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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第43話 完全論破

 アビス領の領都の中央にそびえ立つ代官所。

 その最上階に設けられた会議室は、分厚い石壁と重厚なオーク材の扉によって完全に外部の喧騒から遮断されていた。広い室内の中央には磨き上げられた長大な円卓が鎮座し、壁際に配置された魔導灯が冷たい光を落としている。その厳粛な空間で、一人の女の絶叫が虚しく反響した。


「……騎士団がすぐにでもこの領地を火の海に、ですか」


 エリシアのひび割れた声が響き、やがて冷たい沈黙に飲み込まれて消えた。

 かつて王都の社交界で最も華やかだと称賛された彼女のドレスは、長旅の埃と疲労で本来の輝きを失い、細かな刺繍には無惨なシワが寄っている。完璧に結い上げられていたはずの金糸の髪も数本が後れ毛となって頬に張り付き、彼女の焦燥と余裕のなさを生々しく物語っていた。

 対して、円卓の上座に座るセレスティアンは微動だにせず、氷のような三白眼でかつての妻を見下ろした。その声には嘲りも怒りもなく、ただ事務的な報告を読み上げるような響きしかなかった。


「その騎士団が乗る馬の飼葉すら、現在の王都の市場には残っていないはずだが」

「……え?」


 エリシアの真っ赤に塗られた唇から、間の抜けた音が漏れた。彼女の目は大きく見開かれ、セレスティアンが何を言っているのか全く理解できていないようだった。

 その反応を待っていたかのように、セレスティアンの斜め後ろに控えていたヴィオラが、手にした美しい羽根扇をパチンと優雅な音を立てて閉じた。


「お気づきではありませんの? 王都の市場から、小麦、保存肉、そして防衛機構の稼働に必要な魔石の供給が、この1ヶ月で激減していることに」


 ヴィオラの声は甘く、しかし獲物を完全に包囲したことを確信している残酷さを帯びていた。


「王都周辺の穀倉地帯は、度重なる徴兵と無計画な税の取り立てで完全に機能不全に陥っています。さらに、北方からの魔石の流通を我々がストップさせたことで、城の暖房機能すらままならない状態でしょう? 報告書によれば、末端の役人の給与すら遅配が続いているとか」

「な……、嘘よ。そんな報告、私は一切聞いて……! マリアン! あなた、王都の物資は潤沢だと、商会からの納入は滞りなく行われていると報告したじゃない!」


 エリシアが金切り声で振り返ると、背後に控えていた側近のマリアンは顔を青ざめさせ、しどろもどろに後ずさった。虚偽の報告を上げ、現実から目を背けさせていた取り巻きの浅薄さが、ここにきて致命的な結果をもたらしたのだ。

 ヴィオラは容赦なく事実を突きつける。


「私どもクレメント商会は、利益の薄い王都への物資供給を『調整』させていただいております。現在の王都の物価は平時の5倍。給与の支払われない末端の兵士たちは、すでに自らの剣や鎧を裏市場に流し、その日のパンを買っている有様ですわ。そのような飢えと不満に満ちた烏合の衆が、この強固な防壁と潤沢な物資を持つアビス領へ、数週間の行軍を経て無事に到達できるとお思いで?」

「あ……、あぁ……」


 ヴィオラが扇の先で軽く円卓を叩く。

 その硬質な音が合図であったかのように、エリシアは足元が崩れ落ちたように数歩後ずさった。椅子の背もたれにすがりつく彼女の顔面は、分厚い化粧の下で紙のように蒼白に染まっていた。かすかに震える手は、もはや彼女の持つ権力が完全に幻であることを示していた。


「……控えよ、一介の商人が。王女殿下に対し、不敬が過ぎるぞ」


 凍りついた空気を破ったのは、これまで目を閉じて腕を組んでいたルシフェル公爵だった。

 かつてのセレスティアンの父親であり、王国でも屈指の権力を持つはずの大貴族。彼はゆっくりと立ち上がり、冷厳な顔つきでセレスティアンを睨みつけた。その目には、目の前の現実を受け入れようとしない、古い権威主義者の傲慢さが色濃く宿っていた。


