第40話 王家、事実上の破綻
初夏の眩しい陽光が、分厚い石壁をくり抜いた窓から執務室の床に長い影を落としている。
開け放たれた窓からは、活気に満ちた領都の喧騒が、心地よいノイズとして途切れることなく流れ込んできた。石畳を叩く重い荷馬車の車輪の音、商人たちが異国の言葉を交えながら威勢よく値切り交渉をする声、そして新設された工房群から絶え間なく響く一定のリズムの槌音。それらはすべて、このアビス領という巨大な経済機構が、健全かつ猛烈な勢いで稼働している証であった。
セレスティアン・フォン・ルシフェルは、重厚なマホガニーの執務机の前に座り、手元に置かれた1枚の羊皮紙を見下ろしていた。
王家の紋章である双頭の鷲が赤蝋で押されたその書状は、これまでの高圧的な命令書とは明らかに紙質が異なっていた。王室御用達の最高級羊皮紙などではなく、王都の一般市場で出回っている、表面がわずかに毛羽立った粗悪な紙が使われている。インクの乗りも悪く、ところどころ文字が掠れていた。その物理的な事実だけでも、王家の内情がどれほど切迫しているかを如実に物語っていた。
「……『互いの誤解を解き、王国と辺境の未来に向けた建設的な対話の場を設けたい。速やかに王都への使者を派遣されたし』、か」
セレスティアンが感情の読めない超低音の声で文面を読み上げると、執務室に集まっていた面々から冷ややかな反応が返ってきた。
「白旗を揚げるにしても、ずいぶんとプライドの高い文面ですこと。使者を送れなどと、まだ自分たちが上位にいると錯覚していらっしゃるのね」
窓際に立っていたカミラが、手に持った扇で口元を隠し、アシンメトリーな前髪の奥で嘲笑を浮かべた。
「ストライキ中の近衛兵を宥める日銭すら枯渇しているというのに、どうやって使者をもてなすおつもりなのかしら。お茶を淹れる茶葉すら残っていないのではありませんこと?」
「この手紙は『対話』なんて立派なもんじゃないわ。ただの『命乞い』よ」
机の前に立っていたソフィア・ランカスターが、得意げに胸を張った。
「あの帳簿のコピーが王都の貴族たちに出回った時点で、エリシアの味方なんて1人も残ってないんだから。今頃、自分たちだけは助かろうと、保身のための言い訳作りに必死になってるはずよ」
彼女の足元では、すっかり若犬らしく骨格がしっかりしてきたポチが、「遊べ」とばかりに彼女の革靴のつま先を短い前足でホールドし、熱心に舐め回している。ソフィアはそれを鬱陶しそうに軽く足で払いながらも、本気で蹴り飛ばすことはせず、器用にバランスを保っていた。
「……その通りだ」
セレスティアンは書状を机の端に無造作に押しやった。彼にとって、この紙切れはすでに決済の価値すらない過去の遺物だった。
「交渉のテーブルには着く。だが、こちらから王都へ出向く義理はない。本当に『対話』を望むのなら、向こうからこの辺境まで足を運ぶのが筋だ」
大量の書類の束を抱えたカイラが、涼しげな瞳を向けて静かに頷く。
「では、その旨を通達する返書を作成いたします。日程や場所の指定も、すべてこちらの主導で進めます」
「ああ。それとカミラ、ヴィオラ。王家解体に伴う債務処理と、王都の流通網の吸収について、最終的な契約書の草案を固めておけ。一切の妥協は不要だ。相手が息をしている間に、すべての権利をこちらへ移管させる」
「承知いたしましたわ。王家の残存資産を骨の髄までしゃぶり尽くす、極上の契約書をご用意いたします。1文字の抜け穴も許しませんわよ」
「クレメント商会の全機能をもって、王都の物流の息の根を完全に止め、そして私たちが新たな心臓となりますわ。彼らはもう、私たちの掌の上でしか生きていけません」
カミラとヴィオラが、それぞれ妖艶な、そして底知れぬ凄みを秘めた笑みを浮かべて優雅に一礼した。
実務の指示を終え、彼女たちがそれぞれの持ち場へ戻っていくのを見届けると、セレスティアンはポチと格闘しているソフィアに向き直った。
「ソフィア。昨日の特命任務、ご苦労だった。お前のもたらした情報が、この盤面を終わらせる決定打となった。正当に評価する」
「ふん。当然でしょ。私を誰だと思ってるのよ」
ソフィアはそっぽを向きながらも、ぽってりとした唇の端を嬉しそうに持ち上げた。
