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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第24話 王都の不穏な動き

 朝の鋭い光が、分厚く霜の降りた窓ガラスを通して、執務室の磨かれた床板に白い四角形を落としている。

 昨夜の宴の熱に浮かされたような余韻はすでに消え去り、代官所の空気は冬特有の冷たく澄み切ったものへと戻っていた。セレスティアンは広い執務机に向かい、早朝から各区画から上げられた工事進捗報告書に目を通している。

 新設された第三工房における魔石精製炉の稼働率、クレメント商会を通じた周辺国への輸出目録、そして本格的な降雪に備えた各村への備蓄物資の分配状況。どれもアビス領の急激な発展を示す重要な決裁書類だ。手元の万年筆が羊皮紙の上を滑る硬質な摩擦音だけが、静寂の落ちた部屋の中に小気味よく響き続けていた。


 彼の足元では、仔犬のポチが退屈そうに丸まっている。

 生後数ヶ月が経ち、ポチの身体は一回り大きくなっていた。冬毛へと生え変わりつつある黒と茶色の毛並みはふかふかとしており、背後で燃える暖炉の火に照らされて微かに光沢を帯びている。ポチは前足の上にちょこんと顎を乗せ、琥珀色の丸い瞳で、机に向かうセレスティアンの姿をじっと見上げていた。

 遊んでほしいのか、時折「くぅ」と小さく鼻を鳴らす。しかし、主が万年筆を握って書類に向かっている時は構ってもらえないことを、この利発な仔犬はすでに学習しているらしかった。邪魔をするように足元へ飛びかかってくることはない。ただ、その視線だけはセレスティアンの横顔にしっかりと釘付けになっている。

 セレスティアンがインク瓶にペン先を浸すためにわずかに身を動かすと、ポチの短い耳が期待を込めるようにピクッと跳ねる。だが、彼が再び羊皮紙に視線を落とすと、ポチは少しだけ残念そうに短く息を吐き出した。


 暖炉から伝わる穏やかな熱気に包まれているせいか、やがてポチのまぶたが徐々に重くなり始める。

 見開いていた琥珀色の瞳が、とろんと半分ほど隠れる。ハッと我に返ったように目を見開いて頭を上げるが、数秒後には再びまぶたが落ちてくる。その小さな頭が、こっくり、こっくりと船を漕ぐように揺れ始めた。主の姿をずっと見ていたいという仔犬の健気な意志と、暖かい部屋で湧き上がる抗いがたい眠気との戦いである。

 何度か頭を揺らした後、ついに睡魔が勝利を収めたらしい。ポチは体をわずかにずらし、セレスティアンの革ブーツの甲に自分の顎を乗せた。温かな体温を主に預け、そのままゆっくりと瞳を閉じる。すーっ、すーっと、穏やかな寝息が足元から聞こえ始めた。


 セレスティアンはペンを動かし続けたまま、足の甲に伝わる確かな重みと柔らかな熱を感じていた。彼は視線を落とすことなく、空いている左手をそっと下げ、ブーツの上で無防備に眠る小さな頭を2、3度撫でる。


(……少し、重くなったか)


 内心で短く思い、彼は処理を終えた書類を脇に置き、次の報告書に手を伸ばした。


 不意に扉をノックする音が響き、カイラが静かに入室してきた。

 彼女は足元で眠るポチを起こさないよう、無意識のうちに歩幅を小さくし、足音を殺して机の前に立つ。


「おはようございます、代官様。昨夜はお疲れ様でした」

「ああ。各部門の動きに異常はないか」

「はい。市場も早朝から通常通り機能しております。ただ……」


 カイラは手にした書簡の束から、一枚の封書を抜き出した。


「今朝、東部国境の関所から急ぎの報せが入りました。王都方面から街道を下ってくる商隊の数が、この数日で不自然に増加しているとのことです」

「クレメント商会の荷馬車か」

「いえ、王都の保守派に属する古い商会や、貴族のお抱え商人が大半です。彼らは関所で『辺境の視察』という名目を掲げているようですが、その実、荷台には底が抜けそうなほどの金貨を積載しています。また、彼らの連れている傭兵の数も、通常の商隊の護衛としては過剰すぎるとの報告です」


