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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第27話 知的な悪女の合流

 アビス領代官所の執務室には、朝から冷たい緊張感が漂っていた。

 窓の外には春の気配が満ちているが、分厚い石壁に囲まれたこの部屋の中だけは、数日前に王都から投げ込まれた「特別税の徴収通達」という爆弾によって、冬に逆戻りしたかのような空気だった。


 重厚なマホガニーの机に向かい、セレスティアンは淡々と決裁書類に万年筆を走らせている。

 その斜め向かいの補助デスクでは、代官補佐のカイラが、王都の法務局へ向けた公文書の作成に追われていた。彼女のペン先はインク壺と羊皮紙の間を絶え間なく往復し、カリカリという硬質な音が室内に響き続けている。


「……直轄領管理法、第七条第二項。および特例徴税に関する細則。どれを紐解いても、王家が一方的に利益の八割を強制徴収できるという明確な根拠は見当たりません」


 カイラは顔を上げず、文書の文面を確認しながら報告した。


「現在作成しているのは、この『法的な疑義』に対する王都への照会状です。財務的算定の基準、および当領地が進めているインフラ事業への影響を理由に、具体的な説明を求める内容となります」


「それでいい。王都との往復には時間がかかる。向こうがこの照会状を受け取り、苛立ちながら無駄な反論を捻り出し、再びこちらへ返送してくるだけで、優にひと月は稼げる。まずはその第一手を打つ」


 セレスティアンは手元の書類から視線を外さずに答えた。


 王都からの理不尽な要求に対し、正面から拒絶すれば反逆と見なされる。かといって従えばアビス領の経済は破綻する。

 だからこそ、セレスティアンが選択したのは徹底した「遅滞戦術」だった。

 過去の法令や管理規定の矛盾を突き、相手が無視できない公式な照会を延々と送り続ける。相手の要求を空転させ、時間を奪い、判断力を鈍らせる。


「ですが、代官様」


 応接ソファで優雅に紅茶を飲んでいたヴィオラが、パチンと扇を閉じた。


「時間を稼いだところで、いずれは期限が来ますわ。王都の貴族たちは法理などどうでもいい。彼らが欲しいのは金です。手続きを無視して、強引に軍を動かす口実を作ってくる可能性もありますわよ」


 その時だった。

 控えめに、しかし確かな意思を持ったノックの音が二度、執務室の扉を叩いた。


「セレスティアン。王都から、面会希望の客よ」


 扉を開けて入ってきたソフィアの声は、普段の平坦なものとは違い、張り詰めていた。彼女は視線を鋭く巡らせ、油断なく相手との距離を測っている。


 ソフィアの背後から、静かな足音とともに一人の女性が姿を現した。

 その瞬間、執務室の空気が一変した。

 微かに漂うのは、王都の夜会でしか嗅ぐことのない最高級の香水の香り。足運びのたびに上質な生地が擦れる音がし、彼女がそこに立つだけで、周囲の空間が華やかな舞台へと切り替わったかのような錯覚を覚える。

 完璧に計算された角度で結い上げられた髪。デコルテを美しく見せる洗練された装い。彼女は相手の心を透かして見るような流し目をセレスティアンに向け、口角の片方だけを少し上げた魅惑的な笑みを浮かべた。


「ごきげんよう、セレスティアン様。それに、ヴィオラ会頭も。こんな辺境の地で皆様とお会いできるなんて、光栄の極みですわ」


 その声は、甘く、そして恐ろしく冷徹な響きを持っていた。

 ヴィオラがソファから立ち上がり、カイラがペンの動きを止める。王都の裏事情を知る者であれば、彼女の顔を知らないはずがない。

 名門侯爵家の未亡人であり、王都の社交界を裏で牛耳っていたトップサロンの主。


「カミラ・フォン・ローゼンベルク……」


 ヴィオラが、警戒も露わにその名を口にした。


「王女の取り巻き連中を手玉に取っていた毒婦が、わざわざこんな最果てまで冷やかしに来るとは。社交界の主も随分と暇になったものですわね」


「冷やかしだなんて、心外だわ」


 カミラはヴィオラの刺のある言葉を春の風のように受け流し、ゆっくりとセレスティアンの机の前まで歩み寄った。


「王都の退屈な茶番には、もう飽き飽きしていたのよ。エリシア殿下の取り巻きたちは、自分の頭で考えることを放棄した人形ばかり。少し糸を引いてやれば面白いように踊るけれど、何の美しさもない。でも……」


