第29話 焦る王女と非合法手段
冬の寒さが厳しさを増すアビス領。分厚い石壁に囲まれた代官所の執務室は、赤々と燃える暖炉の火によって辛うじて適温が保たれているものの、窓ガラスにはびっしりと霜が降り、幾何学的な白い模様を描いていた。
部屋の奥、窓際に据えられた年代物の黒曜石のデスク。その冷たい天板に向かい、セレスティアンは数枚の羊皮紙を束ねては、横に置かれた承認印を淡々と押し続けていた。
領内のインフラ整備に関する最終確認作業だ。しかし、彼の右半身、特に膝下にかけては、ここ数十分ほど奇妙な膠着状態に陥っていた。
原因は、彼の右足にあった。
デスクの下、影が濃く落ちる空間。そこでは、黒と茶色の毛玉――仔犬のポチが、セレスティアンの右足のふくらはぎから足首にかけて、短い両前足を回してがっちりと抱きついているのだ。
路地裏で拾われてから数ヶ月。ポチは乳歯が生え変わる時期を迎えており、常に何かを噛んでいたい欲求に駆られているらしい。中でも彼が一番気に入っているのが、セレスティアンが履いている鹿革ブーツの踵であった。
ポチは主の体温と革の匂いがよほど心地よいのか、目を細めてうっとりとした表情を浮かべている。ふんす、ふんすと鼻先をスラックスの裾に押し付け、時折思い出したように喉の奥で「ぐるるるぅ」と甘えるような音を鳴らし、短い尻尾を床にパタパタと打ち付けていた。
セレスティアンが血流の滞りを感じて右足を数センチ動かそうとすると、ポチは全体重をかけて抵抗した。爪を立てることはしないが、ゴム鞠のような身体を硬くして、床をズリズリと引きずられながらも絶対にホールドを解こうとしない。少しだけ足を床から浮かせてみても、ポチは彼の足に抱きついたまま空中にぶら下がり、琥珀色の丸い瞳で「どうかしましたか?」と言わんばかりに見上げてくる。
「……ポチ。いい加減に離れろ。足が痺れてきた」
低い声で窘めると、ポチは「きゅぅん」と心細げな声を出し、さらに強くブーツの踵に自分のあごを乗せてきた。完全にそこを自分の指定席だと認識している動きだ。
セレスティアンは小さく息を吐き、書類から目を離さずに左足のつま先でポチの耳の裏を器用に撫でてやった。ポチは気持ちよさそうに目を閉じ、ますます右足への密着度を上げる。
前世、黒川理人として過労死寸前の生活を送っていた頃。深夜の冷え切ったマンションで、スマートフォンの画面越しに犬の動画を眺めることしかできなかった孤独な夜。それに比べれば、足の痺れなどどうということはない。
呆れつつも、彼の冷徹な目元には微かな温度が宿っていた。
数分後、控えめなノックの音が響き、カイラが執務室に入ってきた。
手には、王家の紋章が押された分厚い封筒が握られている。彼女の涼しげな瞳は、セレスティアンの足元にへばりついている毛玉を一瞥してほんの少しだけ緩んだが、すぐに鋭い実務家のそれに切り替わった。
「代官様。王都の法務局より、ひと月前に送付した照会状に対する返答が届きました」
カイラはデスクの空いたスペースに封筒を置き、ペーパーナイフで素早く封を切った。
「……返答の内容は」
「事実上の白旗です。当方が要求した例の承認書と投資証明書について、書類の作成および手続きに甚大な時間を要するため、特別税の徴収期限を『無期限で延期』するとのことです」
セレスティアンは抜き出された書状を一読し、無造作に書類の山の端へ移動させた。
「カミラが構築した法的な防壁が完璧だったということだ。向こうもこのひと月、なんとか屁理屈をこねて徴収の根拠を作ろうと奔走したのだろうが、王国法に照らし合わせて隙がなかった。法的な根拠がない以上、王家といえどもこれ以上表立って金銭を強奪することはできない」
「はい。これで当面は、王都からの理不尽な干渉を退け――」
「いや」
セレスティアンは手元の書類をまとめ、静かにカイラを見据えた。