 セレスティアンは書類から視線を上げ、カイラの真剣な目を見た。


「嗅ぎつけたか」

「……はい。クロエ殿の宣伝効果と、ヴィオラ殿の商会が他国で流通させているポーションの動きが、ついに王都の旧態依然とした者たちの耳にも届いたようです。自らの既得権益が脅かされていることに気づき、直接買い付けを行うか、あるいは職人や技術の引き抜きを目論んで強引に動いたものと思われます」

「無駄な足掻きだ。特産品の流通経路はすでにクレメント商会と独占契約を結んでいる。技術を持つ職人たちの保護とギルドの設立も終わっている。彼らがどれだけ荷馬車に金貨を積んでこようと、入り込む隙間はない」

「いかがいたしますか。関所で入領を拒否し、追い返しますか」

「いや、通せ」


 セレスティアンは淡々と告げた。


「彼らに、この領地がすでに自分たちの手の届かない規模に膨張している現実を直接見せつけろ。整備された石畳、清潔な下水道、大規模な魔導施設、そして活気に満ちた領民の顔。どれだけ無能な連中でも、街の造りと人の流れを見れば、ここはもう力ずくや小手先の金でどうにかなる場所ではないと理解するはずだ」

「承知いたしました。関所の警備隊には、厳重な監視下で通過させるよう通達を出します」


 カイラは深く頷き、ふたたび足音を立てないように配慮しながら退室していった。


★★★★★★★★★★★


 同じ頃、アビス領から遠く離れた王都。

 王宮の奥深くにある、かつてセレスティアンが使用していた特別執務室は、当時の静謐で理路整然とした空間から完全に変貌していた。

 壁一面に整然と並んでいた分厚い資料や法典の棚は取り払われ、代わりにけばけばしい色彩のタペストリーが掛けられている。部屋の隅には豪奢だが使い道のない巨大な花瓶が置かれ、応接用のソファには金糸の刺繍が施されたクッションが無駄にいくつも配置されていた。

 かつて領地の未来を描く図面が広げられていた重厚な執務机の上には、今や処理されるべき決裁書類が無造作に山積みにされている。「治水工事の遅延報告」「地方貴族からの支援要請」「城壁の修繕費用の見積もり」といった重要な書簡が、封すら切られずに放置され、その横で完全に冷めきった紅茶が入ったティーカップが危ういバランスで置かれていた。


「ああ、マリアン。あなたが贈ってくれたこの首飾り、本当に素敵ね」


 ベルベットのソファに深く腰掛けたエリシア王女が、胸元で輝く巨大な宝石を指先でなぞりながら、甘ったるい声を上げた。

 隣に座る金髪の令息、マリアンが優雅な微笑を浮かべて彼女を見つめる。


「エリシア様の美しさを引き立てるには、まだ少し物足りないくらいです。王国の宝であるあなたには、もっと相応しい輝きが必要です」

「嬉しいわ。でもね、聞いてちょうだい。今月の私用のドレス代を申請したら、財務の文官がひどく渋い顔をしたのよ。信じられる? 王女たる私の身だしなみより、どこぞの堤防の修理費を優先しろですって。あの冷血男がいなくなって、ようやく息が詰まるような節約から解放されたと思ったのに」