「財務に特別ボーナスを申請しておく。それと、明日はお前の完全休息日とする。業務は一切気にせず、好きに時間を使え」
セレスティアンの言葉に、ソフィアはピタリと動きを止めた。
足元でじゃれていたポチが、突然の静寂に首を傾げ、「くぅん?」と小さく鳴く。
ソフィアは数秒間じっとセレスティアンを見つめ、やがて不敵な笑みを浮かべて彼を真っ直ぐに指差した。
「だったら、明日は私に付き合いなさい。特別ボーナスの使い道、1人じゃつまらないからね」
「……俺が、か?」
「そうよ。優秀な部下の労いなんだから、トップが自らもてなすのが当然でしょ? それとも、何か文句ある?」
挑発的な視線。その裏にある、ほんの微かな期待。
セレスティアンは小さく息を吐き、万年筆をペン立てに戻した。
「わかった。明日は空けておく」
★★★★★★★★★★★
翌日。アビス領の領都は、雲1つない青空の下で強烈な活気に包まれていた。
関税撤廃による経済特区としての地位は不動のものとなり、広く拡張された大通りには、周辺国から訪れた商人たちの色鮮やかな天幕が延々と続いている。かつて泥濘と汚物にまみれていた路地は美しく平らな石畳に生まれ変わり、清潔な排水路が整備されたことで悪臭は完全に消え去っていた。
そのひしめき合う人混みの中を、セレスティアンとソフィアが歩いていた。
セレスティアンはダークトーンの質の良い私服姿。休日の気だるさを纏いつつも、鍛え抜かれた体躯と隙のない所作が、周囲の視線を自然と遠ざけている。
その隣を歩くソフィアは、タイトな黒のワンピース姿だった。
「……ねえ。私、変じゃないわよね?」
すれ違う商人たちの視線に少し落ち着かなくなったのか、ソフィアがワンピースの裾を軽く引っ張りながら上目遣いで聞いてきた。
「機能的で良いと思う。生地の質感からして、動きを阻害しなさそうだ」
セレスティアンが事実だけを淡々と述べると、ソフィアは不満げに頬を膨らませた。
「あんたって、本当にそういう実務的な感想しか言わないわよね! もう少しこう、気の利いた言い回しとかないわけ!?」
「事実以外の装飾は不要だ。お前のその服装は、十分に効果的な『武装』として機能している」
「もういいわよ、バカ!」
怒ったように足早に歩き出すソフィアの後ろを、セレスティアンは一定の距離を保ってついていく。
2人が向かったのは、最近新設されたばかりの南部の商業区画だった。
クレメント商会の流通網に乗って、はるか南方の港町から運ばれてきたという希少な果実や、氷結魔法で鮮度を保ったまま輸送された海産物の屋台が並んでいる。活きの良い魚が跳ねる音と、果実の甘い香りが入り混じる、王都の市場すら凌駕するほどの賑わいだ。
ソフィアは怒っていたことも忘れ、その目新しい光景に青緑色の瞳を輝かせた。
「これ、王都の貴族が食べてるっていう南の果物よね? 1つ頂戴!」
ソフィアが屋台の店主に銅貨を渡し、串に刺さった鮮やかなオレンジ色の果実を受け取る。1口かじると、強烈な甘みと酸味が口いっぱいに広がり、彼女は「んーっ!」と声を上げて目を細めた。
「食べる?」
彼女は自分がかじった串を、悪戯っぽい笑みを浮かべてセレスティアンの口元へ突き出した。
セレスティアンは躊躇うことなく、その果実を1口かじる。
「……糖度が高い。疲労回復には悪くないが、輸送コストを考えれば価格設定はまだ見直す余地があるな」
「だから、仕事の話はなしだって言ってるでしょ」
ソフィアは呆れたように肩をすくめ、再び歩き出した。
賑わう通りを眺めながら、彼女の横顔にふと影のような静けさが落ちた。
「……なんだか、信じられないわよね」
ぽつりと、ソフィアが呟く。
「1年前、私があんたに拾われる前。この街はただの地獄だった。みんな飢えて、目が死んでて、私は毎日他人の懐から銅貨を盗むことしか考えてなかった。明日生きるためのパンの切れ端を見つけるのが、この世界のすべてだったのに」
彼女の視線の先では、かつて彼女と同じように裏街で泥にまみれていたはずの子供たちが、清潔な服を着て、焼き菓子を手に笑い合いながら駆け抜けていく。彼らの足元は泥濘ではなく、乾いた石畳だ。
