第30話 襲撃と完璧なリスクマネジメント
「それより、仕事の話をしようか。王都の暗殺部隊のトップ殿」
静まり返った執務室に、セレスティアンのひんやりとした声が響いた。
完全に気配を消し、あと数歩で背後から命を奪える位置まで迫っていたエレナは、背筋に氷をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
(馬鹿な。近衛騎士団長ですら、この距離まで気づけなかったのに……!)
しかし、彼女は王家の影として育てられた筆頭暗殺者だ。動揺に思考を支配される前に、身体がプロとしての最適な選択を弾き出す。
バックステップを踏んだ反動を利用し、音もなく両足で床を蹴った。標的がこちらを振り返り切る前に、手にした短剣で頸動脈を一突きにする。瞬きするよりも早い、暗殺者としての最速の刺突。
だが、彼女の足が再び絨毯を強く踏み込んだその瞬間。
部屋全体を眩いばかりの青白い光が満たした。
「……っ!?」
エレナの視界が白く染まり、直後、目に見えない巨大な鉄の塊に押し潰されたかのような強烈な衝撃が全身を襲った。
跳躍の軌道を強制的にへし折られ、彼女の身体は執務室の床に凄まじい勢いで叩きつけられた。全身の骨が軋み、肺から空気が絞り出される。指先一つ動かすことができない圧倒的な重力結界。
維持できなくなった光学迷彩の魔力が霧散し、虚空から彼女の輪郭が黒い染みのように浮かび上がった。
「な、ぜ……気付いた……」
エレナは絨毯に頬を押し付けられたまま、必死に顔を上げて呻いた。
魔力探知も、物理的なトラップもすべて視認して避けた。王都の最高技術の結晶である外套を纏い、呼吸音すら遮断していたのだ。
部屋の奥、デスクの向こう側で、セレスティアンは手にしていた万年筆を静かにインク壺に戻した。
「光学迷彩で光を屈折させても、お前自身の質量と体温までは消せない」
「体、温……?」
「この部屋には、微細な温度変化と床への圧力分布を検知するセンサーが組み込まれている。窓の隙間から外気が入り込んだ瞬間に、お前の位置と動きは完全に捕捉されていた。視覚情報に頼りきった、お粗末な潜入だ」
エレナは目を見開いた。そんな魔導具の概念は、王都の最先端の研究機関にすらない。物理的な仕掛けや魔力式の罠を探すことしか知らなかった彼女にとって、それは全く別次元からの反撃だった。
彼女の斜め後ろでは、暗闇に溶け込んでいたカイラが静かに歩み寄り、抜き身の長剣をいつでも頸動脈を切り裂ける間合いで構えていた。
「く、そっ……」
エレナは奥歯に仕込んだ毒を噛み砕こうとした。任務に失敗した暗殺者の末路は、情報の漏洩を防ぐための自決しかない。
しかし、彼女が顎に力を入れるより早く、カイラのブーツの踵がエレナの横顔を容赦なく踏みつけた。
「動くな。次に不審な挙動を見せれば、手足の腱をすべて斬る」
「待て、カイラ」
セレスティアンが短く制した。カイラは無言でブーツをどかしたが、剣先はエレナの喉元から一寸たりとも動かさない。
「自決する必要はない。俺が求めているのはお前の命ではなく、お前の持つ『機能』だ」
「……どういう、意味よ」
「王女エリシアは焦っている。莫大な利益を生み出すこのアビス領を、武力を使ってでも奪い取りたいが、大義名分がない。だから暗殺という非合法手段に出た。だが、お前がここで死ねば、王女は次の手を打つ」
セレスティアンはデスクの上の書類を揃え、引き出しにしまった。
「お前には、王女へ定期的に偽の報告を送ってもらう。セレスティアンは領地経営に忙殺され、警戒が緩んでいる。いつでも首を取れる状態だが、確実な好機を待っている、とな」
「私を、二重スパイにする気……? 断るわ。王家の影として育てられた私が、裏切るとでも……」
「忠誠心か。素晴らしいな。だが、お前がいなくなれば、王女は次に誰を差し向ける?」
その言葉に、エレナの肩がびくりと跳ねた。
「お前の部下たちだろう。この絶対的な防衛線を前に、お前の育てた部下たちが次々と送り込まれ、そして同じように捕縛され、死ぬ。王女にとって、暗殺部隊の駒など使い捨ての道具にすぎない」
エレナの深いブラウンの瞳に、明らかな動揺が走った。彼女は非常にドライで現実主義だが、自分の身内と認めた部下たちには強い愛情を持っている。セレスティアンの言葉は、彼女の急所を正確に突いていた。
「俺と契約すれば、お前の部下たちは無駄死にを免れる。加えて、王女が支払う報酬の三倍をクレメント商会経由の裏口座に振り込もう。王都の泥舟と運命を共にするか、俺に雇われて身内を守るか。選べ」
冷徹なロジックと、逃げ道を塞ぐ完璧な交渉。エレナはしばらく沈黙した後、深く息を吐き出して床に顔を伏せた。
「……降参よ。あなたの勝ち。王家の影より、辺境の代官の方がよほど悪魔みたいね」
セレスティアンは表情を変えることなく、カイラへ視線を向けた。