「盤面での勝負に負け、法的にも身動きが取れなくなった無能が、最後に何を選ぶか。王都の騎士団にいたお前ならわかるはずだ」
カイラの表情が引き締まる。
「……非合法な暴力、ですか」
「エリシアは、自分の命令が辺境の代官に法的根拠を持って拒絶されたという事実そのものに耐えられない。自分の権力とプライドが傷つけられた時、あの女は最も短絡的な手段に出る」
セレスティアンは右足にまとわりつくポチの重みを感じながら、冷徹に言い切った。
「防犯網の警戒レベルを上げろ。イレーネに伝え、夜間の魔力探知領域を外周まで広げさせろ。……そろそろ、ネズミが紛れ込む頃だ」
★★★★★★★★★★★
同時刻、王都。
王城の奥深くにあるエリシア王女の執務室では、最高級の白磁のティーカップが壁に激突して砕け散る甲高い音が響き渡っていた。
「無期限延期ですって!? 私の命令書を、辺境の代官ごときが無視した上に、逆にこちらを法廷に引きずり出すような真似をして……!」
床には、破り捨てられた羊皮紙と陶器の残骸が散乱し、豪奢な薔薇の絨毯を踏み躙っている。エリシアはドレスの裾を乱しながら、血走った目で法務局の長官を睨みつけていた。
「あのふざけた要求書、なぜ跳ね除けられないの! 承認書が要るなら、今すぐ捏造してでも用意なさい!」
「で、殿下……! それは不可能です!」
初老の長官は床に這いつくばり、震える声で叫んだ。
「あのカミラ・フォン・ローゼンベルクが作成した文書は、王国法の隅から隅までを熟知した悪魔のような構成です! 一文字でも法に反した対応をすれば、貴族院から王家への弾劾に発展しかねません。我々には……法的に返す刀が何一つ残されていないのです!」
「役立たずの無能が!!」
エリシアは長官に物を投げつけ、衛兵に命じて彼を部屋から引きずり出させた。
荒い息を吐きながら、彼女は自らの爪を手のひらに深く食い込ませる。
(あいつは、私を愚弄している。辺境の泥にまみれて死ねばよかったものを……私が捨てた男のくせに、私を見下しているのよ!)
理性を完全に失ったエリシアは、合法的な盤面での勝負を放棄した。
彼女は執務机の裏にある隠しボタンを押し、秘密の呼び鈴を鳴らした。
数秒後。閉ざされたはずの扉も窓も開かないまま、部屋の隅の濃い影の中から「それ」は音もなく現れた。
「お呼びでしょうか、殿下」
感情の起伏を一切感じさせない、冷たく乾いた声。
王家直属の筆頭暗殺者、エレナ・ルージュだった。
闇に溶け込むような漆黒のタクティカルスーツを身に纏った彼女は、一切の無駄を削ぎ落とした静かな佇まいでそこに立っていた。スーツ越しにもしなやかな筋肉の躍動が推し量れ、暗闇の中でも微かな光を捉える暗褐色の瞳が、無機質にエリシアを見据えている。彼女の足音も気配も、静まり返った室内においてすら全く感知できなかった。
エリシアは忌々しげにエレナを見下ろす。
「アビス領の代官、セレスティアン・フォン・ルシフェルを暗殺しなさい」
「……」
エレナは僅かに瞬きをした。
対象はルシフェル公爵家の血を引く男であり、建前上は王家直轄領の正式な代官だ。それを私怨だけで消せというのか。政治的なリスクが大きすぎる。
「事故に見せかけますか」
確認のために問うと、エリシアは顔を歪めて叫んだ。
「必要ないわ! 確実な死を。奴の首を私の前に持ってくるのよ!」
……完全に狂っている。
エレナは心の中で冷たく吐き捨てた。しかし、彼女は「王家の影」として育てられた道具だ。雇い主の命令の妥当性を問う立場にはない。
「御意。速やかに標的を排除いたします」
エレナは深く一礼し、再び影の中へと溶け込むように姿を消した。
★★★★★★★★★★★
数日後の深夜。
冷たい北風が吹きすさぶアビス領の領都。
闇に紛れて屋根から屋根へと移動していたエレナは、眼下に広がる光景に足の動きを止めた。
(……これが、死の街と呼ばれた辺境領?)
