第42話 最後の監査
初夏の澄んだ空気が、アビス領代官所の分厚い石壁を抜け、広く清潔な私室に満ちていた。
開け放たれた窓からは、活気づく領都の喧騒が心地よいノイズとして途切れることなく流れ込んでくる。石畳を叩く重厚な荷馬車の車輪の音、商人たちが異国の言葉を交えながら威勢よく値切り交渉をする声、そして新設された工房群から響く一定のリズムの槌音。それらはすべて、このアビス領という巨大な経済機構が、健全かつ猛烈な勢いで稼働している証であった。
セレスティアン・フォン・ルシフェルは、鏡の前でダークネイビーの仕立ての良いスラックスに足を通し、糊の利いた白いシャツの袖口のボタンを静かに留めた。無駄のない所作でネクタイを締め上げると、冷徹な三白眼を持つ自身の顔が鏡の中に映し出される。
彼の視線は鏡から離れ、部屋の床に置かれた平たい木製の皿と、その周囲を忙しなく嗅ぎ回っている黒と茶色の毛玉――ポチへと注がれた。
皿の中には、厨房から運ばせた朝食の端材が盛られている。港町から氷結魔法で運ばれた新鮮な真鱈の白身を丁寧にほぐし、領内で採れた甘みの強い根菜のペーストと、人肌に温めたヤギのミルクをたっぷりと混ぜ合わせたものだ。魚介とミルクの甘い匂いが湯気と共に立ち上り、ポチの鼻腔を容赦なく刺激している。
ポチは、まだ皿に顔を突っ込むことはしない。熱いものを警戒する賢さを覚えつつあるのか、まずは鼻先をゆっくりと近づけ、小刻みにふんすふんすと匂いを確認している。琥珀色の丸い瞳が、ペーストの表面とセレスティアンの顔を交互に見上げた。
「食べていいのか」と問うようなその仕草に、セレスティアンは無言で頷く。
許可が下りた瞬間、ポチはようやくピンク色の小さな舌を出し、ミルクの端をぺろりと舐めた。適温であることを理解した途端、その動作は一気に加速した。
「ぴちゃっ、ちゃっぷ、ふんすっ」
顔全体を皿に近づけ、無心でペーストを舐め取る。夢中になるあまり、鼻の頭には白いミルクの泡がべったりと張り付いていた。時折、焦って飲み込みすぎたのか「けふっ」と小さくむせるが、それでも食べるのをやめようとはしない。
セレスティアンは床に片膝をつき、むせているポチの背中を大きな手のひらでゆっくりと撫でた。手に伝わる鼓動は力強く、柔らかい冬毛から生え変わりつつある被毛は艶やかで温かい。
前世、黒川理人として過労で命を落としたあの冷たいデスクの上では、決して得られなかった時間。この無防備な命の温もりを守るためならば、自らの能力を際限なく行使することに何の躊躇いもなかった。
時計を確認し、セレスティアンは上着を羽織る。
部屋の扉を開けると、そこには代官補佐のカイラ・アシュフィールドが、一切の隙のない姿勢で静かに控えていた。彼女の軍服風の執務服には一点のシワもなく、腰に帯びた剣は完璧に手入れされている。
「おはようございます、代官様。王都からの使節団は、すでに第一応接室にてお待ちです」
「ああ。行くぞ」
二人の足音が、冷たい石造りの廊下に規則正しく響き始めた。
★★★★★★★★★★★
代官所の中枢に位置する、最も重厚な造りの第一応接室。
カイラが扉を開け、セレスティアンが中に足を踏み入れた瞬間、室内の空気が一変した。
分厚いオーク材の長机を挟んだ対面には、王家の紋章が刺繍された豪奢なドレスを纏ったエリシア第一王女が座っていた。だが、その姿にかつての王都で見せていたような圧倒的な威光はない。長旅による劣悪な馬車の揺れと、資金不足による質の悪い宿での滞在が、彼女の顔に隠しきれない疲労の色を濃く落としていた。分厚い化粧で覆ってはいるものの、目元には苛立ちと焦燥感が深く刻み込まれている。
