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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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32/50

第32話 CISO誕生

 分厚い石壁に囲まれた執務室。窓ガラスにはまだ霜が降りているが、差し込む陽の光は少しずつ強さを増していた。

 セレスティアンは重厚なマホガニーの机に向かい、各区画から上げられた工事の進捗報告書に目を通している。経済特区の拡大に伴い、周辺諸国からの移住希望者は後を絶たない。南部に新設される第4居住区の区画割り、領都の地下を網の目のように這う下水道網の延伸計画、そしてイレーネが要求してきた次世代魔導炉に投じる莫大な予算の承認。インクの染みた羊皮紙からは、街が凄まじい熱量で膨張している事実が読み取れる。

 手元の万年筆が羊皮紙の上を滑り、カリカリという乾いた硬質な音だけが、静まり返った部屋に響き続けていた。


 その規則的な音に混じって、机の下からコトン、シャカッ、という別の音が聞こえてくる。

 ポチだ。

 数ヶ月前に路地裏で拾われた黒と茶色の毛玉は、今や見違えるほど骨格がしっかりとし、冬毛の被毛も艶やかな光沢を帯びている。

 ポチが夢中になっているのは、ヴィオラが王都から持ち込んだ最高級の鹿革ボールだった。

 以前はただ麻袋の端に噛み付いて首を振り回すことしかできなかったポチだが、最近では見違えるほど遊びの技術を向上させていた。

 短い前足を器用に使ってボールを固定し、鼻先でツンと押し出す。不規則に回転しながら机の脚に当たって跳ね返ってくる球体を、待ち構えていたように両前足でパシッと捕え、小さな牙で軽く咥える。ラグの端に引っかかってボールが止まると、短い脚で駆け寄り、再び鼻で転がして軌道に乗せる。誰に教えられたわけでもない、見事な一人遊びのループだった。

 時折、フローリングの板目を転がったボールがセレスティアンのブーツの踵に当たって止まると、ポチは上目遣いで主を見上げ、「くぅん」と喉を鳴らして催促する。

 セレスティアンは視線を書類から外さず、万年筆を動かしたまま、ブーツのつま先でボールを軽く蹴り返してやった。

 ポチは床をシャカシャカと爪で鳴らして追いかけ、見事にキャッチすると、誇らしげに胸を張って短い尻尾をちぎれんばかりに振った。


 セレスティアンの目元が、ほんのわずかに緩む。

 前世の激務の中では決して手に入らなかった、静かで穏やかな時間。この平穏を維持するためだけでも、領地の防衛網を盤石にする価値があった。


 控えめなノックの音が響き、扉が開いた。


「失礼します、ボス。定期報告に上がりました」


 音もなく入室してきたのは、黒を基調としたタクティカルなパンツスーツに身を包んだエレナだった。

 彼女の首に、魔力封じのチョーカーはない。その代わりに、左胸にはアビス領の正規役員であることを示す銀の徽章が鈍く光っていた。


 数日前。あの地下尋問室でセレスティアンから雇用契約書を突きつけられた直後。

 エレナは街の裏通りに身を潜めていた5名の部下たちを回収した。彼らは王家の影として、死と隣り合わせの任務を強いられてきた使い捨ての駒たちだった。

 全員が酷く痩せこけ、身につけている衣服は破れ、中には先の任務で負った傷が化膿し、微熱を出して足を引きずっている者もいた。王家からの治療費の支給などあるはずもなく、彼らは自力で傷が癒えるのを待つしかなかったのだ。

 エレナが彼らを代官所の用意した療養施設へ案内した時、部下たちは決して警戒を解こうとしなかった。部屋に入るなり壁を背にし、王家からの粛清の罠だと疑って武器の柄から手を離さない者すらいた。

 だが、彼らの鼻腔をくすぐったのは、毒薬の匂いではなく、厨房から運ばれてきた湯気を立てる肉と根菜のシチューの香りだった。

 部屋の中央には、清潔な白いシーツが敷かれた人数分のベッドがあり、赤々と燃える暖炉が凍えきった彼らの手足をじんわりと溶かしていく。

 エレナは、彼らの前に分厚い銀貨の袋を置いた。着任支度金だった。

 そして彼女は、手元の契約書を読み上げた。完全週休2日制。深夜労働割増。危険任務手当の支給。業務中の負傷に対する全額補償と、療養期間中の生活費の保障。さらには、万が一の事態が起きた際の、残された家族への遺族年金制度。

 部下たちは初め、何を言われているのか理解できないという顔をした。

 やがて、最も若い部下が、恐る恐るシチューの皿に手を伸ばした。木のスプーンで掬い上げ、大きく切られた柔らかな塩豚と熱い根菜を飲み込んだ瞬間。

 彼の目からポロポロと大粒の涙が溢れ出し、分厚いオーク材のテーブルに濃いシミを作った。声を殺して泣き崩れるその細い肩を、隣に座っていた別の部下が震える手で不器用に抱き寄せる。彼らもまた、差し出されたスプーンを握りしめたまま、信じられないものを見るような目で湯気の立つボウルを見つめていた。

