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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第35話 経済制裁の包囲網

 春の柔らかな日差しが、分厚い石造りの代官所に降り注いでいる。

 雪解け水が水路を勢いよく流れる音が遠くから響く私室で、セレスティアンは壁際の太いオークの柱の前にしゃがみ込んでいた。

 彼の手には万年筆と、等間隔に目盛りが刻まれた1本の木製の尺度が握られている。その視線の先では、黒と茶色の被毛に覆われたポチが、短い尻尾をちぎれんばかりにパタパタと左右に振っていた。

 路地裏で拾われた瀕死の毛玉は、厳しい冬を乗り越え、今や見違えるほどしっかりとした骨格を持つ若犬へと成長しつつある。今日は月に1度の、体高と体重の測定日だった。


「……座れ。いや、こっちを向く必要はない」


 セレスティアンが柱に背を向けさせようと、ポチの温かい胴体に手を回して軽く腰を押す。しかし、ポチはそれを新しい遊びの誘いと勘違いしたらしい。くるりと身を翻し、琥珀色の丸い瞳を輝かせながら、彼の手に握られた木製の尺度に短い牙を立てて甘噛みをしてきた。

 手首に伝わるじゃれつきの力は、数ヶ月前とは比べ物にならないほど力強い。


「待て。動くなと言っている」


 低い声で制するが、そこに怒気がないことをポチは完全に理解している。ふんす、ふんすと鼻を鳴らしながら、今度はセレスティアンの膝に泥のついていない前足を乗せ、顔を舐めようと身を乗り出してきた。

 セレスティアンは小さく息を吐き、尺度を一旦床に置いた。素手でポチの背中から耳の裏にかけてをゆっくりと撫で、その心地よさにポチが目を細めた瞬間を狙う。

 両手で胴体をしっかりと持ち上げ、半ば強引に柱の前に直立させた。ポチが再び振り返ろうとするその一瞬の隙を突き、万年筆の先で柱の木肌に素早く小さな横線を引く。

 その下には、これまで刻み続けてきた幾つもの古い傷が並んでいた。

 定規を当てて測定すると、前回の位置から3センチメートルほど高い位置に新しい線が刻まれている。


「よし。38センチメートルか。体重は……」


 部屋の隅に用意していた、金属製の精密な秤にポチを誘導する。おやつ用の乾燥肉を1片、秤の皿の上に置くと、ポチはよだれを垂らしそうになりながら、おっとっと、と足を滑らせつつも台の上に乗り、バランスを取って静止した。

 目盛りの針が示す数値は5.1キログラム。前月の4.2キログラムから確実に増えている。

 セレスティアンが肉を差し出すと、ポチは器用にそれを受け取り、小さく「ハフッ」と喉を鳴らして咀嚼した。


「……よし。悪くない成長だ。今日はこれで終わりだ」


 彼が手を離すと、ポチは測定から解放された喜びを表現するように、絨毯の上を2、3度ぐるぐると駆け回り、満足げにセレスティアンのブーツのつま先に顎を乗せて丸くなった。

 セレスティアンは不器用な手つきで、ピンと立った耳の裏をしばらく揉みほぐした後、ミリタリーテイストのダークスーツの上着を羽織り、乱れたスラックスの裾を整えて立ち上がった。


★★★★★★★★★★★


 1時間後。代官所の中枢に設けられた執務室の空気は、私室の穏やかさとは対極にあった。

 重厚なマホガニーの円卓を囲むように、役員たちが集結している。


「クレメント商会が管理する王都向けの主要商路、本日をもって予定通り、すべての流通量の『調整』を開始いたしましたわ」


 ヴィオラが、手にした美しい羽根扇を静かに閉じ、テーブルの上に置きながら報告した。その完璧なメイクで整えられた涼しげな瞳には、冷徹な商人としての光が宿っている。


「名目は、春の急激な雪解けに伴う主要街道の地盤緩み、および東部をまたぐ3つの木造橋の補強工事です。合わせて、馬車の車軸故障率が平時の5倍に達しているという公式な修理記録を提出してあります。いかなる法的な監査が入ろうとも、帳簿上も現場の状況も『不可抗力の遅延』としか判断できないよう、完全に状況を整えました」

「供給の絞り具合は」


 セレスティアンは手元の書類に目を通しながら短く問う。


「王都へ向かう荷馬車の数を、通常の3割に制限しました。特に、イレーネ様の工房から出荷されるポーションと、当領地で精製された高純度の魔石。これらを最優先で『遅延荷物』に分類し、関所の倉庫に滞留させています」


 代官補佐のカイラが、詳細な積載目録と供給グラフが描かれた資料をめくり、実務的な分析を加える。


「王都の財務局が抱えるポーションの国家備蓄は、平時であれば3か月分とされています。しかし、近年の騎士団の拡張と周辺警備の強化により、実質的な実稼働備蓄は1か月分に満たないはずです。それを突然、3割にまで絞られたのです。市場への影響はすでに始まっています」


「市場なんて生易しい状態じゃないわよ」


 壁際の長椅子に座り、小さなメモ帳を指先で弾いていたソフィアが口を開いた。14歳という若さながら、彼女の青緑色の瞳は、裏街のネットワークから吸い上げた生々しい数字を冷酷に捉えている。


