下の賓客用拘置室へ移せ。手荒な真似はするな、あくまで法的な手続きが完了するまでの保護だ」

「はっ」


 カイラが短い返事とともに素早く衛兵を呼び込む。彼女の無駄のない指示により、泣き崩れるエリシアと、床に押さえつけられたマリアンが速やかに拘束され、部屋から引き立てられていく。


「離しなさい! 私は王女よ! こんなこと、許されると……っ」


 喚き散らすエリシアの声は、重いオーク材の扉が閉まる音とともに完全に遮断された。


 セレスティアンは立ち上がり、テーブルの上に残された同意書を無造作に揃え、ソフィアへと手渡した。


「王都の法務局と、債権者である周辺国のギルドへ向けて書状を発送しろ。『王家の財務破綻による全債務のデフォルト確定』および『現経営陣の実質的解体』の最終通達だ。カミラと連携し、事後処理の主導権はこちらで握る」

「了解。もう配送の手配は済ませてあるわ」


 セレスティアンは上着の袖口のボタンを留め直し、静かに息を吐いた。


「今日の業務はここまでとする。各員、解散しろ」


★★★★★★★★★★★


 夜の帳が下りた代官所。

 セレスティアンは広く清潔な私室の前に立ち、無意識に首の後ろを揉みほぐした。

 重い木製の扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


「くぅーん、ひゃぅ、ぐるる……っ」


 扉がわずかに開いた隙間から、床のフローリングをシャカシャカと掻き鳴らす忙しない音が漏れ出た。

 黒と茶色の被毛に覆われた毛玉――ポチだった。

 厳しい冬を越え、立派な若犬へと骨格が成長しつつあるポチは、主の足音を察知して扉のすぐ前で待機していたらしい。


 ポチは前足をピシッと揃え、腰を落として「お座り」の姿勢を維持している。だが、その姿勢のまま短い尻尾だけが目にも留まらぬ速さで左右に振られ、床をパタパタと激しく叩き続けていた。琥珀色の丸い瞳はセレスティアンを真っ直ぐに見つめ、鼻腔からは興奮を抑えきれない荒い息が漏れている。


 セレスティアンは扉を閉め、ゆっくりとネクタイを緩めた。

 そして、冷たいフローリングの床に片膝をつき、両手を広げる。


「……ただいま」


 低く、穏やかな声だった。

 その言葉を聞いた瞬間、ポチは弾かれたように床を蹴った。


「わふっ!」


 短い吠え声とともにセレスティアンの広い胸元へ一直線に飛び込み、そのまま顔中を舐め回し始める。


「おい、やめろ。痛い、爪が立っている」


 口では咎めながらも、彼の声に怒気はない。セレスティアンは少し不器用な手つきで、ポチの耳の裏や首筋をゆっくりと撫でた。


 手のひらに伝わる温かい体温。トクトクと力強く打つ鼓動。

 彼はポチの柔らかい腹のあたりをポンポンと軽く叩き、首元に顔を押し付けてくるその勢いを適度にいなしながら、ゆっくりと立ち上がった。


「腹が減ったか。今日は、厨房から肉を持ってきた」


 セレスティアンが上着のポケットから油紙に包まれた塊を取り出すと、ポチはそれに気づいてさらに興奮し、彼のブーツの周りをくるくると回り始めた。


「待て。今皿に入れる」


 油紙を開くと、香ばしく焼かれた肉の匂いがふわりと広がる。ポチの鼻先がピクピクと動き、琥珀色の瞳はもはや肉の塊にしか向けられていない。

 セレスティアンが木製の皿に肉を移すと、ポチは彼の合図を待つために、全身をプルプルと震わせながら必死に「待て」の姿勢を維持しようとする。その健気な姿に、セレスティアンは短く息を吐き、静かに「よし」と声をかけた。


 ポチは弾かれたように皿に顔を突っ込み、脇目も振らずに肉を咀嚼し始めた。

 セレスティアンは上着を椅子に掛け、勢いよく食事をする小さな背中を、静かな眼差しで見下ろしていた。

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