第36話 王都経済の混乱
春の柔らかな日差しが、分厚い石造りの代官所に降り注いでいる。
冷え切っていた石畳も温もりを取り戻し始めた休日の朝。セレスティアンが私室で外出用のダークネイビーのコートを羽織っていると、足元でシャカシャカという忙しない音が響いた。
「くぅーん、ぐるるぅ」
黒と茶色の毛玉――仔犬のポチが、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、彼のブーツのつま先にまとわりついていた。
路地裏で瀕死の状態で拾われてから数ヶ月。すっかり骨格がしっかりとし、艶やかな毛並みを持つ若犬へと成長したポチは、最近、主が「長時間の外出」をする際のわずかな気配の変化を鋭く察知するようになっていた。
ポチは前足を踏ん張り、セレスティアンのコートの裾を小さな牙で軽く甘噛みして引き留めようとする。
「今日は連れて行けない。街は人が多すぎる」
セレスティアンが低い声で窘めると、ポチは不満げに鼻を鳴らし、今度は磨き上げられたブーツの紐に狙いを定めた。
セレスティアンは小さく息を吐き、しゃがみ込んでポチの首筋をゆっくりと撫でた。心地よい体温が手のひらに伝わる。ポチは目を細め、喉の奥で満足げな音を鳴らした。
「……イレーネの工房に顔を出してこい。新しい魔導具の実験台にはなるなよ」
立ち上がり、部屋の扉を開ける。ポチは諦めたようにその場でお座りをして、主の後ろ姿を見送った。
★★★★★★★★★★★
その頃、アビス領の長閑な朝とは対極に、王都の王城・特別執務室は凄まじい怒号と混乱に支配されていた。
デスクには、処理能力を超えた書類の山が崩れんばかりに積まれている。
「どういうことなの……! 昨日から届く物資の量が、予定の半分にも満たないじゃない!」
エリシアは血走った目で羊皮紙を睨みつけ、それを力任せに床へと叩きつけた。
窓の外から微かに聞こえてくるのは、王都の優雅な喧騒ではない。下町の広場から響いてくる、怒気を孕んだ民衆の怒号と、何かが叩き壊されるようなくぐもった音だった。
部屋の隅で控えていた文官が、顔面を蒼白にしながら震える声で答えた。
「く、クレメント商会をはじめとする主要な流通ギルドからの報告によりますと……東部街道で大規模な崖崩れが発生し、安全が確保されるまで馬車の数を大幅に減らさざるを得ないと。現在、王都に搬入されている物資は、これまでの約3割にまで落ち込んでおります」
「3割!? 馬鹿なことを言わないで! そんな量じゃ、貴族たちの邸宅を維持するだけで消し飛んでしまうわ!」
エリシアの金切声が、分厚い石壁に反響した。
「実際、すでにその状況に陥っております……」
文官は絶望的な表情で首を横に振った。
「王都の特権貴族たちは、僅かに運び込まれたその『3割の物資』を、互いに法外な値段で買い漁り、自らの倉庫に囲い込んでおります。結果として、下町の市場には小麦や塩といった必需品が一切回らなくなり、物価が数倍に跳ね上がりました。さらに、周辺国の商会も、王都への輸出を完全に渋っております」
「強制的に倉庫を開けさせなさい! 近衛騎士団を動かして、隠匿している物資を全て没収し、市場に流すのよ!」
エリシアはデスクに両手をつき、荒い息を吐いた。
「殿下、それは……っ、すでに一部の貴族の私兵と近衛が、物資を巡って小競り合いを起こしております! これ以上強権を発動すれば、王都内の有力貴族たちが完全に王家へ反旗を翻しかねません! なにより……」
文官は言葉を詰まらせ、さらに顔色を悪くした。
「なにより、暴動を鎮圧すべき近衛騎士団の動きが極めて鈍いのです。給与の遅配が続いている上に、彼ら自身の家族も下町で飢えに直面しています。広場で騒ぐ民衆に剣を向けろと命じても、大半の兵が理由をつけて持ち場を離れてしまい……」
「無能ばかりね! 私の命令が聞けないというの!?」
エリシアはワナワナと唇を震わせた。
金がないわけではない。だが、金貨をいくら積んでも「買うべき物」が市場に流れてこない。僅かに流れ込んでくる物資が、かえって貴族たちのあさましい奪い合いを助長し、民衆の憎悪を煽り立てている。
窓の外で、ついに警備隊と民衆が衝突した鈍い音が響いた。
★★★★★★★★★★★
