第28話 法務闘争の開幕
まだ薄暗い早朝。アビス領代官所の厨房には、微かな水音と、陶器の器が触れ合う硬質な音だけが静かに響いていた。
窓ガラスの向こうは厚い雲に覆われ、領都はまだ深い眠りの底にある。
セレスティアンは上着を脱いだシャツ姿で、分厚いオーク材のテーブルに向かっていた。
彼の手にあるのは、透明なガラスのコップだ。中には、底が見えないほど深く澄んだ琥珀色の液体が注がれている。
領内で試験的に醸造させていた「もろみしぼり酢」だった。数ヶ月前、東部の農村で余剰となった穀物を発酵させ、長い時間をかけて熟成を試みていたものが、ようやく実用に耐える水準に達したのだ。
彼はそれを一息に呷った。
ツンと鼻を突く鋭烈な酸味のすぐ後から、もろみ特有の複雑で濃厚な旨味が舌の根を覆い尽くす。喉を焼け付くように下っていく液体が胃の腑に到達した瞬間、全身の血流が強制的に目を覚ますような感覚があった。
前世、過労の末に執務デスクで心臓を止めた彼にとって、自己の健康管理は最優先すべき「業務」の一つである。どれほど優秀な頭脳があろうと、肉体が機能停止すれば全てが水泡に帰す。疲労回復を促すアミノ酸と有機酸が凝縮されたこの強烈な液体は、蓄積した疲労を物理的に断ち切るための、現時点における最も効率的な手段だった。
息を細く吐き出し、彼は隣に用意していた木製のボウルを引き寄せる。
中に入っているのは、新鮮なヤギのミルクから作られた水切りのヨーグルトだ。彼はそこへ、領内の花畑で採取された黄金色の蜂蜜をスプーンでたっぷりと垂らした。
最近になって、近隣の山間部から腕のいい養蜂家が移住してきたことで、代官所の食卓には質の高い甘味が安定して並ぶようになっている。ヤギのミルクの柔らかな酸味と、花を思わせる華やかな香りが完璧に調和している。
「くぅ〜、ひゃふんっ」
足元から甘えたような鳴き声がした。仔犬のポチが短い後ろ脚で立ち上がり、彼の膝に前足をかけて必死に鼻先を伸ばしている。育ち盛りの小さな体は、彼が匙を動かすたびに期待に震えていた。
「お前にはまだ早い。これは人間の胃袋の修繕材だ」
セレスティアンが低くたしなめると、ポチは不満げに喉を鳴らし、抗議するように彼のスリッパの踵を短い牙で噛み始めた。
そこへ、厨房の扉が細く開いた。
「……こんな朝早くから、一人で何食べてるのよ」
目を擦りながら入ってきたのは、14歳のソフィアだった。少し大きめのシャツを着崩し、寝癖のついた髪のまま、気怠げな足取りでテーブルに近づいてくる。徹夜で裏街の情報整理をしていたのだろう、その青緑色の瞳の周りには薄っすらと隈が浮かんでいた。
セレスティアンは無言でもう一つのコップを取り出し、もろみしぼり酢を少量注いで差し出した。
ソフィアは怪訝な顔をしながらもそれを受け取り、一口含んだ。
「……っっっ!!!」
次の瞬間、彼女は目を極限まで見開き、音のない悲鳴を上げて口元を両手で覆った。
「す、すっっっぱ!! 何これ、毒!? 私を暗殺する気!?」
涙目になってむせるソフィアに、彼は平然と答える。
「疲労回復に効く。残さず飲め」
「絶対やだ!」
全力で拒絶し、コップを遠ざける彼女の前に、セレスティアンはもう一つの木製ボウルを無言で置いた。蜂蜜を多めに垂らしたヨーグルトだ。
ソフィアは警戒するようにスプーンを手に取ったが、一口食べた途端、ピタリと動きを止めた。
「……甘い。これ、美味しい」
先ほどの怒りはどこへやら、彼女は小動物のように一心不乱にスプーンを動かし始めた。
平穏な朝の風景だった。しかし、この静けさが今日一日続くわけではないことを、彼は正確に理解していた。
★★★★★★★★★★★
午前9時。執務室。
朝の静寂は完全に消え去り、部屋の中には冷え切った空気が張り詰めていた。
分厚い石壁の向こうからは、経済特区として膨張を続ける街の喧騒がかすかに響いてくるが、この室内だけは時間が止まったように重苦しい。
代官補佐のカイラが、重厚なマホガニーの机に一枚の書状を置いた。
その端には、王都の法務局を示す紋章が赤々と押されている。封蝋は粗雑に割られ、中の羊皮紙は乱暴に折り畳まれた痕跡があった。
「ひと月前、こちらから送付した特別税徴収に対する『照会状』への返答が、昨夜遅くに到着しました。……いえ、これを返答と呼んでいいものか」
カイラの声は、感情を極限まで押し殺した、硬く冷たいものだった。
彼女は机の上に置いた書状から手を離さず、指先が白くなるほど強く紙の端を押し当てている。王国の法と規律を重んじる元騎士の彼女にとって、目の前にある文書は、その前提を根底から侮辱するものだった。
セレスティアンが書状に目を通す。
そこには、カイラがひと月前に徹夜で作成した「法的な算定根拠の提示」や「インフラ事業への影響に関する説明」に対する回答は、ただの一行も記載されていなかった。
あるのは、『王命であるから四の五の言わずに利益の8割を直ちに納めよ。これ以上の遅滞は反逆とみなし、王軍によるしかるべき処置をとる』という、ただの感情的な脅迫文だけだった。筆致は荒く、論理的な裏付けを放棄した人間の苛立ちがそのままインクに滲んでいる。
「法治国家の体裁すら投げ捨てたか」
