第34話 クロエのメディア戦略
朝の冷たい空気が残る代官所の執務室には、ミルクと肉の煮える甘く香ばしい匂いが漂っていた。
冬の足音が本格的に近づき、分厚い石壁に囲まれた部屋の窓ガラスには薄らと霜が降りている。広い執務机から少し離れた暖炉のそばで、セレスティアンは膝をつき、平たい木製の皿を床に置いた。
皿の中には、領内の農家から届いた新鮮なヤギのミルクに、細かく叩いて火を通した鶏肉と、柔らかく煮込んだカボチャのペーストが混ぜ合わされている。ほんのりと湯気を立てるそれを前にして、黒と茶色の毛玉――仔犬のポチが、全身の筋肉を硬直させて「待て」の姿勢をとっていた。
琥珀色の丸い瞳は皿の中身に釘付けで、短い尻尾の先だけが微かに震えている。
「……よし」
セレスティアンの低く静かな許可が下りた瞬間、ポチは弾かれたように皿に顔を突っ込んだ。
「はふっ、ちゃくっ、はふはふっ」
脇目も振らず、無心でペーストを咀嚼し、ミルクを舐め取る。小さな顎がせわしなく動き、鼻腔からは興奮したような荒い鼻息が漏れていた。食事に夢中になるあまり、短い後ろ脚は微かに踏ん張り、ちぎれんばかりの速度で左右に振られている尻尾が、床の絨毯をぱたぱたと叩き続けている。
食事の勢いが良すぎるため、ポチは短い前足を皿の縁にかけ、無意識のうちに少しずつ前へと押し進み始めていた。滑りの良い磨かれた床板の上を、木皿がズリズリと微かな音を立てて進んでいく。ポチ自身は全く気づいておらず、ただ目の前の肉片を追いかけるのに必死だ。
やがて「コツン」と軽い音がして、皿が執務机の太い脚にぶつかって止まった。それでもポチは気にせず食べ続けている。
セレスティアンはその様子を床に膝をついたまま、無言で見下ろしていた。彼は静かに手を伸ばし、机の脚に押し付けられた皿を、ポチが食べやすい元の位置へと引き戻してやった。ポチは皿が移動しても口を離さず、そのままズルズルと一緒に引き戻されていく。
前世の記憶。過労に次ぐ過労の末、執務デスクで心臓を止めた黒川理人だった頃、深夜の暗い部屋に帰り、スマートフォンの小さな画面越しにしか見られなかった命の温もり。それが今、自分の手で用意した食事を全力で腹に収めている。ただそれだけの事実が、セレスティアンの胸の奥底にある冷たく凝り固まった疲労を、わずかに溶かしていくようだった。
「……おはようございます、代官様。朝から和やかなところ申し訳ありませんが、よろしいですか」
静かに開いた扉の向こうから、代官補佐のカイラが声をかけた。彼女の普段の凛とした軍服風の執務服は、外の冷気から守るために厚手のウールコートに包まれている。彼女の後ろには、クロエ、ヴィオラ、そしてソフィアが続いている。
セレスティアンは立ち上がり、軽く服の皺を払って執務机へと戻った。ポチは入室してきた女たちには目もくれず、皿の底についた最後の肉片を必死に舐め取っている。
「構わない。状況は」
彼が椅子に腰を下ろすと、クロエが分厚い紙の束と、色鮮やかな数枚の羊皮紙を机の上に広げた。普段のラフなシャツ姿ではなく、少しだけタイトなジャケットを羽織った彼女の目には、舞台上で見せるエンターテイナーとしての愛嬌よりも、盤面を支配する冷徹なプロデューサーとしての光が宿っている。
「周辺国に仕掛けていた『種まき』、見事に花が開いたわよ」
クロエが指先で叩いたのは、ゼノア公国や近隣の商業国家で配られているという大衆向けの瓦版と、劇場の公演ポスターだった。
ポスターには、荒涼とした大地で寄り添い合う貧しくも美しい村人たちと、彼らを巨大な軍靴で踏み躙ろうとしている、太った醜悪な貴族の後ろ姿が描かれている。貴族の羽織るマントの端には、王家の紋章を連想させる意匠が巧妙に、しかし明確に組み込まれていた。悲壮感漂う構図と、鮮烈な色彩の対比が、見る者の目を強烈に引きつける。
「人間はね、他国の税率の変更や、辺境の領地の権利問題なんて小難しい政治の裏話には1ミリも興味を持たないわ。でも、『健気に生きる無力で美しい人々』が、『強欲で傲慢な権力者』に全てを奪われようとしている……という分かりやすい悲劇には、喜んで同情し、勝手に怒ってくれる」
クロエは口角を上げ、ポスターの横に分厚い台本を置いた。
「クレメント商会の流通網を使って、周辺国の主要な劇場にこの台本と資金をばら撒いたわ。タイトルは『最果ての青き奇跡』。病の妹を救うために青い霊薬を作る辺境の村人たちと、それを不当な税で奪おうとする中央の悪徳貴族の物語よ。劇中歌には、故郷への郷愁を誘うメロディを使っているわ。今、ゼノア公国の王都では連日満員御礼。街の酒場では、吟遊詩人たちが辺境の民を讃える歌を歌っている」
「大衆の感情を煽ることは危険を伴います。これが王都の耳に入れば……」
カイラがポスターを見つめ、微かに眉をひそめる。
「入っているわよ、とっくに」
クロエの言葉を引き継ぐように、ソフィアが手元のバインダーを開いた。