「本当にいいの? 護衛の私が、こんなに両手を塞いでて」
アビス領の領都、賑わう大通りの真ん中で、エレナ・ルージュは悪戯っぽく笑った。
彼女の右手には熱々の肉串、左手には香ばしい匂いを漂わせるクレープが握られている。
今日の彼女は、いつもの戦闘に特化した漆黒のスーツではない。ボディラインにフィットしたダークブラウンのレザージャケットに、細身のパンツスタイル。艶やかな長い髪は無造作に下ろされており、洗練された都会の女性の装いだ。
すれ違う領民たちは、長身の代官と並んで歩く美しい彼女の姿に目を奪われつつも、邪魔をしないように自然と道を譲っていく。
「休日に護衛はいらないと言ったはずだ」
セレスティアンは周囲の屋台の配置や人の流れから視線を外さずに答える。
「それに、お前ならその状態からでも0.5秒で敵の喉を掻き切れるだろう」
「まあね。でも、この特製ソースが服に跳ねるのは嫌だから、できれば2秒欲しいわ」
エレナは楽しげに肉串をかじり、満足そうに目を細めた。
「美味しい。王都の下町じゃ、こんなに新鮮で肉汁の溢れるお肉、絶対に食べられなかったわよ。少し前までは、この領地もそうだったんでしょうけど」
セレスティアンが同意するように無言で頷くと、エレナは微かに目を伏せ、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を作った。
「食べる?」
彼女が不意に、自分の食べかけの肉串をセレスティアンの口元へと差し出した。
セレスティアンは躊躇うことなく、その肉を一口かじる。
「……少し塩気が強い。夏に向けて、労働者の塩分補給を想定した味付けに切り替えているようだな。悪くない」
「もう、仕事の話はなしよ。今日はただのデートなんだから」
エレナは呆れたように笑い、彼の腕に軽く自分の腕を絡ませた。
そのまま大通りを抜け、街の全景が見渡せる高台の広場へと歩を進める。
喧騒が少し遠のき、春の風が心地よく吹き抜ける木陰のベンチに二人は腰を下ろした。
エレナが最後の一口を飲み込み、ハンカチで丁寧に口元と指先を拭う。
その短い動作の間に、彼女の纏っていた「休日の女性」の甘い空気が完全に消え去った。
深く吸い込まれるようなブラウンの瞳に、肉食獣のような冷酷で鋭い光が宿る。
プロの暗殺者としての、仕事の顔だ。
「……あなたの指示通り、王都は今、見事な地獄絵図よ」
声のトーンが一段階低くなる。
「完全に搬入を断つのではなく、『3割だけ』流し続けたのはえげつない手だったわね。あっちの貴族ども、投げ込まれた僅かな餌に群がって、醜い同士討ちを始めてる。エリシア殿下は近衛を使って強引に倉庫を開けさせようとしてるみたいだけど、末端の兵士たちはもう王家を見限ってるわ」
セレスティアンはベンチの背もたれに寄りかかり、足を組んだ。
「ヴィオラとカミラの根回しも、完璧に機能しているようだな」
「ええ。クロエが手配した吟遊詩人たちの噂も相まって、下町の怒りは頂点よ。暴動が王城に届くのも時間の問題ね」
エレナは足を組み替え、眼下に広がるアビス領の活気ある街並みを見下ろした。
「これで、特別税の要求どころじゃなくなったわね。ポイズンピルの発動を待つまでもなく、王都は内側から自滅するわ」
「いや、まだ甘い」
セレスティアンの低い声が、春の風を切り裂いた。
「エリシアのことだ。追い詰められれば、理性を失ってどのような強硬手段に出るかわからない。完全に息の根を止めるまでは、こちらの手綱を緩めるつもりはない。ソフィアには引き続き、王都の財務局の裏帳簿を洗わせろ。最後の一撃は、法と数字で確実に刺す」
徹底したリスクマネジメントと、容赦のない冷徹な判断。
エレナは思わず口角を上げ、妖艶な笑みを浮かべた。
「了解。王都のネズミの動きは、私がすべて把握しておくわ」
彼女は立ち上がり、軽く伸びをした。そのしなやかな身体のラインが強調される。
「さて、報告は終わり。私の『残業』もここまでね」
エレナは振り返り、再び人懐っこい笑顔に戻ってセレスティアンに手を差し出した。
「さあ、代官様。次の屋台に行きましょ。東通りの港町風スープ、まだ食べてないんだから」
セレスティアンは小さく息を吐き、彼女の取った手を取って立ち上がった。