「セレスティアン。お前のその傲慢な態度は、ルシフェル家の名に泥を塗る行為だ。いくら辺境で小銭を稼ごうと、貴族としての矜持を忘れたか」

「……矜持、だと?」

「そうだ。我々大貴族は、王家を支え、領民を導く義務がある。お前がここで築き上げた財や技術は、本来ルシフェル家と王家に捧げられるべきものだ。それを独占し、あまつさえ王女殿下に牙を剥くとは言語道断。私はルシフェル公爵家当主として命じる。今すぐその無礼な態度を改め、王家の窮地を救うための資金と技術を供出せよ。そうすれば、私が王家との間を取り持ち、お前を再び家門に迎え入れてやろう。この辺境の泥に塗れた生活から、這い上がる最後の機会だと思え」


 セレスティアンは瞬き一つせず、眼前に立つ父親を見つめ返した。その視線には、かつて実家から無慈悲に切り捨てられたことに対する怨嗟の欠片すら存在しない。


「あなたは3年前、ルシフェル家の利益を守るため、何の躊躇いもなく俺を切り捨てた。それは当時の判断としては合理的だったのだろう。……だが、今のあなたは、目の前の数字の計算すらできないただの無能だ」

「き、貴様……父親に向かって……!」

「まあ、滑稽なこと」


 激昂しかけた公爵の言葉を遮り、カミラ・フォン・ローゼンベルクが艶やかな笑い声を上げた。

 彼女は優雅な足取りで円卓に近づくと、手にしていた分厚い革装丁のファイルを無造作に中央へ放り投げた。ズシン、と重い書類がテーブルを滑る音が、広々とした会議室に響き渡る。


「ご自身の足元が、すでに崩れ落ちていることにもお気づきでないのですね。家門に迎え入れる? 泥に塗れた生活? ……社交界のサロンでの冗談にしては、少々笑えませんわ。現実を見据える能力が完全に欠如していらっしゃる」

「なんだと……? 貴様、ローゼンベルクの未亡人か。公爵家である私に口を出すか!」

「ええ、出させていただきますわ。なぜなら、私が現在のあなたの最大の債権者だからですもの」


 カミラの言葉に、公爵の動きがピタリと止まった。


「公爵家が主な収入源としていた東部の鉱山開発権。あれは先月、度重なる債務不履行により、ゼノア公国のギルドに差し押さえられましたわね。さらに、王都の一等地にある複数の邸宅も、抵当に入ったまま利息の支払いが滞っている。そして、そのギルドと金融業者の筆頭出資者は……」

「私どもの商会ですわ」


 ヴィオラが滑らかに引き取る。公爵の顔から、急速に余裕と威厳が消え去った。

 カミラはさらに言葉を重ねる。


「加えて、公爵家が抱える莫大な負債の債権は、複数の商会や闇の仲買人を経由して、現在すべてこのアビス領の法務局が管理しております。書類の手続きは、昨日の夕刻に完了いたしましたわ。……ご自身の目で、そのファイルをお確かめになっては?」


 公爵は弾かれたように円卓の中央へ手を伸ばした。しかし、彼の指先はわずかに震えており、分厚いファイルの表紙をうまく捲ることができない。何度か指が空を切り、やがて彼は力なく手を止め、その場に立ち尽くした。


「つまり――すでに公爵家は、我がアビス領の経済圏に完全に飲み込まれた傘下にすぎないのです。全ての首根っこを握られている債務者であるあなたが、一体どの口で、こちらの代官様に命令を?」

「ば、馬鹿な……。ルシフェル公爵家が、こんな辺境の代官などに……そ、そんなはずが……!」


 虚空を見つめて呟き続ける公爵から視線を外し、セレスティアンは手元の懐中時計を一瞥した。


「感情と建前でしか動けない無能に、これ以上割く時間はない」


 冷徹な声が、会議室に静かに響く。


「帰りの馬車の車輪が壊れる前に、王都へ戻ることだな。そして、自らが作り出した破滅の泥の中で足掻くがいい」


★★★★★★★★★★★


 数日後の夕刻。

 アビス領の領都、高級商業区に新設された会員制レストランの個室。


 防音の施された厚い扉が閉まると、大通りを行き交う商人たちの喧騒が嘘のように遠ざかった。天井から吊るされた琥珀色の魔導灯が、磨き上げられたオーク材のテーブルと、クリスタルグラスに柔らかな光の輪を落としている。室内には、微かに暖炉の薪が爆ぜる音と、静かな弦楽器の生演奏だけが流れていた。


