第41話 王家使節団の来訪
王家の紋章である双頭の鷲が描かれた馬車が、北の街道を重苦しい車輪の音を立てて進んでいた。
かつては金箔で縁取られていた装飾も、長きにわたる手入れの欠如により見る影もなく剥がれ落ちている。護衛の騎士たちの数は通常の王族の移動の三分の一以下にまで減らされ、彼らの乗る馬も毛艶が悪く、疲労の色が濃かった。
現在の王都が陥っている絶望的な資金難。その生々しい現実が、この使節団の貧相な陣容に如実に表れていた。
馬車の車内には、重苦しい沈黙が満ちている。
エリシアは苛立たしげに爪を噛み、隣に座るマリアンは不安げに視線を彷徨わせていた。そして向かいの席には、ルシフェル公爵家の当主が、能面のような無表情で腕を組んで目を閉じている。
「……いつまでこんな泥道を走らせるの。アビス領など、どうせまだ餓死者が転がっているような土地でしょう。こんな所まで私自ら足を運ばせるなんて」
エリシアが忌々しげに吐き捨てた。
王家からの対話要求の書状に対し、辺境からは一切の返答がなかった。焦燥と見栄、そして何より「底を突いた金庫」という現実から目を背けきれなくなった強硬派の貴族たちに押し出される形で、彼女は自ら辺境へ赴く羽目になったのだ。
「全くだわ。これも全て、あのセレスティアンが勝手な振る舞いで王家の利益を独占しているせいよ。公爵様からも、きつく叱責してやってくださいませ」
マリアンが媚びるように同意を求めるが、公爵は目を開くことなく沈黙を保った。
その時。
不快な上下の振動を繰り返していた馬車が、唐突に、まるで氷の上を滑るように静かな動きへと変わった。
「……?」
車輪が泥濘を叩く音が消え、硬質で均一な摩擦音だけが響く。
公爵がゆっくりと目を開け、窓の分厚いカーテンをわずかに引いた。
「なっ……」
歴戦の貴族である彼の喉から、信じられないものを見たような掠れた声が漏れた。
公爵の反応に違和感を覚え、エリシアとマリアンも慌てて窓の外を覗き込む。そして、二人は完全に言葉を失った。
馬車が走っているのは、寸分の狂いもなく平らに切り出された石畳の街道だった。
王都のメインストリートですら、これほど見事な舗装はされていない。さらに彼女たちを戦慄させたのは、その街道を行き交う人の波と物資の量だった。
見渡す限りの巨大な商隊。他国の紋章を掲げた馬車がひしめき合い、積み荷には見たこともない香辛料や反物、そして高価な魔導具が山のように積まれている。
関所を抜け、領都の中心部へと入っていくにつれ、その光景はさらに非現実的なものへと変貌した。
かつては崩れかけた木組みの小屋が並んでいたはずの街並みは、美しく堅牢な石造りの建築群へと姿を変えていた。建物の窓には高価な透明ガラスが嵌め込まれ、等間隔に配置された魔導灯が昼夜を問わず街を照らすよう計算されている。
行き交う領民たちの誰一人として、粗末な布を纏っている者はいない。皆、十分な栄養で頬を血色に染め、活気に満ちた大声で笑い合いながら商人たちと交渉をしている。
視線の先、街の奥にそびえる巨大な魔導炉からは、青白い蒸気が力強く天に向かって噴き上がっていた。
「これが……アビス領……?」
エリシアの唇が震えた。
それは、彼女が支配する王都をあらゆる面で遥かに凌駕する、圧倒的な富と技術が結集した巨大な近代都市の姿だった。
自分が「不用品」として切り捨て、追放した男。彼がわずか数年で、この不毛の地を世界の経済の中心へと作り変えてしまったという事実。
公爵は窓から手を離し、深くシートに背を預けた。己の選択の致命的な誤りを、今更ながらに突きつけられ、胃の腑に冷たい鉛が落ちたような感覚に陥っていた。
★★★★★★★★★★★
代官所の奥に新設された、広く清潔な厨房。
セレスティアンはダークネイビーのシャツの袖を肘まで無造作にまくり上げ、研ぎ澄まされた包丁を手に、厚い無垢材のまな板に向かっていた。
「代官様。王都からの使節団が、最終関所を通過しました」
静まり返った厨房の隅に影から現れたエレナが、手短に報告する。
「エリシア殿下、マリアン殿、そしてルシフェル公爵の三名です。まもなくこの代官所に到着するかと」
「そうか」
セレスティアンの視線は手元の食材から一切ブレず、声にも微塵の感情も混じっていなかった。
「応接室に通しておけ。ただし、特別扱いは不要だ。通常の商人と同じ手続きを踏ませろ」
「承知いたしました」
