第31話 暗殺者のヘッドハンティング
翌日の午後。アビス領代官所の地下。
かつては罪人を繋ぐための赤錆びた鉄格子と、悪臭を放つ汚泥にまみれていたその一角は、今や冷たくも清潔な尋問室として完全に改装されていた。隙間なく積まれた灰色の石壁には最新の魔導灯が一定の明るさで灯り、空調の魔導具によって淀みのない空気が保たれている。
部屋の中央、背もたれのある簡素だが頑丈なオーク材の椅子に、エレナは座らされていた。
身を包んでいるのは、潜入時に着ていた血と土にまみれた漆黒の戦闘服ではなく、代官所が用意した清潔な麻の衣服だ。首には鈍く光る金属の輪――魔力封じのチョーカーがはめ込まれており、彼女の体内を巡るはずの膨大な魔力を根こそぎ遮断している。プロの暗殺者にとって、自身の魔力を感じ取れない状態は手足を一本失ったに等しい喪失感があった。
手首や足首を拘束する鎖はない。だが、部屋の隅には冷気を纏ったカイラが静かに立っている。彼女の腰に帯びた剣の柄に添えられた手、一切の隙がない足運び、そして研ぎ澄まされた視線は、エレナが僅かでも不審な動きを見せれば瞬時に間合いを詰め、一撃で制圧することを雄弁に物語っていた。
エレナはゆっくりと瞬きをし、無機質な冷たい石壁を見つめた。
首のチョーカーが発する微かな魔力阻害の振動だけが、彼女が敗北し、部下たちの命と引き換えに無条件降伏を選んだという事実を、静かに、しかし冷酷に突きつけている。
「……拷問の準備にしては、随分とのんびりしているのね」
エレナは意識して口角を上げ、挑発するように壁際のカイラへ声をかけた。
「すでに勝負はついたはずよ。さっさと私を吊し上げて、王家の情報を吐かせればいいじゃない。それとも、あの代官様は、私の口を割る手段すら思いつかないの?」
「静かにしろ。代官様が、間もなくお見えになる」
カイラは感情の乗らない平坦な声で返し、瞬き一つしなかった。その微動だにしない立ち姿は、彼女がいかに代官を絶対的な存在として信頼しているかを示していた。
直後、重い鉄の扉が鈍い音を立てて開いた。
エレナは即座にプロの暗殺者としての視線を扉に向ける。入ってきたのは、ダークネイビーのタイトな執務服を隙なく纏ったセレスティアン・フォン・ルシフェルだった。
長身から放たれる圧倒的な存在感と、一切の感情を読み取らせない冷徹な三白眼。その姿を視界に収めた瞬間、エレナの身体が本能的に微かに強張る。
だが、次の瞬間、エレナは自身の目を疑った。
セレスティアンの太い右腕に、何かがすっぽりと小脇に抱えられている。
黒と茶色の毛玉――仔犬のポチだった。
普段は代官所中を走り回り、隙あらば誰かの靴の踵に噛み付くやんちゃな仔犬だが、今はセレスティアンの太い腕に下からしっかりと支えられ、信じられないほど大人しくしていた。短い四肢を空中にだらんと垂らし、セレスティアンの体温と服から漂う微かな革の匂いが心地よいのか、丸い琥珀色の目を細めて完全に脱力している。時折、ふんすふんすと湿った鼻を鳴らし、うっとりとした表情でセレスティアンの腕に顎を乗せていた。
(……は?)
エレナは呆然とした。
冷酷無比な代官が、王家の筆頭暗殺者と対峙する地下の尋問室。その死の気配すら漂う張り詰めた空気を、一匹の無抵抗な仔犬の存在が暴力的なまでに破壊している。
セレスティアンはエレナの戸惑いなど一切意に介さず、静かな足取りで机を挟んだ向かいの椅子に腰を下ろした。ポチは彼の腕から膝の上へと移動させられたが、それでも抗うことなく、丸くなって心地よさそうに目を閉じた。
「体調に異常はないな。食事は出たか」
セレスティアンは膝の上のポチの背中を無造作に撫でながら、極めて事務的なトーンで問いかけた。その声は低く落ち着いており、勝者の驕りも、尋問者としての威圧も全く感じられない。
「……ええ。王宮の地下牢よりはずっと快適よ。麻の服も悪くないわ」
エレナは毒気を抜かれながらも、慎重に言葉を選ぶ。膝の上で寝返りを打つ仔犬から視線を外し、目の前の男を真っ直ぐに睨み据えた。
「それで? 降参した私に、今度は何を要求するの。昨夜の交渉通り、私の部下たちの命は保証してくれるんでしょうね」
「ああ。お前の部下たちは現在、別の区画の客室で丁重に保護している。怪我の治療も終わらせた。俺は不必要な殺しは好まない」
セレスティアンは懐から数枚の羊皮紙を取り出し、机の上に滑らせた。
「俺がここへ来たのは、昨夜の続き――お前を俺の陣営で雇用するための、具体的な契約条件を詰めるためだ」
エレナは机の上の書類と、彼を交互に見る。
「……本気なの? 私は昨日まで、あなたの命を狙っていたのよ。王家の犬として育てられ、裏切るかもしれない人間を、どうしてそこまで」
「裏切るメリットが存在しないからだ。人間は、自身の正当な評価と安定した居場所を保証してくれる組織を、そう簡単には裏切らない」