 エレナは、壁際でその光景を静かに見つめていた。

 彼女自身も、傷ついた彼らをどうやって守ればいいのか、これまでずっと暗闇の中でもがいていた。

 エレナは胸元にしまった雇用契約書の上から、自らの心臓の鼓動を確かめるようにそっと手を当てる。冷え切っていた指先が、今は確かな熱を持っていた。

 彼女は涙を流す部下の肩を無言で叩き、ゆっくりと部屋を後にした。二度と、彼らにあのような冷たい夜を過ごさせはしないと、誰に告げることもなく誓って。


「昨夜の件の報告です」


 机の前に立ったエレナは背筋を伸ばし、冷徹なプロフェッショナルの顔で口を開いた。


「領都の北東、森の防壁付近にて、王都からの後続の工作員と思われる3名を捕捉、無力化しました」


 昨夜。雲が月を隠す、漆黒の夜。

 アビス領の外壁に迫る3つの影があった。エレナからの定期連絡が途絶えたことを不審に思った王都が、追加で放った別働隊だ。

 彼らが壁の隙間にフックを掛けようと息を潜めたその瞬間。


「遅いわね。待ちくたびれて、せっかくの温かいお茶が冷めちゃったじゃない」


 頭上の木の枝から、冷ややかな声が降ってきた。

 工作員たちが弾かれたように見上げると、闇に溶け込むような黒いコートを羽織ったエレナが、音もなく着地した。


「エレナ……! 貴様、寝返ったか。王家への恩を忘れた裏切り者め」


 工作員の1人が、低く殺気を放ちながら毒の塗られた短剣を構える。

 エレナは鼻で笑い、コートのポケットからゆっくりと両手を出した。


「黙れ。ここで貴様を処刑し、領主の首を――」


 男が言い終わるより早く、エレナの身体が掻き消えた。


「……なっ!?」


 次の瞬間、エレナは男の懐に完全に潜り込んでいた。

 足が、羽のように軽い。視界の隅々までがクリアで、思考と肉体が寸分の狂いもなく直結している感覚があった。

 イレーネが開発した最新の魔導繊維を用いた軽量防具が、風の抵抗を全く感じさせない。そして手に持つ魔力を帯びた業物の短剣が、まるで自らの指先の一部のように相手の軌道を読み取っていた。

 エレナの刃が、工作員の手首を正確に弾き飛ばし、その勢いのまま頸動脈スレスレに冷たい柄を叩き込む。


「私の部下たちは今、交代制で温かいベッドで寝てるの。あんたたちに、彼らの睡眠時間を邪魔させるわけにはいかないのよ」


 残る2人が左右から襲いかかってくる。

 エレナは低く身を沈め、右からの斬撃を最小限の動きで回避すると同時に、左の男の膝関節に正確な前蹴りを叩き込んだ。骨が砕ける鈍い音が響く。

 体勢を崩した男の顎を掌底で跳ね上げ、振り返りざまに右の男の鳩尾へ短剣の柄頭を深く沈める。

 わずか数十秒。森の静寂が戻った時には、3人の工作員は完全に沈黙し、冷たい土の上に転がっていた。

 エレナは短剣を鞘に収め、冷酷な肉食獣の目で見下ろす。


「深夜残業代は出るから手加減はしないわ。……さ、さっさと片付けて、お風呂に入りましょ」


「――というわけで、侵入者3名はすべて生け捕りにし、地下の拘置室へ放り込んでおきました。いつでも尋問可能です」


 エレナは事もなげに報告を締めくくった。

 セレスティアンは表情を変えることなく、手元の報告書に承認のサインを書き込む。


「防諜網の展開と迎撃、見事な手際だ」

「ありがとうございます。王都の連中の動き方は知り尽くしていますから。私の目が黒いうちは、ネズミ1匹、この代官所には近づけさせません」

「ご苦労だった。夜間出勤の特別手当と、危険任務手当を加算して財務に回しておく。今日はもう上がって休め」

「……本当に、いただけるんですか? 昨日も、着任祝いだと言って特別手当をいただいたばかりですが」


 エレナは少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた。


「俺は契約に書かれていない労働はさせないし、成果には正当な対価を払う。それだけの価値をお前が提供したという事実に対する支払いだ」


 セレスティアンが淡々と告げると、エレナの顔からプロの暗殺者としての冷徹な仮面がスッと消え去った。

 代わりに現れたのは、パッと花が咲いたような可憐で人懐っこい笑顔だった。


「ありがとうございます、ボス! 一生ついていきます!」


 その激しいオンオフの切り替えに、セレスティアンが内心で小さく息を吐いた時だった。


「ひゃんっ!」


 エレナの足元で、革のボールに飽きたポチが、彼女の磨かれたブーツの紐に噛み付いてじゃれつき始めたのだ。


「あーっ! 可愛いー!」


 先程まで氷のように冷酷な顔で侵入者の骨を折っていた女は、一瞬にして床にしゃがみ込み、ポチの首筋をわしゃわしゃと撫で回し始めた。


「なにこの毛並み、ふわふわじゃない! お腹ぷにぷに!」


 ポチも満更ではない様子で、腹を見せて短い尻尾を床に叩きつけている。

 そこへ、執務室の扉が開いてカイラが入ってきた。彼女の腕には、新たに承認を待つ書類の束が抱えられている。


「代官様、次の決裁書類ですが……エレナ殿?」

「あ、カイラさん! 見てくださいこの子、お腹の毛がすごく柔らかいんですよ!」


 床で犬と無防備に戯れる新任の総合安全保障・情報統括を見て、カイラは呆れたように片手で額を押さえた。


「……代官様。彼女の能力は疑いませんが、もう少し威厳というものをですね」

「結果を出している以上、私生活の態度まで管理するつもりはない。それより、第4区画の木材の発注書だが、昨日の段階で単価が銀貨2枚上がっている。クレメント商会に再確認しろ」


 セレスティアンは平然とカイラから書類を受け取り、即座に実務の指示へと意識を切り替えた。


「……承知いたしました。すぐに確認させます」


 カイラが諦めたように小さく息を吐き、手元のバインダーにペンを走らせる。

 その足元の絨毯の上では、ポチが仰向けになってエレナの指先に甘噛みをし、彼女が「ダメでしょー」と嬉しそうに笑い声を上げている。

 セレスティアンは視線を落とすことなく、再び黙々と羊皮紙に万年筆を走らせ続けた。

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