エレナが再び影へと消える。足元では、すっかり立派な体躯となったポチが、厨房に漂い始めた匂いに鼻をひくつかせ、短い尻尾をパタパタと振っていた。
セレスティアンはまな板の上で、クレメント商会を通じて港町から届いたばかりの新鮮な鮭の切り身に、岩塩と粗挽きの黒胡椒を高い位置から均一に振る。
表面に浮き出た余分な水分を清潔な布で丁寧に拭き取り、薄く小麦粉をはたいた。
分厚い鉄のフライパンを火にかけ、そこに塊のバターを落とす。バターが熱で溶け出し、チリチリと細かい泡を立てて黄金色に変わった絶妙の瞬間。彼は鮭を皮目から静かに落とした。
ジューッ、という激しい音とともに、暴力的なまでに芳醇なバターの香りが厨房を満たす。
皮がパリッと焼き上がり、身の側面が下から半分ほど白く色づいたところで、菜箸で素早く裏返す。表面は香ばしく、中はふっくらと。火入れの時間は秒単位で計算されていた。
隣のコンロでは、厚手の鍋で根菜類が激しい音を立てて炒められている。
領内の農園で収穫された蓮根、里芋、人参、こんにゃく、そして大ぶりに切った鶏もも肉。油が全体に回り、肉の表面が白くなったところで、濃い口の醤油、砂糖、そして丁寧に取られた出汁を一気に注ぎ込む。
落とし蓋をして強火で煮立て、最後に一気に煮汁を飛ばして具材に照りを出していく。鍋底で煮汁が弾ける香ばしい匂いが、バターの香りと複雑に絡み合った。
さらに別のボウルでは、下茹でした海老と、港町の職人がイレーネの指示で開発した「蟹の風味と食感を模した魚のすり身」——カニかまを手で荒く裂き、新鮮な葉野菜と合わせていた。
卵黄、油、微かな酸味を乳化させた特製のソースで全体を和え、濃厚だが後味の軽いサラダに仕上げていく。
そして、最後の一品。
一番出汁を張った小鍋に、極細の海藻である「もずく」を放つ。
漆塗りの椀に注ぎ分け、仕上げに数滴、琥珀色の液体を垂らす。
南方の島で採れる強烈な辛味を持つ小さな唐辛子を、強い蒸留酒に長期間漬け込んだ香辛料「コーレーグース」。
熱い吸い物にそれが落ちた瞬間、アルコールが揮発し、鋭い辛味と熟成された酒の複雑な香りが爆発的に立ち上り、一気に食欲を刺激した。
★★★★★★★★★★★
「……信じられないわ」
隣室の私的なダイニング。長いオーク材のテーブルで、ヴィオラは艶やかな唇からため息を漏らした。
「王都の最高級レストランのシェフでも、これほど多様な味覚を一つの食卓で調和させることは不可能ですわ。特にこの、鮭の皮の完璧な焼き加減と、中から溢れる脂の甘み……」
「この根菜の煮物も、味が中まで染み込んでいるのに野菜の食感が全く死んでいません。出汁の旨味が全てを包み込んでいます」
カイラも背筋を伸ばしたまま、しかし箸を動かす速度はいつもより明らかに早かった。
「サラダのソースが絶品ね! この海老と……蟹みたいなすり身の食感がたまらないわ!」
クロエが愛嬌たっぷりの笑顔でサラダのお代わりを要求し、ソフィアは無言のまま、もずくの吸い物をすすってはコーレーグースの強烈な辛味に「ふはっ」と息を吐き、またすするのを繰り返している。
セレスティアンは彼女たちの喧騒をBGMに、静かに食事を終えた。
彼は立ち上がり、棚から東方の大陸の商人から取り寄せたという茶葉を取り出した。発酵させずに乾燥させた緑の茶葉。
沸騰した湯を一度別の器に移して少しだけ温度を下げ、それから急須に注ぐ。
ゆっくりと抽出された液体は、淡く美しい翡翠色をしていた。
湯呑みに注ぎ、一口含む。心地よい渋みの直後に、奥深い甘みと青々とした香りが鼻腔を抜けていく。脂の乗った食事の後には、これ以上ない最高の一杯だった。
トントン、と控えめなノックの音が響き、カイラが立ち上がって扉を開けた。
そこには、冷や汗を流した代官所の若手文官が立っていた。
「だ、代官様。王都からの使節団と名乗る方々が、正面玄関で強く面会を要求されております。『王族を待たせるとは何事か』と、かなりご立腹の様子でして……」
「約束のない訪問者だ。待たせておけばいい」
セレスティアンは湯呑みを置き、感情の読めない三白眼を静かに扉の方へ向けた。
「俺が茶を飲み終わるまで、な」
その冷徹な言葉に、室内の空気が一瞬にして引き締まる。ヒロインたちもフォークや箸を置き、それぞれの「戦い」の顔へと切り替わった。
王家が完全に追い詰められ、自ら辺境の門を叩いた。
長きにわたる因縁の、最後の清算の時が迫っていた。