 セレスティアンは、ダークネイビーの仕立ての良いジャケットを羽織り、静かにグラスを傾けていた。休日の私服とはいえ、その背筋は伸び、ネクタイの結び目からカフスの位置に至るまで、一切の隙を感じさせない。彼の冷徹な三白眼は、目の前の絶世の美女を前にしても微塵も揺らぐことはなかった。

 円卓を挟んだ向かいの席では、深いボルドーレッドのイブニングドレスを纏ったカミラが、細い指でグラスの脚をなぞっていた。胸元が大胆に開いたそのドレスは、王都の保守的な夜会では決して許されないであろう前衛的なデザインだが、彼女の持つ大人の色香と完全に調和し、暴力的なまでの魅力を放っている。結い上げられた髪の隙間から、高価な宝石があしらわれた耳飾りが妖しく光った。


「あの時の、あなたのお父様とエリシア殿下の顔。……とても良いものを見せてもらったわ」


 カミラはグラスの縁に口をつけ、ルビー色のワインを一口含むと、心地よさそうに目を細めた。


「彼らは、領地が奪われるのは剣と魔法によるものだと信じて疑っていなかった。紙とインクで外堀が埋められていることに、首を完全に絞められる瞬間まで気づかなかったのよ」

「お前が的確に急所を突いた結果だ。ご苦労だったな」


 セレスティアンは感情の読めない超低音の声で短く返し、手元に運ばれてきた鹿肉のローストにナイフを入れた。

 完璧な火入れが施された肉は、ナイフの重みだけで滑らかに切れていく。添えられたソースは、この領地で新たに栽培に成功した甘みのある果実と、深いコクを持つ赤ワインを煮詰めたものだ。口に運べば、鹿肉特有の野性味をソースの甘酸っぱさが包み込み、噛むほどに濃厚な旨味が溢れ出す。


「王都の貴族たちは、借金というものの恐ろしさを全く理解していなかっただけよ。数字は嘘をつかない。それを彼らの目の前に並べて差し上げただけですもの」


 カミラは一口サイズの肉を優雅に口へ運び、満足げに微笑んだ。


「でも、王都の男たちは、女の私を厄介な未亡人か、せいぜい社交界の飾り物としてしか見ていなかった。私がどれほど緻密な計画を立て、数字を提示しても、彼らは最後に必ず女の浅知恵だと嘲笑って、自らの無能な判断を優先したわ。……私の用意した数字と計算をここまで正確に読み解き、全権を委ねて盤面に組み込んでくれたのは、あなたが初めてよ」


 彼女は席を立ち、セレスティアンの隣へとゆっくり歩み寄った。

 高級な香水の甘く重い香りが、ふわりと彼の鼻腔をくすぐる。カミラは彼の椅子の背にそっと手を置き、顔を近づけた。


「ねえ、セレスティアン。王都という最大の障害が消え去った今、このアビス領の次の一手は、何かしら?」


 耳元で囁かれる声。

 しかし、セレスティアンは動じることなく、静かにフォークを置いた。


「まずは、領内のインフラの最終調整と、冬に向けた物流路の再構築だ。盤面が広がった分、足元の基礎をさらに強固にする必要がある。……それに」


 彼はわずかに視線を外し、窓の外の夜の街を一瞥した。眼下には、無数の魔導灯が青白く輝き、夜になっても眠らない巨大な経済特区の脈動が広がっている。しかし、彼の意識はもっと身近な、日常のささやかな風景へと向かっていた。


「帰りが遅くなると、新しい革靴の踵をダメにされる恐れがあるからな」

「……ふふっ」


 カミラは堪えきれないように吹き出し、肩を揺らして笑声を上げた。


「本当に、あなたという人は……。底知れない冷血漢のくせに、変なところで律儀なのね。いいわ、そういうところも嫌いじゃない」


 カミラは彼のジャケットの襟に軽く触れ、指先でわずかなシワを伸ばした。香水の甘い香りが一瞬だけ強く香り、彼女はスッと元の位置へ戻る。そして自身のグラスを取り上げると、セレスティアンのグラスに軽く打ち合わせた。

 涼やかなガラスの音が、静かな個室に溶けていく。二人は言葉を交わすことなく、それぞれのグラスを静かに傾けた。最高級のワインの芳醇な香りが、勝利の余韻とともに心地よく喉を落ちていった。

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