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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第33話 ポイズンピルの発動準備

 春の気配が、ようやく王国の最北端であるアビス領にも届き始めていた。

 雪解け水が水路を勢いよく流れ、石畳を叩く商人たちの荷馬車の音も、冬の間とは違う軽快さを帯びている。

 だが、分厚い石壁に守られた代官所の執務室内は、外の柔らかな空気とは裏腹に、極めて真剣な、そして奇妙な緊張感に包まれていた。


 セレスティアンが重厚なマホガニーの執務机で決裁書類から視線を上げると、視界の先では、王家の元筆頭暗殺者が床に這いつくばっていた。


「……甘いわね。右の踏み込みが0.2秒遅い」


 エレナ・ルージュは、極限まで鍛え抜かれたしなやかな身体を絨毯の上に沈め、真剣な眼差しで「標的」と対峙していた。彼女の右手には、丈夫な麻紐を編み込んだ手作りの犬用おもちゃが握られている。

 その対面で、黒と茶色の毛玉――生後数ヶ月を迎えたポチが、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、低い姿勢で唸り声を上げていた。


「ぐるるるぅっ!」


 ポチが弾かれたように飛びかかる。狙いは正確に麻紐の端を捉えていたが、エレナは最小限の手首の動きだけでおもちゃの軌道を数センチずらし、見事に空を切らせた。ポチはそのまま勢い余って床を転がり、ポフッと間抜けな音を立てて壁の羽目板にぶつかった。


「そこだ!」


 すかさずエレナがおもちゃを鼻先に落とすと、ポチは仰向けのまま短い四肢をバタバタと動かして食らいついた。仕留めた獲物を逃がすまいと、必死に首を振っている。


「……何をしている、お前は」


 セレスティアンが低い声で問いかけると、エレナは床に寝そべったまま、悪びれずに顔を向けた。

「CISO(総合安全保障統括)としての職務です。領主の愛犬の反射神経と動体視力を鍛え、有事の際の生存率を引き上げています」

「嘘をつけ。単に遊びたいだけだろう」

「バレましたか。でも、仕方ないじゃないですか。この可愛さは抗えませんよ」


 エレナはポチの柔らかい腹を撫で回し、ポチも嬉しそうに彼女の手首に短い牙を立てて甘噛みしている。ここ数日、冬毛から春毛へと生え変わる時期を迎えたポチは、ブラッシングの度にふかふかの毛を散らし、その愛らしさで代官所の職員たちを次々と陥落させていた。冷徹な暗殺者であったはずのエレナでさえ、今やその虜である。


「……代官室の風紀が乱れています」


 背後から冷ややかな声が響き、ドアが開いた。代官補佐のカイラだ。手には第4居住区のインフラ整備に関する見積書や、各村からの税収記録など、分厚い書類の束が抱えられている。

 彼女は床で戯れるエレナとポチに厳しい視線を向けた。


「ここは領地の心臓部です。いくら愛らしいからといって、執務時間中に犬と床で転がり回るなど、規律の緩みにもほどがあります――」


 言いかけたカイラの足元に、ポチがトコトコと歩み寄った。そして、彼女の美しく磨き上げられた革ブーツのつま先に短い前足をちょこんと乗せ、琥珀色の丸い瞳で見上げて「きゅぅ」と小さく鳴いた。

 カイラの言葉が、ピタリと止まった。

 彼女は数秒間、微動だにせずポチと見つめ合った。凛とした表情の裏側で、激しい葛藤が処理されているのが傍目にもわかる。

 やがて彼女は、無言で抱えていた書類を近くの補助テーブルに置いた。そして、軍服風のタイトなスカートの裾が絨毯に擦れるのも厭わず、スッと完璧な所作で片膝を突き、ポチの耳の裏を両手で丁寧に撫で始めた。


