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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第26話 王都からの理不尽な通達

 春には泥濘に沈んでいた主要な路地は、今では美しく平らに切り出された石畳で舗装され、道の両脇には整備された真新しい排水路が通っている。関税の全面撤廃による経済特区としての恩恵と、広報統括であるクロエが各所に仕掛けた絶え間ないプロモーション効果は絶大だった。

 クレメント商会の流通網に乗って周辺国から訪れた商人や観光客たちが、色とりどりの天幕を張った露店の前に長い列を作っている。並べられているのは、イレーネの工房から生み出された特産品や、港町から運ばれた海産物を使った新しい屋台飯だ。

 行き交う領民たちの顔には、明日の食事を憂う陰惨な影はない。彼らは十分な栄養と希望によって頬を赤らめ、商人たちと威勢よく値切り交渉を楽しんでいた。


 そのひしめき合う人波を縫うように、2人の男女が歩いている。


「……代官様。いくら休日とはいえ、やはり護衛の数名も連れてくるべきでした。これほど人が多いと、不測の事態への反応が遅れます」


 隣を歩くカイラ・アシュフィールドが、周囲の群衆に鋭い視線を巡らせながら低く呟いた。

 今日の彼女はいつもの細身の執務服ではなく、動きやすさを重視したダークネイビーのウールコートを羽織っている。軍服のような硬さはなく、大人の女性の柔らかさを感じさせる装いだが、その歩き方には染み付いた騎士としての警戒が抜けていない。


「視察ではない。今日は休日だ」


 セレスティアンは前を向いたまま、群衆の歩調に合わせて淡々と答えた。彼自身も普段の隙のないフロックコートではなく、質の良い厚手の外套を纏っている。ネクタイは外され、首元が少し緩められたリラックスした装いだが、その長身から放たれる大人の余裕と威厳は隠しきれていなかった。


「休日だからこそ、ただ街を歩いて空気を吸う。護衛など連れ歩けば、領民が無用に萎縮して普段の様子がわからなくなる」

「……それは結局、視察ではありませんか」


 小さくため息をつくカイラだったが、その足取りはどこか弾んでいた。

 普段から執務室に籠もりきりの主君を、休息日の規定を盾にして強制的に外へ連れ出すという名目で設定された時間。実質的には、2人きりでの街歩きである。すれ違う商人や領民たちが、圧倒的な存在感を放つセレスティアンと、凛とした美しさを持つカイラの姿に思わず足を止め、敬意と親しみを込めて自然と道を譲っていく。

 カイラは歩幅を合わせながら、周囲の喧騒に紛れて不自然にならないよう、ほんの少しだけ彼との距離を縮め、背筋を伸ばして歩いていた。


 二人は大通りをはずれ、新しく整備された広場へと向かう。

 先日、イレーネの技術を注ぎ込んで完成した巨大な公衆浴場から、白く温かい蒸気が冬の空に向かって勢いよく立ち上っていた。その周辺には、湯上がりの労働者たちを目当てにした軽食の屋台が立ち並び、香ばしい肉の焼ける匂いと甘い香辛料の匂いが入り交じって漂っている。

 セレスティアンは1つの屋台の前で足を止め、店主から串焼きと、温かい果実水が入った陶器のカップを2つ受け取った。代金の銅貨を払い、そのうちの1つをカイラに差し出す。


「どうぞ」

「あ……ありがとうございます」


 カイラは少し戸惑いながらカップを受け取った。手袋越しにも伝わってくる陶器のざらついた感触とじんわりとした温かさ、そして甘い果実の香りが、冷たい空気の中で心地よく鼻腔をくすぐる。

 セレスティアンは果実水を持ったまま、広場の端にある木製のベンチへと視線を向けた。そこには、湯上がりの労働者たちが笑顔で語り合いながら串焼きを頬張り、真新しい硬貨を鳴らして次の酒を買いに走る姿があった。


「街が自律し始めているな」


 彼は立ったまま、静かに言葉を紡いだ。


「各自が自分の足で立ち、自分の稼いだ金で余暇を楽しんでいる。これで、領地を回すための最低限の土台は固まったということだ。君の日々の細やかな管理が行き届いている結果だな。ご苦労だった、カイラ」


