第23話 第1期決算報告会
王国の最北端に位置するアビス領に、再び長く厳しい冬が訪れようとしていた。
だが、窓の外から聞こえてくる街の喧騒は、1年前の今日とは全く異なっていた。行き交う重い荷馬車の車輪の音、商人たちの威勢のいい呼び込み、新しい工房を建てるための槌の音。かつての死に絶えたような静寂は完全に消え去り、そこには莫大な金と人が血流のように循環する、巨大な経済都市の息吹きがあった。
代官所の中枢に設けられた、分厚いオーク材の円卓。 セレスティアン・フォン・ルシフェルは上座に深く腰を下ろし、目の前に並べられた決裁書類の最後の1枚に万年筆で署名を記した。 ペンを置く乾いた音が、室内に響く。 円卓を囲んでいるのは、5人の女たちだ。
「……以上をもって、第1期のすべての決算手続きが完了いたしました」
代官補佐のカイラが、革張りの分厚い帳簿を閉じ、静かに顔を上げた。彼女の涼しげな瞳には、隠しきれない高揚と、確かな達成感が滲んでいる。
「各村からの正規の税収に加え、クレメント商会を通じたポーションおよび特産品の売上。さらに経済特区の設立に伴う周辺国からの投資資金。それらを総合した当領地の最終的な利益は……赴任当初の推計の、およそ300倍に達しています」
その数字に、室内の空気が微かに揺れた。
「あら、当然の結果ですわ」
艶やかな声で沈黙を破ったのは、ヴィオラだった。彼女はタイトなドレスの脚を優雅に組み替え、手にした扇をパチンと鳴らす。
「私が構築した東部と北部の流通網が、寸分の狂いもなく稼働したからこそですもの。いくら良い品でも、他国の富裕層まで届ける足と信用がなければ、これほどの額面にはなりませんわよ」
「ちょっと待ってよ。その富裕層の財布を開かせたのは、私の宣伝戦略のおかげじゃない」
クロエが身を乗り出し、少し猫目がちな瞳をイタズラっぽく細めた。
「価値を錯覚させ、絶対に手に入れたいという熱狂を創り出したのは私。ヴィオラの馬車が運んだのは品物だけ。それを『金貨の山』に変えたのは私の言葉と演出よ」 「二人とも、本質を忘れていないかしら?」
白衣姿のイレーネが銀縁の眼鏡を押し上げ、鼻で笑う。
「私が魔力と温度の法則を完全に制御した抽出機を作らなければ、そもそも売るものがないのよ。全ての利益の源泉は、この私の圧倒的な頭脳にあるってことを――」 「でも、あたしが下水道工事の誤魔化しを見つけなかったら、その利益の一部は悪徳商人に吸い取られてたけどね」
壁際で腕を組んでいた14歳のソフィアが、ぽってりとした唇を尖らせて言った。
「それに、王都の怪しい動きをいち早く察知して備えられたのも、あたしが裏街から集めた情報があったからでしょ」
それぞれが己の手柄を主張し、円卓の上で視線の火花を散らす。 誰一人として一歩も引こうとしないが、その声に悪意はない。互いが互いの役割の重要性を理解し、己の仕事に絶対的な誇りを持っているからこその応酬だった。 セレスティアンは無言で彼女たちのやり取りを聞きながら、内心で微かに頷いた。
(生産、管理、流通、宣伝、そして監査。見事なまでに機能の分化と連携が取れている。経営者として、これほど理想的なボードメンバーは他にいない)
「全員、よくやった」
セレスティアンの低く重い声が落ちると、5人の女たちは弾かれたように口を閉じ、彼を見つめた。
「この1年、お前たちには俺の要求する過酷な基準に耐え、それ以上の結果を出してもらった。この莫大な利益は、お前たちの能力が一つでも欠けていれば決して到達しなかった数字だ」
彼は立ち上がり、円卓を見渡した。
「本日の業務はここまでとする。1年間の労をねぎらい、別室にささやかな宴を用意させた。存分に飲み、食え」
★★★★★★★★★★★
隣接する迎賓館の食堂には、暖炉の火が赤々と燃え、心地よい熱気が満ちていた。 長いテーブルには、アビス領の厳しい冬を乗り越えるための豊かな食材が並べられている。脂の乗った野鳥のロースト、近海の港から氷結魔法で運ばれたばかりの新鮮な魚介のマリネ、そして根菜を柔らかく煮込んだ濃厚なシチュー。
中でも目を引いたのは、テーブルの中央に山と積まれた「剥き栗」だった。 領内の森で収穫された大粒の栗。硬い鬼皮と渋皮が職人の手によって一つ一つ丁寧に取り除かれ、ほっくりと黄金色に茹で上げられている。軽く岩塩を振って甘みを引き出したものと、果実の蜜で艶やかに煮込まれたものの2種類が用意されていた。
「まあ、この栗……本当に丁寧に仕込みがされていますのね。渋皮のえぐみが全くありませんわ」
ヴィオラが細い指で蜜煮の栗を口に運び、目を細めた。