その隣には、彼女の側近であり愛人でもある青年貴族、マリアン・ダルトワが座っていた。彼もまた最高級のシルクの服を着てはいるものの、手入れが行き届いていないため袖口には微かな汚れが目立つ。彼は神経質そうに、銀の細工が施された男性用の護身扇を指先で弄っていた。
そしてエリシアの反対側には、ルシフェル公爵家の当主――セレスティアンの実父が、能面のように感情を殺した顔で目を閉じ、腕を組んで座っている。
セレスティアンが上座に腰を下ろし、その背後にカイラが控える。彼女は剣の柄に手こそかけていないものの、放たれる静かな威圧感は王都の近衛騎士すら完全に凌駕していた。
エリシアは苛立たしげにテーブルを長い爪で叩いた。
「昨夜の食事は……まあ、辺境にしては努力していたようね。素材は粗末だったけれど、味付けだけは悪くなかったわ」
上ずった声で言い放つ彼女の言葉には、不自然なほどの傲慢さが張り付いている。
「本題に入りましょう。セレスティアン」
エリシアは顎を高く上げ、まるで慈悲を与えるかのように薄く笑った。
「この数ヶ月、辺境の地で泥に塗れる反省の時間は十分に与えてあげたわ。そろそろ、王都に戻ってきなさい。私の補佐として、あの乱れた財務を立て直すことを、特別に許してあげる」
セレスティアンは感情を交えない冷たい三白眼で、かつての妻を見据えた。
「俺を王都へ戻し、何をさせるつもりだ」
「決まっているでしょう。あの無能な文官たちがぐちゃぐちゃにした財務を計算し直して、すぐに金を手配しなさい。近衛騎士団が給与の遅配で騒ぎ立てて、実質的なストライキを起こしているのよ。それに、周辺国からの輸入品がすべて高騰して、王都の物価が異常なことになっているわ。あなたが戻って、元通りに統制しなさい」
セレスティアンは短く息を吐き、背後のカイラへ視線だけで合図を送った。
カイラが無言で一歩前に進み出ると、分厚い革張りのファイルと数枚の羊皮紙をテーブルの中央へ置いた。
「計算し直すまでもない。王家の金庫には、すでに軍を動かすための資金は1枚の銅貨すら残っていない」
「な……何を馬鹿なことを。王家の財が尽きるはずが……」
「ソフィア」
セレスティアンが短く呼ぶと、音もなく応接室の奥の扉が開き、情報統括の特命を帯びたソフィア・ランカスターが姿を現した。小柄な少女は、感情の読めない青緑色の瞳をエリシアとマリアンに向けた。
彼女は手元の書類を一切見ることなく、完全に記憶された数値を淡々と読み上げ始めた。
「昨年度、王家特別会計からの不自然な資金流出。総額、金貨42万枚。流出先はすべて、マリアン・ダルトワの親族が名義人になっている3つのダミー商会よ。そこからさらに王都の高級サロンや宝飾ギルドへ資金が分散しているけど、最終的な消費者はエリシア殿下とマリアン殿の個人的な遊興費、および強硬派貴族への非公式な根回し資金として完全に一致するわ」
マリアンの手から銀細工の扇が滑り落ち、カランと乾いた音を立ててオーク材のテーブルを滑った。
「で、でたらめです……っ! そのような数字、一体どこから……!」
細身の青年貴族は顔面を蒼白にさせ、椅子から半ば立ち上がりかけた。
ソフィアは彼を一瞥すらせず、冷たく言葉を継いだ。
「王家直属の監査局の地下書庫から、直接原本を押さえたわよ。インクの成分分析、決済欄に押されたエリシア殿下の承認印の筆圧鑑定も済んでいるわ。……もう、言い逃れはできないわね」
応接室の温度が急速に下がっていく。