「昨日、王都に潜らせている情報屋から定期連絡があったわ。王都の外交サロンは今、かなりピリピリしているみたい。ゼノア公国や周辺国の特命全権大使たちが、王都の貴族たちとの茶会で『辺境への過度な介入は、人道的な観点からいかがなものか』と嫌味を言い始めているそうよ。ただの牽制とはいえ、外交の場で公式に口にされた意味は重いわ」
ソフィアは青緑色の瞳を細め、手元の資料から淡々と数字を読み上げる。
「周辺国の主要な新聞や瓦版における、王家の辺境政策への非難論調は、この2週間で全体の8割を超えたわ。加えて、王都に滞在している他国の商人たちも、王国への不信感から王家の特権商人との新規契約を保留にする動きを見せ始めている。見事な経済的逆風ね」
「ええ、その影響はうちの商会にもはっきりと出ていますわ」
ヴィオラが扇を開き、満足げな溜息を吐いた。
「周辺国の富裕層は今、アビス領のポーションや特産品を買うことを『正義ある弱者への支援』だと錯覚していますの。おかげで、彼らは以前にも増して高値を出し、我先にと商品を求めてくる。ブランドの価値が、ただの『希少品』から『理念の象徴』へと昇華されたということですわね。クロエ殿のプロモーションの腕は認めざるを得ませんわ」
セレスティアンは机の上に広げられた資料に視線を落とし、感情を交えない声で確認した。
「エレナが裏ルートで流した情報についての反応は」
「完璧に機能していますわよ」
クロエが自信に満ちた笑みを浮かべる。
「ポイズンピルの効果は絶大ね。エリシア殿下の周囲にいる強硬派の貴族たちも、すっかり沈黙したわ。他国への技術流出の恐怖と、今のこの国際社会からの非難。彼らが辺境へ軍を動かせる隙なんて、もう1ミリも残されていない」
「王家の人間は、自分たちが盤面の中心にいると思い込んでいる」
セレスティアンは冷たい三白眼で、窓の向こうのどんよりとした冬空を見据えた。
「だが、経済も情報も、すでに国境を越えて連動している。内側の論理だけで全てが押し通せる時代ではない」
「……これで、特別税の要求は完全に宙に浮いたことになります」
カイラが安堵の息を吐き、姿勢を正した。
「カミラ殿が稼いだ時間の使い道として、これ以上ない成果です。エリシア殿下も今頃、身動きが取れず苛立っているでしょうね」
「大衆の熱は冷めやすい。燃え上がっているうちに、次の段階へ移行する」
セレスティアンはペンを手に取り、白紙の羊皮紙を手元に引き寄せた。
「王都の特産品依存度は、すでに後戻りできない水準に達している。クレメント商会、王都へのポーションおよび主要物資の供給について、計画通りに『調整』を始めろ」
ヴィオラの目の色が、鋭い商人としてのそれに変わった。
「よろしいので? いよいよ、王都の首を真綿で絞め上げるのですね。これまでは潤沢な供給で彼らの喉を潤してきましたが、急に蛇口を締めれば、王都の物価は瞬く間に跳ね上がりますわよ」
「理由は何でもいい。関所の審査遅れ、天候不良、あるいは馬車の車軸の故障。あらゆる合法的な理由をつけて、王都へ向かう流通の速度と量を絞り落とせ。徐々に、だが確実にだ。市場の不安を煽り、彼らが自ら買い占めに走るよう仕向けろ」
「承知いたしましたわ。王都の貴族たちが青い顔をして金貨を積む姿が、今から目に浮かびます」
「クロエ」
「はいはい」
「引き続き、周辺国における『アビス領の被害者としてのブランド』を維持しろ。王都が物資不足で混乱し始めた時、周辺国が王都に同情しないための土壌を固めておく必要がある」
「任せて。悲劇のヒロインを演じきることにかけては、私に敵う人間はいないわ。次は少し趣向を変えて、辺境の孤児院を支援するチャリティー公演でも打とうかしらね」
クロエは悪戯っぽくウインクをした。
次々と冷徹な指示を出し終え、セレスティアンがペンを置いた時だった。
「くぅーん」
足元から、満足げな、それでいて眠気を帯びた甘い声が聞こえた。
視線を落とすと、食事が終わって腹を満たしたポチが、いつの間にかセレスティアンの革靴の甲に短い顎を乗せている。丸々と膨らんだお腹を床にくっつけ、心地よさそうに目を閉じていた。
その光景を見て、冷え切っていた執務室の空気が、少しだけ緩んだ。
「王都の連中が今の代官様の姿を見たら、腰を抜かすでしょうね」
クロエが肩をすくめて笑う。
「冷血公爵が、犬の寝床代わりにされているなんて」
「実務に支障はない」
セレスティアンは淡々と返し、ポチの耳の裏を指の背でそっと撫でた。ポチは身じろぎ一つせず、喉の奥で「すぅ、すぅ」と静かな寝息を立て始めている。
「行くぞ。今日は西区画の水道工事の視察だ」
彼がポチを起こさないように慎重に足を退け、立ち上がると、カイラたちが一礼して扉を開ける。
冷徹な指揮官としての顔に戻った彼が部屋を出た後も、静かな執務室には暖炉の爆ぜる音と、平和な仔犬の寝息だけが残されていた。