「代官様の指示で、厨房の者たちが朝から手作業で剥いていたそうです。手間のかかる作業ですが、その甲斐あって見事な味わいですね」
カイラが普段の張り詰めた表情を少しだけ緩め、塩を振った栗を味わいながら答える。
「ねえ、あたしこれ好き! 甘くて、口の中でほろほろ崩れる!」
ソフィアが子供らしい笑顔を見せ、両手に栗を持って交互に頬張っていた。
「さあ、本日の主役はこちらですわよ」
ヴィオラが上機嫌な声で、従者に持たせていた重厚なガラス瓶をテーブルに置いた。
「南方の歴史ある丘陵地帯で造られた、特級畑の赤ワイン。私の商会のツテを総動員して、ようやく数本だけ手に入れた極上の品ですの。この1年の圧倒的な勝利に相応しい味わいをお約束しますわ」
抜栓されると同時に、部屋の空気が一変した。 グラスに注がれた液体は、深いルビーのような輝きを放っている。ラズベリーや濃密な黒系果実の甘い香りに混じって、湿った土や腐葉土を思わせる複雑で官能的な香りがふわりと広がった。 クロエがグラスを手に取り、軽く回して香りを確かめる。
「……悔しいけど、見事な仕入れね。王都の劇場でパトロンが自慢げに開けていた高級ワインが、ただの葡萄の絞り汁に思えるわ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ。さあ、カイラ殿も」
「い、いえ、私はまだ明日も朝から書類の確認が……」
「今日くらい良いではありませんか。代官様も業務は終了だと仰ったのですよ?」
ヴィオラに強引にグラスを押し付けられ、カイラは躊躇いながらも一口飲んだ。途端に、その色白の頬にほんのりと朱が差す。
「……美味しい。こんなに香りの深いお酒は初めてです」
「でしょう? さ、どんどん注ぎますわよ」
イレーネはワインには目もくれず、
「この肉の焼き加減、魔石の温度管理を応用すればもっと均一に……」などと呟きながらローストチキンを解体している。ソフィアは大人たちに混じって甘い果実水を飲み、栗の皿を自分の手元に引き寄せていた。
セレスティアンは、彼女たちが賑やかにグラスを交わすテーブルから少しだけ離れた、暖炉のそばの革張りのソファに腰を下ろしていた。 彼の右手には、ヴィオラが持ち込んだ華やかな赤ワインとは全く異なる、無骨なグラスが握られている。 中に入っているのは、西方の海に浮かぶ孤島で作られたという蒸留酒だ。 グラスを近づけるだけで、鼻腔を強烈に打つ匂いがある。波飛沫を浴びた海風の塩気と、泥炭を燻して作られたという薬品のように鋭い煙の香り。万人受けする華やかさなど微塵もない、ひたすらに重く、静かな琥珀色の液体だった。
「……」
セレスティアンは氷をカランと鳴らし、その強烈な酒を一口舐めた。 喉の奥が焼けるような熱を帯び、重厚な泥炭の香りが鼻へ抜けていく。前世の記憶の中で、倒産寸前の企業を再建し、すべての数字を合わせた深夜に一人で飲んでいた酒の味に似ていた。
「きゅぅ」
足元から、微かな鳴き声がした。 視線を落とすと、黒と茶色の毛並みを持つポチが、暖炉の火に照らされながら彼のブーツに顎を乗せていた。遊び疲れたのか、その目はとろんと半分閉じかけている。 セレスティアンはグラスを持ったまま、空いている左手でポチの丸い頭を撫でた。首筋から背中にかけて、ゆっくりと、毛並みに沿って手のひらを滑らせる。ポチは心地よさそうに喉を鳴らし、短い尻尾を数回パタパタと動かして、完全に目を閉じた。 手のひらに伝わる、規則的な呼吸と温かな命の鼓動。
(赴任から1年。領地の土台は固まり、外貨を稼ぐ仕組みも完全に機能し始めた)
セレスティアンは再び蒸留酒を口に含み、泥炭の香りを肺の底まで吸い込んだ。
(だが、この莫大な利益を、王都の連中が見過ごすはずがない。いずれ必ず、理不尽な理由をつけてこの富を奪いに来る)
エリシアや、彼女を取り巻く既得権益に群がる貴族たち。彼らの行動原理は痛いほど予測できる。 法外な税の要求、流通経路への圧力、あるいは物理的な武力行使。 だが、どのような手が来ようと、すでに防衛の布石は打ち始めている。
セレスティアンは視線を上げ、テーブルの方を見た。 カイラが少し酔ったのか、ヴィオラのからかいに対して珍しく声を荒げて反論し、クロエがそれを楽しげに煽っている。ソフィアは呆れた顔で剥き栗を口に放り込み、イレーネはどこからか取り出した白紙の裏に新しい魔導具の設計図を書き殴っていた。
(来るなら来い。盤面はすでに、こちらが支配している)
セレスティアンは微かに口角を上げ、グラスに残った琥珀色の液体を静かに飲み干した。暖炉の炎が、彼の冷徹な三白眼の奥で静かに、しかし力強く揺らめいていた。