「今朝届いた王都の裏レートの情報。中級以上のポーションの末端価格は、通常の4倍に跳ね上がっているわ。魔石に至っては5倍。供給不足を察知した貴族の私兵団や大商人が、自分たちの備蓄を最優先にするために、市場に出回る僅かな品を金に糸目をつけずに買い漁っているからよ。下町の主要な診療所は、すでに在庫がゼロになって機能が半分止まっているわね」


 ソフィアはメモ帳の端を少し指先で折り曲げ、セレスティアンを見つめた。


「面白いのは、そこまで物資が足りないって大騒ぎしているのに、王城の正門には、クレメント商会の荷馬車が優先して入っていくのを、下町の連中が毎日見せつけられていることよ」

「私の仕込み通りね」


 クロエが楽しげに笑い、窓枠に軽く寄りかかった。サスペンダースカートをまとったその姿は愛らしく見えるが、その表情には、大衆心理を掌握し、計算通りに視線を誘導するプロデューサーとしての冷徹さが同居している。


「『アビス領は不当な税の要求にも耐えて、王都のために不眠不休で物資を作ってくれている。だが、王都の街道整備が遅れているせいで荷が届かない。しかも、届いた僅かな物資は、強欲な王族と一部の特権貴族が独占している』……。この噂は、すでに王都の酒場から井戸端まで、完全に浸透しているわ。下町のビラや大衆劇の題材にも、それとなくこの構図を混ぜてあるの」

「実際に供給を絞っているのは我々ですが、民衆の怒りの矛先は完全に王家へと向いているのですね」


 カイラが手袋をはめた指先を机に当て、淡々と呟いた。武力による正面衝突ではなく、情報と流通の制御による確実な世論の誘導。


「エリシア殿下の周囲はどう動いている」


 セレスティアンの問いに、部屋の隅の影に溶け込んでいたエレナが静かに1歩前へと出た。ダークトーンのレザースーツに身を包んだ彼女の立ち振る舞いには、無駄な動きが一切ない。


「強硬派の貴族たちは完全に焦燥しています。独自の調達ルートを構築しようと周辺国へ何人もの密使を走らせていますが……すべて失敗に終わっています」

「当然ですわね。彼らが接触を試みた商会には、あらかじめ適切な対処を施してありますから」


 伝統的な貴族のドレスコードを守りつつ、アシンメトリーな髪型で優雅に佇むカミラが、口角の片方だけを少し上げたスマイルを浮かべた。


「私の私兵と古い人脈を使い、周辺国のギルドに対して『アビス領との独占技術契約を失いたくなければ、王都の無茶な買い付け要求には応じるな』と釘を刺してありますの。現在のパワーバランスを見れば、彼らがどちらを選ぶかは言うまでもありませんわ。王都の貴族たちは、自分たちが完全に孤立していることに、今更気づき始めているでしょうね」


 カミラは手元の上質な紅茶のカップをソーサーに戻し、小さく首を傾げた。


「彼らは『払わない』とは言えない状況です。私たちはただ、王国法に基づいた正しい手続きと、街道の安全確認を求めているだけですもの」


「……供給を、完全に断つ必要はない」


 セレスティアンは手元の万年筆を置き、円卓を囲む女たちを見渡した。

 その三白眼には、一切の感情も、無駄な昂ぶりも存在しない。


「全体の3割を流し続けろ。完全に断てば、彼らは諦めて別の代替手段を必死に探すか、暴走する。だが、目の前に僅かな餌がぶら下がっていれば、彼らは必ずそれを身内で奪い合う」


「身内で奪い合う、か」


 ヴィオラが冷たい扇を唇に添え、目を細めた。


「下々の者や末端の兵から不満が噴出しますわね。貴族たちは、自分たちの備蓄を何より優先するでしょうから」

「飢えは、組織を最も早く内側から腐らせる」


 セレスティアンは淡々と返す。


「王家がそれを強権で抑え込もうとすれば、基盤そのものが崩れる。我々が直接、武力を用いる必要はない」


 彼は引き出しから新たな承認印が押された指示書を取り出し、カイラの方へ滑らせた。


「カイラ。各村の春の作付け面積を、さらに2割拡大しろ。並行して、領都のインフラ事業の第3フェーズを前倒しで進める」

「承知いたしました」


 カイラが凛とした声で応じ、書類を抱えて胸元に収める。


「王都の混乱がどのように推移しようとも、このアビス領の経済成長は一秒たりとも止めるな。物資の生産効率向上と、新規移住者の受け入れ体制を最優先で整えろ」


「はい。ただちに、インフラ調整と予算の執行手続きに入ります。本日の午後には、各村の長を集めた説明会を完了させますわ」


 カイラは深く一礼し、署名済みの羊皮紙を大切そうに抱えて執務室を退出していった。

 セレスティアンは万年筆をペン皿に戻し、背もたれに体を預けて窓の外を見遣る。

 アビス領の青い空の下、新しく舗装された街道を進む商隊の馬車が、乾いた音を立てて走っていくのが見えた。

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