セレスティアンは表情一つ変えず、書状を机の端へ滑らせた。
「対話の意思がありません」
カイラは短く吐き捨てるように言った。
「実務的な照会に対し、王命という権力だけで強引に蓋をする。これを正面から拒否すれば、エリシア殿下は本当に武力を行使する口実にするでしょう。しかし、受け入れれば、今動いている全ての事業が即座に資金ショートを起こします」
「ええ、その通りですわ。ですから、私たちは『拒否』などいたしませんのよ」
衣擦れの音とともに、執務室に洗練された香水の香りが入り込んだ。
開かれた扉の前に立っていたのは、法務・渉外統括のカミラだ。彼女の両腕には、古びた革張りの分厚い法典と、いくつもの付箋が貼られた書類の束が抱えられている。
「おはようございます、代官様。エリシア殿下は『王命』という最強の剣を抜いたつもりでしょうけれど……剣を振るうには、正しい手順というものがありますのよ」
カミラはヒールの音を響かせて机に歩み寄り、抱えていた重たい法典をドサリと置いた。
「相手が理屈を捨てて強権を発動するなら、こちらは徹底的に『理屈と法』で相手の首を絞めるだけですわ」
カミラは一番上にある書類をカイラに手渡した。
「こちらが、王都の法務局へ送り返す私からの返書ですわ。読んでみてくださる?」
カイラは怪訝な顔で書類を受け取り、そこに並ぶ緻密な文字を追い始めた。
『王命による利益の納付、謹んでお受けいたします。
つきましては、王国法第73条2項「王家直轄領における資産移管に関する特例手続き」に基づき、過去5年間の当領地への王家からの総投資額との相殺計算を行います。この計算の実施にあたり、王都の財務局が発行する公式な「過去5年分の監査済み投資証明書」をご送付ください。
また、同法第91条「緊急時以外の特別徴税に関する貴族院決議」に従い、貴族院の全会一致による「徴税承認書」を添付してください。
さらに、現在進行中のインフラ事業停止に伴う違約金の発生について、独立した第三者機関による「損害査定報告書」の提出を――』
読み進めるうちに、カイラの涼しげな瞳が驚愕に見開かれていく。
「カミラ殿、これは……」
カイラは息を呑み、書類から顔を上げた。
「これだけの公的書類を揃えるには、王都の各部署を盥回しにされ、最低でも半年から1年はかかります。いえ、そもそも『貴族院の全会一致』など、現在の派閥争いが激化している王都では物理的に不可能だ」
「あら、そうですか?」
カミラは扇を開き、口元を隠してクスクスと笑った。
「でも、私たちは『払わない』なんて一言も言っていませんわよね? 王国の法を遵守する善良な領地として、『正しい手続きをお願いしているだけ』ですもの」
要求に従うことは物理的に不可能。しかし、これを「面倒だから無視して強制徴収しろ」と王都が強行すれば、どうなるか。
「王家自らが、王国法を否定したことになる」
セレスティアンが淡々と言葉を継いだ。
「王族が法を破り、一方的に私有財産を奪う前例を作れば、王都の他の貴族たちが自領への介入を恐れて一斉に反発する。エリシアの政敵たちが、嬉々として彼女を弾劾する口実にするだろう」
壁際でやり取りを聞いていたソフィアが一歩前に出た。
「クレメント商会の荷馬車に紛れ込ませた連絡員から、数日前に上がってきた王都の報告書があるわ」
彼女は手元の小さな手帳を開く。
「私たちがひと月前に送った照会状の時点で、向こうの法務局は完全に足並みが乱れていたみたい。王女の側近たちに過去の古い判例を紐解く能力なんてないから、法務官たちが徹夜で資料探しに追われていたそうよ。そこにこの要求書が届いたら、向こうの事務処理能力は完全にパンクするわね」
距離による情報のタイムラグはあるが、王都の行政機構がすでに機能不全を起こし始めているのは確実だった。
セレスティアンは手元の決裁ペンを取り、カミラが用意した返書に迷いなく署名を刻み込んだ。
「相手の土俵には上がらず、書類の海で溺死させる。見事な遅延戦術だ、カミラ」
署名された書類を受け取り、カミラは優雅に一礼した。
「お褒めにあずかり光栄ですわ、代官様。武力で制圧するなど野蛮ですもの。ペンと紙さえあれば、国の一つや二つ、合法的に機能不全にできますわ」
セレスティアンは視線を窓の外へ向けた。
ガラスの向こうでは、途切れることのない商隊の馬車が領都へ入り、莫大な富の循環が続いている。王都の行政機構が書類の処理に忙殺されている間にも、アビス領のインフラ整備と関税撤廃による周辺国との経済連携は、一日ごとにその結びつきを強固なものにしていく。
時間が経てば経つほど、この土地の経済網は王国の枠組みを超えて肥大化していく。向こうが物理的な行動を起こせるようになる頃には、すでに手を出せない規模の巨大な怪物に育ち上がっているだろう。
「この書状は、本日の特別便で王都へ発送しろ」
セレスティアンはカイラに指示を出すと、机の端に積まれた次の決裁書類を引き寄せた。
王都との争いに構っている暇はない。彼にとっての最優先事項は、目の前の事業を前進させることだけだ。
万年筆が羊皮紙の上を滑る硬質な摩擦音だけが、再び執務室に響き始めた。