「重力結界を解除しろ。ただし、首に魔力封じのチョーカーをつけておけ。彼女の身柄の管理は君に一任する」
「承知いたしました」
カイラが手慣れた動作で拘束具を準備し始めるのを横目に、セレスティアンは一つ息を吐き、懐中時計を見た。
時刻は午前2時を回っている。
「……腹が減ったな」
深夜の襲撃と交渉で神経を使い、脳が急速に糖分と塩分を求めていた。彼はコートを羽織り、足元で眠そうに欠伸をしている仔犬のポチの頭を一度だけ撫でると、執務室を後にした。
★★★★★★★★★★★
深夜のアビス領都。
関税撤廃とインフラ整備により24時間体制で動く街には、夜間労働者や商人たちのための灯りが絶えない。冷たい北風が吹き抜ける中、大通りの一角にある大衆食堂の木戸からは、暖かな湯気と強烈に食欲をそそる匂いが漏れ出していた。
代官所の主導で深夜営業を始めたその店は、クレメント商会の流通網で仕入れた食材を使い、労働者たちに安価で高カロリーな食事を提供している。
「いらっしゃい……あ、代官様! こんな夜更けに」
カウンターの中で大きな鉄鍋の前に立っていた大柄な店主が、驚いたように慌てて頭を下げる。深夜にも関わらず、店内には夜勤明けの衛兵や荷運びの労働者たちが数人おり、熱気のこもったどんぶりを無心でかき込んでいた。
「いつものになさいますか?」
「ああ。大盛りで。生卵と、酢漬けの根菜も頼む」
セレスティアンがカウンターの端の丸椅子に腰を下ろすと、数十秒も経たないうちに目の前にずっしりと重い陶器のどんぶりが置かれた。
熱々の丸麦と白米の混合飯の上に、甘辛い醤油と砂糖のタレで煮込まれた薄切りの牛肉と、飴色になるまで火を通された玉ねぎがたっぷりと乗っている。湯気とともに立ち上る肉の脂と醤油の香ばしい匂いが、空腹の胃の腑を暴力的なまでに刺激した。
セレスティアンは小鉢の生卵を箸で素早く溶き、どんぶりの中央に回しかけた。熱々の肉とご飯に絡みつく黄色い黄身が、全体の塩気を包み込み、まろやかなコクを生み出す。
そのまま箸をどんぶりの底まで差し込み、肉と飯をまとめて一気にかき込んだ。
「……っ」
タレが染み込んだ飯の熱さと、噛むほどに溢れ出す牛肉の旨味が、直接叩き込まれる。生卵の滑らかさがそれを喉の奥へと一瞬で流し込み、箸を止めることを許さない。
数口かき込んだところで、小皿のピクルス――酢と塩、そして微かな香辛料で漬けられた千切りの根菜を口に放り込む。鋭い酸味と小気味良い歯ごたえが、口内に残る肉の脂を綺麗に洗い流し、次の一口への渇望をさらに加速させる。
無言。ただひたすらに、確かな美味を噛み締めながらかき込む。
5分とかからずにどんぶりを空にしたセレスティアンは、温かい茶で息をつき、カウンターに硬貨を置いた。
「ごちそうさまでした。また明日もお願いします!」
店主の威勢の良い声に見送られ、彼は再び夜の冷気の中へと足を踏み出した。
★★★★★★★★★★★
腹を満たしたセレスティアンが最後に向かったのは、代官所の裏手に新設された福利厚生施設だった。
イレーネが開発した薬草の抽出装置からほのかな香りが漂う一角に、深夜も稼働している休養室がある。
薄暗い室内に入り、上着とシャツを脱いでマッサージ台にうつ伏せになる。
「……お疲れのご様子で、代官様」
静かな足音とともに現れたのは、盲目の老施術師だった。
「右の肩甲骨から首にかけてだ。徹底的にやってくれ」
「承知いたしました。では、少々痛みますぞ」
老人の骨ばった親指が、セレスティアンの背中の筋肉の隙間に深く沈み込んだ。
「……っ!」
声にならない低い呻きが漏れる。
連日の書類決裁と、王都との神経を削る情報戦。彼の上半身は、文字通り岩のように凝り固まっていた。老人の指は一切の容赦なく、その凝りの中心にあるトリガーポイントを的確に捉え、物理的に破壊するように押し潰していく。
「首の付け根、血流が完全に滞っておりますな。これでは頭痛も酷かったでしょうに」
「構わん。ほぐせ」
激痛の奥にある、痺れるような快感。
押し潰された筋肉から強制的に血流が押し流され、全身に熱が巡っていくのがわかる。老人の指は背中から腰、そして凝り固まった腕の筋肉へと移動し、滞っていた疲労物質を次々と散らしていく。
明日もまた、王都の動きに対応するための膨大な決裁書類と、各部門とのすり合わせが待っている。機能不全に陥った肉体では、正確な判断は下せない。今はただ、この強張った筋肉を解きほぐすことだけが必要だった。
老人のリズミカルで力強い指圧に揉まれながら、セレスティアンの意識は徐々に深い微睡みへと落ちていく。
(……王都が暗殺という実力行使に出た以上、次の手は向こうの台所事情を完全に破壊することだ。今日手に入れた駒も、十分に使える……)
明日処理すべき段取りを頭の中で整理しながら、彼は静かに眠りの底へと沈んでいった。