 彼女は机の上に置かれた、王都からの特別税徴収の書状を一瞥した。


「あなたがここで構築している盤面は、とても魅力的だわ。腐りきった王都の連中を、一切の武力を使わずに、徹底的なロジックで追い詰めようとしている。私も、その遊戯に混ぜてほしくてね」


「手ぶらで来たわけではあるまい」


 セレスティアンはペンを置き、三白眼の鋭い視線でカミラを真っ直ぐに射抜いた。

 カミラはふふっと小さく笑い、手に持っていた薄い革の鞄から、数枚の書類を取り出して机の上に滑らせた。


「エリシア殿下の側近と、法務局の重役数名の個人資産に関する裏帳簿よ。もちろん、原本の隠し場所も押さえてあるわ」


 その言葉に、カイラが息を呑んだ。


「彼ら、このアビス領から吸い上げる予定の『八割の利益』を担保にして、すでに王都の特権商人たちから莫大な借金をしているのよ」


 カミラは赤い唇を釣り上げ、悪戯っぽく言った。


「新規の魔導具開発事業への投資、豪華な別荘の建築費、それに夜会での見栄。まだ手に入れてもいない辺境の富を皮算用して、借金で首が回らなくなっている。今月末の期限までにアビス領から金を引き出せなければ、彼らは私財を差し押さえられ、完全に破産するわ」


 執務室に、一瞬の静寂が落ちた。


「……なるほど。そういうことですか」


 ヴィオラが扇で口元を隠し、低く笑い声を漏らした。


「彼らが法理を無視してでも今月末という期限に固執した理由が、ようやく繋がりましたわ。王家のためでも何でもない、ただの自分たちの資金繰りのため」


「そういうこと」


 カミラは頷いた。


「だから、セレスティアン様。あなたが今やろうとしている『法的な照会による遅滞』は、彼らにとって最も恐ろしい毒になるわ。支払いが一ヶ月遅れるだけで、彼らの足元は完全に崩壊する」


 セレスティアンは机の上の裏帳簿を手に取り、無言で数秒間その数字に目を通した。

 情報の精度、出所、そしてこの情報がもたらす影響。全てが実務において極めて価値の高いものだった。


「焦った彼らは、強引に軍を動かそうとするでしょうね」


 カミラは言葉を続ける。


「でも、彼らが私的流用のために軍を私物化しようとしている証拠を、私が王都の監察局と議会に同時に流すわ。そうなれば、彼らは大義名分を失い、軍を動かすどころか自らの汚職で身を滅ぼす」


 セレスティアンは裏帳簿を机に置き、深く息を吐いた。


「これほどの情報を集め、王都の監視網を掻い潜ってここまで運んできた手腕。そして何より、状況を正確に俯瞰する目。ただのサロンの主ではないな」

「最高の褒め言葉として受け取っておくわ」


 セレスティアンは引き出しから白紙の辞令用紙を取り出し、素早い手つきで万年筆を走らせた。


「カミラ・フォン・ローゼンベルク。本日付で、お前をアビス領の『法務・渉外統括』に任命する。王都との折衝、法的な防衛線の構築、および敵対派閥の内部工作。これら全てをお前に一任する」


 サインを書き終えた用紙を、カミラの前に差し出す。


「与える権限は、俺の次だ。存分に盤面を動かせ」


 カミラはその辞令用紙を指先でそっと受け取り、まるで極上の宝石を見つめるように目を細めた。


「ええ、謹んでお受けいたしますわ。代官様」


 彼女は深々と、優雅なカーテシーを見せた。


★★★★★★★★★★★


 それから数日後。

 アビス領の領都は、冬の名残を払拭するような活気に満ちていた。

 経済特区として関税が撤廃された恩恵により、近隣諸国から集まった商隊が目抜き通りを埋め尽くしている。石畳の左右には色鮮やかな天幕が並び、香辛料や海産物、そしてイレーネの工房から生み出された特産品が飛ぶように売れていた。