セレスティアンは淡々と告げた。
「その前に、お前が現在、王家から受けている待遇を確認させろ。王家の影、筆頭暗殺者としての基本給はいくらだ」
暗殺者に対する尋問とは思えない、あまりにもビジネスライクな問い。
エレナは戸惑いながらも、それが自らの世界の常識であることを隠すことなく答えた。
「……基本給なんて存在しないわ。完全な成功報酬よ。任務を完遂した時だけ、生きるためのわずかな金と物資が与えられる」
「任務に必要な装備や、情報収集にかかる経費は?」
「全て自己負担よ。私たちが勝手に手配して、勝手に使う。王家は一切の痕跡を残さないから」
「任務で負傷した場合の治療費や、死亡した際の遺族への補償は?」
「あるわけないでしょう。私たちは存在しない人間なのよ。怪我をすれば使い物にならないゴミとして捨てられるし、死ねばそれまで。……それが、王家の影として生きるということよ」
エレナの言葉には、深い諦観と、幼い頃から刷り込まれてきた自己犠牲の精神が滲んでいた。過酷な環境で生き抜くため、彼女は他人の命も自分の命も軽く見ることで精神の均衡を保ってきたのだ。
だが、セレスティアンは微かに眉をひそめ、冷たい吐息を漏らした。
「……信じがたいな。国家の最高機密を扱い、命を賭ける高度な専門職に対する投資が、完全に破綻している」
「なっ……」
「使い捨ての駒として扱うのは、目先の経費を浮かすための一見して安上がりな手段だ。だが、組織の長期的な運営において、これほど愚劣な方法はない」
セレスティアンの低い声が、地下室に響く。
その論理は、暗殺者の非人道性を非難するような感情論ではなく、徹底した数字と経営の視点に基づいていた。
「優秀な人材の育成には莫大な時間とコストがかかる。怪我や死によってその人材を使い捨てるということは、組織が蓄積した技術と経験値を自らドブに捨てるのと同じだ。加えて、常に死の恐怖と貧困を背負わせ、自己負担で任務を強要すれば、いずれ必ず組織への忠誠心は擦り切れ、パフォーマンスは低下する。……洗脳と搾取に依存した、典型的な三流の組織運営だ」
エレナは言葉を失った。
彼女が誇りとし、唯一の生きる術だと思って命を賭けてきた「王家の影」としての生き様を、目の前の男は「愚劣な搾取」「三流の組織運営」と一刀両断したのだ。
「お前が部下を家族のように庇ったのは、王家が何も保障しないからだろう。お前自身が彼らの盾になるしかなかった」
セレスティアンは机の上の羊皮紙――彼が自ら作成した雇用契約書を、エレナの目の前へと押し出した。
「俺の陣営で、正式な役員として働け。役職は『総合安全保障・情報統括』。領内の防諜、治安維持、および特務部隊の育成を任せる」
エレナの視線が、自然と羊皮紙に記された整然とした文字の羅列に落ちる。
「基本給は、王都の近衛騎士団長の3倍を保証する。潜入や戦闘などの特殊任務が発生した場合は、その都度、正規の危険手当を上乗せする。装備品の調達、部下の育成費などの経費は全て代官所が負担する。また、任務で負傷した場合は、うちの技術開発部が精製する最高品質のポーションを無償で提供し、完全な医療保障を約束する」
淀みなく提示される、暗殺者という裏の住人にとっては信じがたいほど明確で手厚い条件。それは彼女がこれまで生きてきた世界を根本から否定するほどの、圧倒的な「価値の提示」だった。
「そして最も重要なことだ。週に2日の完全な休息日を設ける。休息日における任務の強要は一切行わない」
「……きゅうそく、び……?」
「そうだ。身体と精神を休め、最高のパフォーマンスを維持するための絶対条件だ。俺は、有能な部下を無駄に使い潰すような真似はしない。お前の能力と、これまで培ってきた裏社会のネットワークは、それだけの対価を支払う価値がある」
エレナは僅かに震える手で、契約書を見つめた。
幼い頃から暗殺の道具として扱われ、誰かのために命を捨てるのが当たり前だと思っていた。自分の命の価値など、路傍の石ころよりも軽いと信じていた。
だが、目の前の男は違う。
彼はエレナを「プロフェッショナル」として正当に評価し、守るべき「部下」として、明確な価値と居場所を提示している。
「……命を、賭けろとは言わないの……?」
掠れた声で問いかけるエレナに、セレスティアンは冷徹な、しかし揺るぎない眼差しで答えた。
「命を賭けるな。生きて、持続的に俺に利益をもたらせ。それが、俺の提示する契約だ」
地下室の静寂の中、ポチが「きゅう」と寝言のように小さく鳴いて、セレスティアンの膝の上で寝返りを打った。セレスティアンの大きな手が、その小さな背中をゆっくりと撫でる。
その無防備で温かな音が、エレナの胸の奥で長年凍りついていた何かを、確実に溶かしていく。
彼女は深く息を吸い込み、契約書の末尾――自身の名を示すための署名欄へと、静かに視線を落とした。




