第25話 嵐の前の静けさ
冬の寒さがようやく底を打ち、微かな春の兆しを孕んだ風が吹き始めたアビス領。
領都の中心にそびえる代官所の執務室は、外の活気とは裏腹に、張り詰めた静寂に包まれていた。
セレスティアンは広いマホガニーの机に向かい、提出された書類の束に目を通している。しかし、その視線は領内の月次報告書ではなく、王都の紋章が押された数枚の紙片に注がれていた。
「……王都の財務局が、過去5年間における辺境領の税収記録と、特産品の流通経路について独自の再調査を始めたらしいわ」
机の前に立つソフィアが、無感情な声で報告した。彼女は腕を組み、年齢にそぐわない冷めた青緑色の瞳をセレスティアンに向けている。
「それだけじゃない。王女の側近を名乗る小役人が、東部の関所付近でうちの荷馬車の積載量を嗅ぎ回ってた。どうやら、アビス領の異常な黒字が完全にバレたみたいね」
その報告を聞き、隣のデスクで帳簿の整理をしていたカイラが、ペンを置いて険しい表情を浮かべた。
「赴任から1年、税は規定通り1銅貨の狂いもなく王家に納めています。しかし、あの方々のことです。この豊かな財源を指をくわえて見ているはずがありません。何らかの難癖をつけて追加の徴税を強いるか、あるいは……」
「ポーションの製造権と流通の権利ごと、王家直轄として没収しに来るか、だな」
セレスティアンは低い声でカイラの言葉を引き継ぎ、書類を机に置いた。
焦りや驚きはない。ただ、あらかじめ想定していた不具合が、予定通りに発生した事実を確認しただけの冷徹な目だった。
「無能な経営陣というものは、自ら利益を生み出す努力を放棄し、他部署の黒字を吸い上げることで己の延命を図ろうとする。あの女の思考回路なら、遅かれ早かれこうなることは予測の範疇だ」
セレスティアンは引き出しを開け、厳重に封がされた分厚い羊皮紙の束を取り出した。
「カイラ。ヴィオラに連絡を入れろ。ポーションの独占販売契約の条項に、不当介入時の特約を速やかに盛り込むよう手配しろ。ヴィオラもこの利益を手放したくはないはずだ、すぐに同意するだろう」
「不当介入時の特約、ですか」
「ああ。王家が強権を発動してこの領地を物理的に制圧、あるいは不当な課税を行った場合、特産品の製造と流通の権利が、即座に周辺国の第三者機関へ自動的に移譲される仕組みだ。奴らが軍を動かして代官所を占拠しても、手に入るのはただの石ころと雑草だけになる条項だ」
カイラは息を呑んだ。王家からの強引な介入を無力化するための、数手先を読んだ防衛線。
「それから、金庫にある現金資産の7割を、クレメント商会経由で北の商業国家の口座へ分散させろ。名目は来期インフラ投資の事前預託金だ。帳簿上の現金を極限まで減らし、奴らが差し押さえできるものをなくしておく」
「承知いたしました。直ちに手配します」
カイラが足早に部屋を出て行こうとした時、コンコンと軽いノックの音が響き、重い木扉が開かれた。
「やっぱりここにいた。セレスティアン、今日は月に2度の代官の完全休息日に設定したはずだけど?」
ふわりと華やかな香水の香りを漂わせ、クロエ・ヴァレンタインが執務室に足を踏み入れた。
今日はオフの装いなのか、シックなキャメルのコートに、つばの広い帽子を目深に被っている。それでも、計算され尽くした着こなしと隠しきれないオーラが、彼女がただ者ではないことを雄弁に物語っていた。
「緊急の案件だ。王都が動く」
セレスティアンが短く答えると、クロエは「あーあ」とわざとらしく肩をすくめた。
「だからダメなのよ。トップが自ら定めた就業規則を破ってどうするの。それに、こんな天気のいい日に代官様がしかめっ面で代官所に引きこもっていたら、領民たちに王都から何かプレッシャーが掛かっているのではって勘繰られるわよ。大衆はそういう空気の機微に敏感なんだから」
クロエは有無を言わさずセレスティアンの机に近づき、彼の手から万年筆をすっと抜き取った。
「進言します。今、あなたが領民に見せるべきは、どんな外圧にも動じない圧倒的な余裕よ。さあ、視察という名のデートに出かけるわよ」
「……休日にまで俺の時間を奪う気か」
「休日にまで執務室にいる人間のセリフじゃないわね。ほら、立って」
足元で丸まっていたポチが、クロエの革靴の匂いに興味を引かれて「きゅんっ」と鳴きながら短い鼻先を寄せる。クロエはポチを優しく撫で、セレスティアンの腕を引いた。