 その喧騒の中を、セレスティアンはカミラを伴って歩いていた。

 カミラは王都での華美なドレスではなく、動きやすさを重視しながらも極上のシルクを用いたダークブルーの平服を纏っている。それでも彼女が持つ洗練された雰囲気は隠しきれず、すれ違う商人たちが思わず振り返るほどだった。

 護衛を遠巻きに配置しつつも、二人きりで街を歩く姿は、周囲から見れば親密な逢瀬を楽しんでいるようにしか見えない。

 しかし、彼らの間に交わされているのは、極めて実務的で冷徹な会話だった。


「王都の法務局に送った照会状、見事に相手の足を止めたわ」


 カミラは道の端で売られている細工物を流し見ながら、低く通る声で言った。


「昨日、私の私兵から連絡があったわ。エリシア殿下の側近たちは、照会状への法的な回答を作れず、焦って特権商人たちに借金の返済猶予を申し入れているそうよ。もちろん、商人たちは拒否した」

「予定通りだな。自滅の刻限までは、こちらから動く必要はない」


 セレスティアンは歩調を緩めることなく答えた。


「それにしても、見事な街ね」


 カミラは少しだけ立ち止まり、活気に満ちた広場を見渡した。


「数年前、亡き夫の借金で首が回らなくなったローゼンベルク領を立て直す時、私も死に物狂いで商人を駆け回ったわ。でも、ここまで劇的に経済の血流を生み出すことはできなかった。あなたは、この痩せた土地で魔法のようなことをやってのけたのね」


「魔法ではない。ただの合理的な計算だ」


 セレスティアンは淡々と返す。


「関税をなくし、物流を整備し、職人に正当な対価を払う。人が最も効率よく働く環境を整えただけだ。感情や権力で人を動かそうとすれば、必ずどこかで歪みが生じる」


 カミラはその言葉に、面白そうに目を細めた。


「王都の貴族たちが聞けば、卒倒しそうな台詞ね。彼らは血筋と権力こそが世界を動かすと本気で信じているのだから」


 彼女は一歩だけセレスティアンに近づき、その横顔を見上げた。


「私は、計算で動く人間が好きよ。利益という明確なルールがあるからこそ、盤面は美しく機能する。感情で動く人間ほど、不確実で醜いものはないわ」


 それは、彼女がこれまでの過酷な人生の中で培ってきた、血の滲むような真理だった。借金を残して死んだ夫。自分を道具としてしか見なかった親族。それらを全て蹴落とし、王都の裏社会で生き抜いてきた彼女にとって、セレスティアンの構築する徹底したロジックは、何よりも信頼に足るものだった。


「この街のインフラ整備は、まだ三割といったところだ」


 セレスティアンは歩き出しながら、視線を遠くの建設現場へ向けた。


「人口の増加に対して、居住区の拡張が追いついていない。物流をさらに加速させるには、北部の街道も石畳で舗装し直す必要がある。王都の連中に構っている暇はない」


「ええ、そうね。私たちの仕事は山積みだわ」


 カミラは軽やかな足取りで彼の隣に並んだ。


「王都の相手は私に任せて、あなたは思う存分、この街の価値を高めてちょうだい。私があなたの作った価値を、最高の値段で外の世界に売りつけてあげるから」


 二人の間に甘い言葉は一切なかった。

 しかし、その足取りと交わされる視線には、互いの能力に対する絶対的な信頼と、知的な共犯関係が確かに築かれていた。


 代官所へ向かう緩やかな坂道を登りながら、セレスティアンは懐中時計を取り出して時間を確認した。


「戻るぞ。午後からは、イレーネの工房で新しい魔導炉の予算会議だ」

「ふふ、人使いが荒い代官様」


 カミラは魅惑的な笑みを浮かべながらも、その瞳には明確な仕事への熱を宿らせていた。


 街の喧騒は、春の暖かな日差しの中でどこまでも力強く響き続けている。王都から迫る影を微塵も感じさせないほどの、確かな生命力。

 セレスティアンたちは歩みを止めることなく、代官所の重厚な扉の向こう、次なる実務の待つ執務室へと戻っていった。

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