「……今日だけです。ブラッシングの予約は、私が午後に入れてありますからね。それまで毛並みを乱さないように」


 真顔でポチの首筋を撫で回す実務統括の姿に、セレスティアンは小さく息を吐いた。


「和やかなところ申し訳ありませんけれど。私にもその毛玉を撫でる権利をいただけますかしら」


 開け放たれたドアの枠に寄りかかり、艶やかな声が響いた。

 クレメント商会の女会頭、ヴィオラだった。洗練されたタイトなパンツスーツに身を包んだ彼女は、計算されたヒールの音を響かせて室内へ入ってくる。

 ポチが新しい来訪者に気づいて尻尾を振る。ヴィオラはしゃがみ込もうとしたが、途中でハッとしたように動きを止め、わざとらしく咳払いを一つして背筋を伸ばした。


「いけませんわね。今日は重要な契約の席。私のペースを乱されるわけにはいきませんから」

「香水を変えたな」


 セレスティアンが指摘すると、ヴィオラは優雅に肩をすくめた。


「犬は強い匂いを嫌うと聞きましたの。前回、少し顔を背けられたのがショックで……王都の調香師に、刺激の少ない自然由来の香りを急いで作らせましたわ。……いえ、何でもありません。仕事の話をしましょう」


 彼女がテーブルの席に着き、背筋を伸ばした瞬間、室内の空気が一変した。

 カイラも立ち上がり、衣服の微かな乱れを整えてセレスティアンの斜め後ろに控える。エレナも音もなく立ち上がり、壁際の影へと身を潜めた。先程までの和やかな空気は完全に消え去り、そこには冷徹な実務家とプロフェッショナルたちの顔だけがあった。


「エレナ。状況は」


 セレスティアンの短い問いに、影の中からエレナが報告を始める。


「王都の近衛軍、および第1直轄軍に不穏な動きがあります。表向きの理由は『北方の魔獣討伐のための大規模演習』。しかし、兵站局を通じた保存食の大量発注と、工房への武器の調達量、そして何より行軍の予定ルートから見て、目標がこのアビス領であることは疑いようがありません」


 カイラの涼しげな瞳が険しさを増した。


「カミラ殿が進めている法務闘争で手詰まりになったエリシア殿下が、ついに実力行使による強行接収に踏み切るつもりですか」

「可能性は極めて高いわ」


 ヴィオラが扇を開き、口元を隠した。


「法的な正当性がなくても、圧倒的な武力で代官所を制圧し、イレーネの製造施設と技術者を確保してしまえば、あとはどうとでもなると考えているのでしょう。王家の正規軍に逆らえば、あなたたちは完全な『反逆者』になりますからね」

「彼らは『この土地と施設を力で奪えば、莫大な利益はすべて自分たちのものになる』と思い込んでいる。頭の中が中世の略奪から一歩も進歩していない」


 セレスティアンは淡々と事実だけを述べ、引き出しから数枚の分厚い羊皮紙を取り出した。


「だからこそ、その前提を物理的に破壊する。奪った瞬間に、彼らが欲した利益のすべてが腐り落ちる仕組みを作る」


 彼は羊皮紙をテーブルの上に滑らせ、ヴィオラの前に提示した。


「……これは?」

「『ポイズンピル』とでも呼ぶべき条項だ。クレメント商会と、このアビス領との間で結ぶ、新たな独占契約の更新案」


 ヴィオラは扇を閉じ、書類に目を落とした。その視線が、一行ずつ文字を追うごとに鋭さを増していく。商人としての驚異的な計算速度で、書かれている文面がもたらす未来の盤面を予測しているのだ。


「……第1条。アビス領の統治権、および代官の権限が、武力や非合法な手段によって剥奪されたと判断された瞬間、現在アビス領が有する全特産品の独占販売権は、無条件でクレメント商会に帰属する。そして……」