彼は短くため息をつき、壁に掛けていたコートを手に取った。
領都のメインストリートは、冬の終わりを楽しむ領民たちと、他領から訪れた商人たちの熱気で溢れかえっていた。
セレスティアンとクロエは、目立たないように少し距離を開けて並んで歩いていたが、それでもすれ違う人々の視線を集めていた。長身で無骨なオーラを放つ男と、洗練された身のこなしの女。
「ほら、熱いうちに食べて。これも私が仕掛けたキャンペーンの成果よ。滞在時間を延ばして、小銭を落とさせるの」
屋台で買った熱々の肉串を、クロエがセレスティアンに差し出す。
彼はそれを受け取り、一口かじった。スパイスの強い香りが鼻を抜ける。
「悪くない。だが、客の動線が少し左に偏っている。角の店の配置を見直して通路を確保すれば、さらに1割は流動性が上がるはずだ」
「はいはい、仕事の話はそこまで。今日はただの男と女として歩くの」
クロエは楽しげに笑い、セレスティアンの腕に軽く触れた。
賑わう大通りから1本入った、静かな石畳の路地。 周囲の喧騒が少し遠のいた場所で、クロエはふと足を止め、帽子を少しだけ上に押し上げた。
「……王都の連中が、本格的に動くんでしょう?」
先ほどの明るい声とは打って変わった、低く真剣なトーンだった。
「ソフィアから聞いたのか」
「空気を読めばわかるわ。カイラもヴィオラも、この数日少しだけピリピリしてる。私が気づかないとでも?」
クロエは自分の持っていた肉串の最後の一口を上品に食べ、口元をハンカチで拭った。その横顔には、かつて王都の劇場で見せていたような媚びた愛嬌は一切なく、冷徹に現実を見据える大人の女の顔があった。
「王都の連中はね、自分が世界の中心だと思ってる。自分たちが作り上げたわけでもない舞台に土足で上がり込んで、主演気取りで全てを奪っていく。役者を使い捨てて、利益だけを啜る。私も劇場で、そういう豚みたいな貴族を嫌というほど見てきたわ」
クロエの瞳の奥に、過去の冷たい怒りが微かに過る。
「でもね、ここは私の舞台よ」
彼女は振り返り、真っ直ぐにセレスティアンの三白眼を見据えた。
「私が価値を創り出し、私が観客を熱狂させている、アビス領という最高の劇場。あの無能な王族たちに、指一本触れさせる気はないわ。私のプロデュースしたこの完璧な熱狂に泥を塗ろうとするなら、王家だろうが何だろうが、社会的に完膚なきまでに叩き潰してやる」
それは、ただの女優ではない、ひとつの巨大な経済圏の広報を担うトップとしての強烈な自負だった。
セレスティアンは静かに頷いた。
「心強いな。だが、俺の目的は劇場を守ることではない。俺の平穏な生活を守るためだ。それを脅かす障害は、俺の手で徹底的に排除する」
「ふふっ、本当に素直じゃないわね。でも、そういうブレないところが、あなたの最大の魅力よ」
クロエは再び歩き出し、少しだけ弾んだ足取りで先を急いだ。
夕暮れ時。
領都を見下ろす高台のベンチで、二人は並んで腰を下ろしていた。
夕日が街の赤茶けた屋根を黄金色に染め上げ、遠くから銅鑼の音が響く。労働の終わりを告げる音だ。街の人々が帰路につき、各家の煙突から夕餉の準備を知らせる白い煙が上がり始めていた。
「どうやら、忙しくなりそうね」
クロエが、肩が触れそうな距離で呟いた。
「ああ。だが、法務と営業で外堀を完全に埋める準備は進めている。奴らがどう自滅するかを見届けるだけだ」
「頼もしいこと。もし王都の連中が強引な手に出たら、私が世論を操作して、彼らを悪役に仕立て上げてあげる。周辺国の新聞も、吟遊詩人たちの噂話も、すでに私の掌の上だもの」
「広報の出番は最後だ。まずは盤面を整える」
セレスティアンが淡々と答えると、クロエは彼のネクタイの結び目を指先で軽く直し、艶やかな笑みを浮かべた。
「わかってる。私の出番が来るまで、せいぜいその無愛想な顔で耐えて見せてね」
セレスティアンは立ち上がり、夕日に照らされる活気ある街並みを静かに見下ろした。
「さて、休み時間は終わりだ。明日からまた、少し忙しくなる」
「ええ」
クロエも立ち上がり、彼と並ぶ。
「ああ。だが、明日からも必ず定時で帰る」
ブレない主君の言葉にクロエが堪えきれずに吹き出す声を背に受けながら、セレスティアンは代官所へと向かって静かに歩き出した。