セレスティアンは低く重い声で断言した。
「貴女方は、国家の資産を自らの財布として使い潰した。その結果が、軍隊への給与未払いと、王都経済の深刻なインフレーションだ。現在の王都の物価上昇率は前月比で400パーセントを超えている。王国はすでに、事実上の経済破綻状態にある」
エリシアの顔から急速に血の気が引き、分厚い化粧の下の青白い肌が露わになる。彼女の唇がわななき、瞳孔が収縮した。
「だ、だから……だから、あなたに戻れと言っているのよ!」
エリシアは両手をテーブルに叩きつけ、ひび割れたような金切り声を上げた。
「あなたなら、この辺境で稼いだ金でどうにかできるでしょう!? 王都の窮地を救うのが、貴族としての……いいえ、王家に連なる者としての義務よ! 戻ってきて、私を助けなさい!」
セレスティアンは微動だにせず、ただ静かに彼女を見下ろした。
「俺はルシフェル家を追放され、王家からも離縁された。現在はアビス領の代官という一介の地方役人にすぎない」
事実だけを、氷の刃のように突き刺す。
「自分を切り捨てた泥船の穴を、なぜ俺が私財を投じて塞いでやらねばならない。助ける理由も、義務も、一切存在しない」
「……っ! わ、私を誰だと思っているの! 王位継承権を持つ第一王女よ! あなたみたいな男、私が一言命じれば、騎士団がすぐにでもこの領地を火の海に――」
「誰も動かない」
セレスティアンはエリシアの言葉を冷酷に遮った。
「給与を支払われない軍隊は機能しない。強硬派の貴族たちも、すでに金庫が空であることを知っている。お前からの登城要請や軍の出動要請に対し、彼らは『体調不良』を理由にすべて拒否しているはずだ。……お前には、もはや何の権力も残されていない」
エリシアが糸の切れた人形のように椅子に崩れ落ちた。彼女の呼吸は浅く乱れ、焦点の合わない目でテーブルの上の羊皮紙を見つめ、ドレスの裾を無意識に強く握りしめている。
その時、沈黙を保っていたルシフェル公爵が、重々しく口を開いた。
「……セレスティアン。それでも、かつては王家に連なった身。それに、お前はルシフェル家の血を引いている。公爵家の名において、王家への忠誠を示すべきではないのか」
父親のその言葉を聞き、セレスティアンはゆっくりと視線を公爵へ移した。その三白眼の奥には、温度というものが一切存在しない。ただ、路傍の石ころを見るような、徹底した無関心だけがそこにあった。
「ルシフェル公爵。俺を追放する際、あなたは『ルシフェル家と一切の関わりを持たぬこと』を条件とし、戸籍から完全に抹消したはずだ」
公爵の顔がわずかに強張る。
「法的に赤の他人であるあなたが、今になって家の名を振りかざして忠誠を要求するのは、著しい論理的矛盾だ。……あなたの言葉には、いかなる効力もない」
公爵の顔が屈辱に歪んだが、反論の言葉は紡げなかった。自らが下した非情な決断が、最悪の形で自らの首を絞めたのだ。
「交渉は終わりだ」
セレスティアンは静かに席を立った。
「あなた方がこの辺境まで足を運んだ目的である『救済』は、完全に棄却する。監査は終了した」
彼は振り返ることなく、応接室の扉へと向かう。
「カイラ。彼らの馬車の準備を。明日の朝一番で、王都へ強制的に送り返せ」
「承知いたしました」
背後で、エリシアの悲痛な絶叫とマリアンの呻き声が響いた。
しかし、セレスティアンの歩みが止まることはない。冷たい石畳の廊下に出た彼の意識はすでに、今日の午後に予定されている、第4居住区の新たなインフラ投資の決裁へと完全に切り替わっていた。