 エリシアは不満げに唇を尖らせ、マリアンの胸にすり寄った。


「文官たちは心配性なのです。この国は広大で豊かです。多少の出費など、秋の税収ですぐに補填できますよ」


 マリアンが甘い声で囁き、エリシアの肩を抱き寄せようとした、その時だった。


 バンッ、と乱暴に重い扉が開かれ、財務担当の文官が血相を変えて飛び込んできた。彼は抱えていた書類の束を床に落としかけ、額には滝のような汗を浮かべている。


「え、エリシア殿下! 申し訳ありません、至急ご報告しなければならない事態が!」


 甘い時間を邪魔されたエリシアは、不快感を隠さずに冷ややかな目で文官を睨みつけた。


「騒々しいわね。ノックの仕方も忘れたの? 何事なの」

「北の辺境……アビス領から、信じがたい報告が上がっております! あ、あの土地から、周辺国へ向けて莫大な価値を持つ特産品が大量に流通しているとの情報が飛び込んできました!」


 エリシアは呆れたように息を吐き、眉をひそめた。


「アビス領? あんな不毛の土地から? どうせ少し珍しいだけの石か何かでしょう。放っておきなさい」

「ち、違うのです! クレメント商会が独占的に扱っている、奇跡の効能を持つ青いポーション。それがアビス領で製造されていると……! 現在、他国の富裕層や王侯貴族がこぞってそれを買い求めており、その利益は……」


 文官は手元の報告書を震える手で見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。


「推計ですが、王都の年間税収の数割に匹敵する額の金貨が、あの辺境の地に流れ込んでいる計算になります」


「……は?」


 エリシアの喉から、裏返ったような声が漏れた。


「王都の税収の数割? 馬鹿なことを言わないで。あの地にはまともな作物を育てる力すらないのよ。そんな莫大な金を生み出せるわけがないわ」

「し、しかし、クレメント商会の動きを追っていた密偵からの確実な報告です! さらには、関税が撤廃され、職人が厚遇されているという噂を聞きつけ……王都の石工ギルドから、腕利きの親方衆が十数名、家族を連れて姿を消しました。彼らだけでなく、錬金術師や武具職人までもが、次々とアビス領を目指して街道を下っているとのことです!」

「嘘よ!」


 エリシアはソファから勢いよく立ち上がった。その拍子に机が揺れ、放置されていたティーカップが床に落ちて甲高い音を立てて砕け散った。


「あの男が……セレスティアンが、そんな莫大な利益を上げているというの!? あの、数字ばかりを気にする可愛げのない、無能な男が!」


 エリシアは美しい顔を歪め、胸元の宝石をちぎれんばかりの力で握りしめた。彼女の呼吸は荒く、足元に散らばった陶器の破片をヒールの踵で乱暴に踏み躙る。


「で、殿下……このまま有能な職人と商人が王都から抜け続ければ、我々の手元の税収に致命的な影響が出ます。早急に対策を……」


 文官の震える声を、マリアンが静かに立ち上がって遮った。


「落ち着きなさい。たかだか辺境の小さな成功ではありませんか」


 マリアンは激昂するエリシアの傍に寄り、その震える肩を優しく撫でた。


「アビス領は、王家の直轄地です。そこで生まれた利益は、当然、王家のものであるべきだ。そうでしょう?」


 エリシアは息を荒くしていたが、マリアンのその言葉にハッと顔を上げた。彼女の目に、暗い色の光が宿る。


「……ええ。そうね。あそこは私の領地の一部よ。あんな辺境に不相応な富を溜め込むなんて、許されることではないわ」

「すぐに布告を書きなさい」


 エリシアは冷酷な声で文官に命じた。


「アビス領で得た利益は、正当な王家への上納金として速やかに納めるようにと。もし従わないのなら……」


 彼女は唇の端を吊り上げ、吐き捨てるように言った。


「王家の名において、あの土地のすべてを没収するわ」


★★★★★★★★★★★


 アビス領の執務室。

 セレスティアンは、ふと窓の隙間から入り込んだ冷たい風を感じて万年筆を止めた。

 足元のポチはまだ、彼のブーツに顎を乗せて静かな寝息を立てている。

 彼は窓の外の空を見上げた。分厚く灰色の雲が、遠く南の空——王都のある方角から、少しずつ押し寄せてきている。


「……」


 彼は何も言わず、静かに息を吐き出した。そして再び視線を書類へと戻し、黙々とインクを走らせ続けた。

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