王都の資料室で頭に叩き込んだ情報では、この街は飢餓と貧困に喘ぐ限界集落のはずだった。
しかし、彼女の目の前には、美しく舗装された石畳の街道が真っ直ぐに伸び、等間隔に配置された魔導灯が青白い光で夜の街を照らしている。巨大な倉庫群には夜間でも物資を運び込む商人たちの姿があり、一部の魔導炉は静かに稼働し続けている。
そして何より、エレナのプロとしての警戒心を刺激したのは、街を巡回する衛兵たちの動きだった。
(巡回ルートが5分間隔でランダムに交差している。歩幅、視線の配り方、死角の潰し方……辺境の衛兵が思いつける警備体制ではない。軍隊指揮の経験者がいる)
エレナは微かな闘争心を燃やし、魔石を用いた光学迷彩の外套を深く被った。
ここから先は、針の穴を通すような技術が必要になる。彼女はプロの暗殺者としての全神経を研ぎ澄まし、警備の視線の僅かな隙間を縫って、代官所の外壁へと取り付いた。
壁面のわずかな凹凸に指をかけ、音もなく3階の執務室の窓へと到達する。
窓枠の隙間に極薄の刃を差し込み、特殊な掛け金を無音で外した。
執務室の中は暗く、机上のランプだけが丸い光の輪を作っていた。
セレスティアンが一人、その光の中で書類に目を通している。
エレナは呼吸を完全に止め、足音も気配も殺して背後へ滑り込んだ。
あと5歩。4歩。3歩。
確実な死の距離。エレナがタクティカルスーツの鞘からダガーを抜き、その柄を逆手に握り直した瞬間。
「……冬の夜風は冷える。窓を閉めてくれないか」
紙をめくる音が止まった。
セレスティアンの声は、ひどく穏やかで、そして致命的なほど冷静だった。
エレナの背筋に、氷を差し込まれたような悪寒が走る。彼女は即座にダガーを構え、音もなくバックステップを踏んで距離を取った。
「……いつから気づいていた」
低く通る声で問う。
「お前が第三区画の屋根を飛び越えたあたりからだ。街の魔力検知網を甘く見すぎだな。イレーネの作った防犯システムは、王都のそれより数世代は先を行っている」
セレスティアンがゆっくりと椅子を回転させ、エレナの方へ向き直った。
その手には武器すら握られていない。ただの丸腰の男だ。
しかし、彼の暗い三白眼に射抜かれた瞬間、エレナは彼が絶対的な捕食者であることを本能で理解した。逃げ道も、奇襲の成功率も、すでにこの男の手のひらの上で計算され尽くしている。
張り詰めた緊迫感が、室内の空気を重く圧迫する。
だが、その極限の緊張を切り裂いたのは、足元からの間抜けな音だった。
「ズリ……ズリズリ……」
セレスティアンが椅子を回転させたため、彼の右足に全体重をかけてしがみついていたポチが、床を摩擦しながら一緒に引きずられてきたのだ。
ポチは前足で鹿革のブーツをがっちりとホールドしたまま、突然現れた黒ずくめの侵入者に対し、「ヴーッ」と一丁前に威嚇の声を上げた。しかし、短い尻尾は激しく左右に揺れており、その丸い瞳は「ご主人の足は僕のものだ」と主張しているようにしか見えない。
刃を突きつけていたエレナは、完全に毒気を抜かれて呆気に取られた。
「……なんだ、その生き物は」
「犬だ。俺の足が好きすぎるらしい」
セレスティアンは表情一つ変えずに淡々と答えた。
「それより、仕事の話をしようか。王都の暗殺部隊のトップ殿」