 ヴィオラは息を呑み、顔を上げた。


「第2条。イレーネ・フォン・ヴァルトスタインが保有する魔導炉の特許技術、およびポーションの製造権は、契約発動と同時に、クレメント商会を介してゼノア公国を中心とする周辺国の特定ギルドへ『自動的に無償譲渡』される……!」


 カイラも目を見開いた。


「代官様、それは……王都の人間がこの代官所を制圧した瞬間に、私たちが持っている最も価値のある技術と莫大な利益が、全て他国へ流出するということですか」

「そうだ」


 セレスティアンは冷たく言い放つ。


「イレーネには既に、工房のメイン魔導炉に物理的な自壊プログラムを組み込ませてある。俺か彼女の生体認証を通さずに炉を停止、あるいは分解しようとすれば、コアはただの鉄くずに変わる。彼女は嬉々として爆破機構を設計していた。技術者たちも、有事の際はエレナの部隊が地下水路を通って周辺国へ脱出させる手はずが整っている」


 ヴィオラは手元の契約書を見つめ、微かに肩を震わせた。


「……なんて悪辣な条項かしら。これを知れば、王都の貴族たちは絶対に軍を動かせなくなりますわ。手を出した瞬間に、自分たちが欲しかったものが永遠に失われるのですから。王都の経済は完全に孤立し、周辺国だけが技術的優位に立つことになる」

「これを、あえて王都の強硬派の耳に入るようにリークする」


 影の中からエレナが補足した。


「私の一存で動かせる王都の裏ルートを使えば、エリシア殿下の側近の机の上に、この契約書の写しを『偶然』届けることができます。彼らの内部で、強行接収派と慎重派を分断させるための極上の劇薬になります」


「だが、ヴィオラ。お前の商会にはリスクが伴う」


 セレスティアンの三白眼が、女会頭を真っ直ぐに射抜いた。


「この契約にサインすれば、いざという時、クレメント商会は完全に王家を敵に回すことになる。周辺国での新しい市場を独占できる莫大なリターンはあるが、王国内での商売は致命的な打撃を受ける。……降りるなら、今だ」


 ヴィオラは手にした羽根ペンを指先で弄りながら、ふっと蠱惑的な笑みを浮かべた。


「……愚問ですわね、セレスティアン」


 彼女は迷いなくインク壺にペン先を浸した。


「腐りかけの王都の既得権益にしがみつくか。それとも、あなたが作り出す新しい巨大な経済圏の心臓部を担うか。商人の計算機を叩くまでもありませんわ。私は、一番金になる盤面に全額を賭ける主義ですの」


 羊皮紙に、流麗な筆記体でクレメント商会会頭のサインが刻まれた。


「契約成立ね」


 ヴィオラはペンを置き、ふうっと息を吐いて背もたれに身体を預けた。先程までの張り詰めた空気が、少しだけ緩む。


「……終わったことですし、少しだけよろしいかしら?」


 彼女の視線は、セレスティアンの足元に向けられていた。

 そこでは、難しい話に飽きたポチが、丸まって静かな寝息を立てている。


 セレスティアンが微かに頷くと、ヴィオラは立ち上がり、ヒールの音を殺してしゃがみ込んだ。そして、念願だった黒と茶色の毛玉を、壊れ物でも触るかのようにそっと両手で抱き上げた。


「……んぅ」


 目を覚ましたポチが、ヴィオラの顔を見上げて短い尻尾をパタパタと振る。彼女が新しく調合させた香水は、確かにポチの鼻を刺激しなかったようだ。


「ああ……なんて愛らしいの。これほどの完璧な造形、王都の宝石職人でも作り出せませんわ」


 完全に商人の仮面を捨て去り、仔犬に頬ずりをする女会頭の姿を見て、セレスティアンは執務机の上の書類を揃えながら短く告げた。


「カイラ。次の手配を進めろ。防衛策が整った以上、こちらから王都の息の根を止めにいく」

「承知いたしました。経済制裁のフェーズに移行します」

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