 不意に投げかけられた、短く的確な労いの言葉。

 声のトーンは相変わらず低く、事務的な響きを残していたが、そこにある確かな信頼の重みに、カイラの胸の奥が熱くなった。

 王都の騎士団にいた頃、どれだけ身を粉にして働いても、上層部から与えられるのは理不尽な命令と責任の押し付けだけだった。結果を出しても手柄は奪われ、失敗すれば切り捨てられる。辺境に左遷された当初は、この腐敗した世界を完全に諦めていた。

 だが、目の前の男は違う。現場の働きを正確に評価し、決して過労で潰れることのないよう、自ら巨大な防波堤となって組織を守り抜いている。


「……過分なお言葉です」


 カイラはカップを両手で包み込み、少しうつむいた。冷たい冬の空気のせいだけではなく、頬が熱を帯びるのを感じた。


「私一人では何もできませんでした。代官様が、正しい道筋と正当な対価を示してくださったからです。……私は、代官様にお仕えできていることを、誇りに思います」


 真っ直ぐな、騎士としての偽りない忠誠。

 セレスティアンは静かに頷き、果実水を一口飲んで前を向いた。


「俺は俺の仕事をしただけだ。……冷める前に飲め。休日を仕事の話だけで終わらせる気はない」


 張り詰めた日常の中で、ほんのひとときの、静かで穏やかな時間が流れていた。


 だが、その平穏は長くは続かなかった。

 代官所の敷地に入った瞬間、休日の緩やかな空気は一変した。

 石造りのエントランスには、見慣れない見事な白馬が数頭繋がれている。毛並みの良さと、過酷な辺境の環境にそぐわない華美な意匠が施された馬具には、王家の紋章が誇らしげに刻まれていた。


「……おかえり、セレスティアン」


 ホールで腕を組んで待っていたのは、少し背伸びをした黒いワンピース姿のソフィアだった。いつもなら小生意気な表情で駆け寄ってくる彼女だが、今は酷く硬い声を出した。野良猫のような青緑色の瞳が、警戒心を露わにして応接室の重い扉を睨みつけている。


「最悪なタイミングで客が来てるわよ」


 ソフィアの背後からは、豪奢なドレスを纏ったヴィオラも姿を現した。彼女の完璧なメイクが施された顔からも、いつもの妖艶な余裕は完全に消え失せ、底知れぬ冷たさが張り付いている。


「王都から正式な使者が到着しましたわ。応接室でお待ちです」


 ヴィオラの言葉に、カイラが即座に休日モードの空気を切り捨て、腰の剣に手を当てて鋭い視線を向けた。

 セレスティアンは無言のまま外套を脱ぎ、カイラに預けると、迷いなく応接室の扉を開けた。


 室内には、豪奢な王家直属の文官服を着た男と、その護衛らしき近衛兵が2名立っていた。使者の男は、辺境の薄汚れた代官所などすぐに見終わると言わんばかりに、鼻先で室内を値踏みしている。

 だが、セレスティアンが部屋に入った瞬間、男はビクッと肩を震わせた。長身から放たれる静かで圧倒的な威圧感と、背後に控えるカイラの氷のような視線に完全に気圧されたのだ。


「……王都より、エリシア殿下の書状をお持ちしました。直ちに御確認を」


 使者は横柄な態度を取り繕おうとしたが、その声は微かに上ずっていた。

 セレスティアンは何も言わず、差し出された書状を受け取った。分厚い上質な羊皮紙。そして、それを封じているのは、紛れもない王家の紋章が刻まれた赤い封蝋だった。


「大儀だった。下がって休め」


 短く冷徹な一言に、使者はそれ以上何も言えず、逃げるように応接室を後にした。


 セレスティアンはそのまま自らの執務室へと向かった。

 重い扉を開けると、足元で留守番をしていたポチが短い尻尾を振ってすり寄ってきたが、部屋に流れ込んできた剣呑な空気を察したのか、すぐに尻尾を下ろし、机の横で大人しくお座りをした。