「それが今じゃ、誰もが当たり前のように自分の金貨で肉を買い、遠い南国の果物を食べて笑ってる。……あんたがやったこと、本当に魔法みたいだわ」
「魔法ではない。ただの合理的な計算だ」
セレスティアンは足を止めず、周囲の店先の配置や客の動線を無意識に確認しながら答えた。
「労働に正当な対価を払い、人が最も効率よく働ける環境を整えただけだ。感情や根性論で人を搾取すれば、いずれ必ず組織は死ぬ。王家がそうであったようにな」
「あんたって、本当に身も蓋もないのね」
ソフィアはクスッと笑い、彼を少しだけ見上げた。
「でも、そういう計算高いところ、嫌いじゃないわ。あんたのその冷たい計算が、この街の連中を一番暖かくしてるんだから」
その時、ソフィアの足がピタリと止まった。
彼女の視線が釘付けになっていたのは、異国の行商人が広げた天幕のショーウィンドウだった。
ビロードの布の上に、精巧な細工が施された銀の髪飾りが並べられている。先端には、小ぶりだが非常に純度の高い青い魔石が嵌め込まれており、初夏の陽光を反射してきらきらと輝いていた。
ソフィアはじっとそれを見つめていたが、値札の数字に気づくと、小さく息を吐いて視線を逸らした。
「……行きましょ。別に、あんなの飾るような服、持ってないし」
強がって歩き出そうとした彼女の背中を、セレスティアンの低い声が引き留めた。
「待て」
セレスティアンは店主に無言で銀貨を数枚渡し、その髪飾りを受け取ると、ソフィアに向かって軽く投げた。
「えっ……」
慌ててそれを受け取ったソフィアは、驚いたように目を見開く。
「特命任務の追加報酬だ。つけておけ」
「な、何よこれ! 私、こういう甘いのは……」
「嫌なら売って金に替えろ」
「……っ、売るわけないでしょ! バカ!」
ソフィアは顔を真っ赤にして髪飾りを握りしめ、それから不器用な手つきで、自分のダークブラウンの髪にそれを留めた。青い魔石が、彼女の青緑色の瞳とよく調和している。
「……どう?」
「悪くない」
「それだけ!? もっとこう……はあ、もういいわ。あんたに聞いた私がバカだった」
ソフィアはぷいっとそっぽを向いたが、その足取りは明らかに先ほどよりも軽く、時折ショーウィンドウのガラスに映る自分の姿をチラチラと確認していた。
通りを抜け、街の全景が見渡せる高台の広場に出る。
喧騒が心地よい距離まで遠のき、2人は木陰のベンチに腰を下ろした。眼下には、赤茶色の屋根がどこまでも連なり、遠くには新設された工業区画の煙突から白い煙が真っ直ぐに立ち上っている。かつての限界集落は、今や1つの巨大な生命体のように力強い呼吸を繰り返していた。
「ねえ、セレスティアン」
ソフィアが、眼下の街を見つめたまま静かに口を開いた。
「王家が完全に潰れたら、次は何をするの? このまま王国を乗っ取って、あんたが王様にでもなるわけ?」
「興味はない。俺が求めているのは、理不尽な残業や命令に振り回されない、完全な休暇と安定した労働環境の維持だけだ。王都の連中がその平穏を脅かすというのなら、王家という非効率な構造そのものを解体して作り直すまでのことだ」
セレスティアンの淡々とした、しかし揺るぎないロジック。
ソフィアは少しだけ身を乗り出し、彼の冷徹な三白眼を真っ直ぐに見つめた。
「……私がこの街の実務を完全に仕切れるようになるまで、しっかりその代官の椅子に座ってなさいよ」
「ほう?」
「あんたがいなくなったら、またこの街がバカな貴族に食い物にされるかもしれないでしょ。だから、絶対にどこにも行かないでよね。……約束よ」
それは、裏街で誰のことも信じずに生きてきた孤独な少女が、初めて他人に示した明確な「依存」であり、「忠誠」の誓いだった。
セレスティアンは、隣で不敵に笑う少女の頭に、無造作に大きな手のひらを乗せた。
「……余計な心配をするな。お前がその椅子を奪いに来る日を、楽しみにしている」
「ちょっ、撫でるなって言ってるでしょ! 髪飾りがずれる!」
ソフィアが抗議の声を上げながら彼の手を振り払おうとするが、その顔には隠しきれない満面の笑みが浮かんでいた。
彼女は銀の髪飾りをそっと手で押さえ直し、隣に座るセレスティアンの横顔と、眼下で絶え間なく動き続ける巨大な街並みを、青緑色の瞳で眩しそうに見つめ続けた。