 セレスティアンは机の前に立ち、ペティナイフで王家の封蝋を冷酷に切り裂いた。

 広げられた羊皮紙に素早く目を通す。彼の三白眼の瞳が、文字の羅列を機械のように処理していく。

 室内には、カイラ、ヴィオラ、ソフィアの3人が息を殺して彼の反応を窺っていた。

 数秒後、セレスティアンは微かに鼻を鳴らし、その1通の書状を机の上に放り投げた。


「……想定内とはいえ、ここまで見境がないとはな」

「代官様、内容は」


 カイラが堪えきれずに問う。


「特別税の徴収通達だ」


 セレスティアンは低い声で事実だけを告げた。


「アビス領がここ数ヶ月で生み出した莫大な利益について。ここは王家直轄領であり、その発展は王家の威光によるものであるから、利益の8割を王家に納付せよ、とのことだ。期限は今月末」


 その言葉が落ちた瞬間、執務室の温度が急激に下がった。


「8割……!?」


 ソフィアが声を荒げ、両手を机に叩きつけた。


「ふざけないで! 利益の8割なんて抜かれたら、今進めている第4区画の下水道拡張工事も、イレーネの新しい魔導炉の建設資金も全部ショートするわ! なにより、領民たちへの正当な報酬が支払えなくなる!」

「王家からの支援など、これまで一切受けておりません」


 カイラも手袋越しに拳を強く握りしめ、切実な怒りを露わにした。


「この土地が死に瀕していた時には見捨てておきながら、利益が出た途端にそれを奪うなど、あまりにも理不尽な要求です」


 ヴィオラは手に持っていた扇を開き、口元を隠しながら冷たい目を細めた。


「王都の貴族たちは、こちらの莫大な利益に完全に目が眩んだのでしょうね。それに、エリシア殿下はあなたが辺境で成功しているという事実そのものが、腹立たしくて仕方がないのでしょう。……強盗の方が、まだ筋を通しますわよ」


 激震する彼女たちを前に、セレスティアンはただ一人、氷のように冷たい表情を崩さなかった。

 彼は机の上に放り投げられた書状を、指先で見下ろす。


「法的な根拠も、財務の計算も一切存在しない。ただの感情と欲望で書かれた紙切れだ」


「しかし、王命として正式な印が押されています」


 カイラが食い下がる。


「これを正面から拒否すれば、王家に対する反逆とみなされます。最悪の場合、王都から討伐の軍が向けられる口実を与えかねません。……どうされるおつもりですか」


 正面から拒絶すれば、武力衝突という最悪の事態を招く。

 だが、受け入れればアビス領の経済は崩壊し、領民は再びかつての過酷な生活へ逆戻りする。


「まともに受け合う必要はない」


 セレスティアンの瞳の奥に、冷たい光が宿った。


「向こうが『権力』という不当なルールを押し付けてくるなら、こちらは『法律』というルールで迎え撃つ」


 彼は引き出しを開け、白紙の便箋を取り出した。


「カイラ。この通達に対する回答書の作成に入る。内容は『要請の趣旨は確認したが、算定根拠となる過去の法令との整合性、および直轄領管理法に基づく適法性の確認が必要であるため、当領地の法務部門にて精査中である』とでもしておけ」


「……つまり、時間稼ぎですか?」

「そうだ。徹底的な遅滞戦術をとる。王都の官僚が1つ反論してくれば、こちらは10の法的な矛盾を突いて回答を突き返す。書類の手続きだけで、向こうの要求を無限に空転させる」


「でも、誰がそんな高度な法務闘争をやるの? アビスにそんな専門家はいないわよ」


 ソフィアが首を傾げる。


 セレスティアンは万年筆を手に取り、別の便箋に迷いなくペンを走らせ始めた。


「だから、専門家を呼ぶ」

「心当たりが?」


 カイラの問いに、セレスティアンは手を止めずに答えた。


「ああ。この理不尽な盤面を喜んでひっくり返しに来る女が、王都にいる」


 彼は便箋にサインを書き終え、素早く折りたたんだ。

 蝋を溶かして垂らし、王家のものとは異なる、ルシフェル公爵家の古い印台を静かに押し当てる。

 セレスティアンは封じられた手紙を手に取り、冷ややかな視線を王都の方向へと向けた。


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