第22話 福利厚生施設の拡充
アビス領の領都に、本格的な冬の足音が近づいていた。
分厚い石造りの代官所であっても、窓の隙間から入り込む北風は容赦なく熱を奪っていく。執務室に備え付けられた大きな暖炉には赤々と薪がくべられ、パチパチとはぜる乾いた音が静寂を埋めていた。
その暖かな空気の中、重厚なマホガニーの執務机の下から、微かな唸り声が聞こえていた。
「ぐるるるぅ……っ、がっ、うぅーっ」
セレスティアンが万年筆を動かす手を止めずに視線を落とすと、黒と茶色の毛玉――ポチが、彼の右足のブーツに短い前足を絡ませ、必死に噛み付いていた。
路地裏で拾われてから数ヶ月が経ち、ポチは乳歯が生え変わる時期を迎えていたらしい。口の中がむず痒くて仕方がないのか、ここ数日は目につくもの全てに小さな牙を立てるようになっている。絨毯の端、椅子の脚、丸めて捨てた羊皮紙の切れ端。中でも彼が一番気に入っているのが、王都の熟練職人が手縫いで仕上げた、最高級の鹿革ブーツの踵であった。
「……それは食い物ではないぞ」
セレスティアンが低い声で窘めると、ポチはブーツの踵に食らいついたまま上目遣いでこちらを睨み、「ヴーッ」と一丁前に威嚇の声を上げた。しかし、その短い尻尾は目にも留まらぬ速さでパタパタと左右に振られており、威嚇というよりはただの綱引き遊びの誘いにしか見えない。
セレスティアンは小さく息を吐き、ブーツを軽く振ってポチを振り落とした。そして引き出しを開け、あらかじめ用意しておいた硬い木の枝を取り出して床に転がす。
ポチは即座に標的を変え、その木枝を前足で器用に押さえ込みながら、ガシガシと親の仇のように噛み始めた。
前世の記憶の中で、深夜の暗い部屋で、小さな画面越しに動画を眺めることしかできなかった存在が、今こうして自分の足元で確かな熱と重みを持って暴れている。彼は木枝と格闘する仔犬の丸い頭を大きな手で無造作に撫でると、再び視線を山積みの書類に戻した。
数分後、控えめなノックと共に扉が開き、代官補佐のカイラと、秘書見習いのソフィアが入室してきた。
「代官様。第4区画および東部居住区の工事進捗報告書、ならびに各村からの陳情書です」
カイラが書類の束を机の端に置く。常に隙のない彼女だが、その涼しげな目元には、微かに疲労の色が滲んでいた。
「ソフィアの監査によって下水道拡張工事の不正が排除されたことで、資材の流通は正常化しました。現場の作業自体は、予定通りの工程を取り戻しつつあります。しかし……現場の空気が、少し張り詰めています」
「張り詰めている、とは?」
セレスティアンが万年筆を置いて問い返すと、背後に控えていたソフィアが一歩前に出た。
「他領から出稼ぎに来た石工や土木作業員たちの間で、些細な小競り合いが増えてるの。昨夜も東通りの酒場で、席の取り合いから乱闘騒ぎがあって、衛兵が3人も出動する羽目になったわ」
ソフィアは呆れたように報告しながら、足元に寄ってきたポチをひらりと躱した。ポチは今度は彼女の黒い革靴の紐に狙いを定めたらしく、短い脚で飛びかかろうとしている。
「こら、噛まないの。汚いわよ」
ソフィアが足先でポチを軽くあしらうのを見届け、カイラが言葉を継いだ。
「冬の寒さが厳しくなってきたことが最大の原因でしょう。彼らにあてがわれている仮宿舎は急造のため隙間風が多く、夜は毛布にくるまっても震える有様です。温かい食事と酒を求めて酒場へ行くしかありませんが、疲労と寒さが重なり、労働者たちの不満が限界に達しつつあります。休日は設けていますが、彼らには暇を潰す場所がなく、結局酒場に入り浸ってトラブルを起こす悪循環に陥っています」
セレスティアンは両手で顔の前に三角形を作り、カイラとソフィアの報告を頭の中で整理した。
「冷えと疲労で労働者の足が止まれば、工事全体が遅れる。酒場で暴れられれば衛兵の負担が増し、怪我人が出ればさらに人手が減る。放置すれば、彼らは春を待たずに他領へ逃げ出すか、暴徒と化すだろうな」
淡々と最悪の事態を予測するセレスティアンに、カイラは硬い表情で頷いた。
「はい。早急に宿舎の改築を手配すべきでしょうか。しかし、今はどの建築ギルドもインフラ工事の主軸で手が一杯で、宿舎の修繕に回せる人員が……」
「個別の宿舎を全て改善するには、時間も資材もかかりすぎる。それに、彼らが休日に酒場で散財して他領の商人を潤わせるのも、こちらの資金が外部に流出するという観点から見れば好ましくない」
セレスティアンは引き出しから白紙の羊皮紙を取り出し、万年筆で素早く図面のようなものを描き始めた。
「彼らに必要なのは、芯まで冷えた体を温める環境と、適度な娯楽だ。そして代官所にとっては、彼らに支払った日当を、効率的にこちらの金庫へ回収する仕組みが必要になる」
彼が書き上げた紙をカイラの方へ滑らせる。
「……これは、何かの工房ですか? 中央に大きな水槽のようなものが描かれていますが」
「公衆の大浴場だ」
セレスティアンは淡々と告げた。
「一度に数十人が入れる巨大な温水槽を備えた湯屋を作る。隣接して、手頃な価格で食事と酒を楽しめる広間も併設しろ。入浴の代金は銅貨数枚に設定し、労働者が毎日でも通える額にする」
カイラは目を丸くした。
「これほど巨大な温水を……常に維持するのですか? 貴族の屋敷ならともかく、平民のための施設でそのような莫大な薪を燃やし続ければ、銅貨数枚の代金だけではとても割に合いません」
「この湯屋単体で利益を出す必要はない。衛生状態を改善して病気による欠勤を減らし、温かい湯で疲労を抜かせる。そして、湯上がりに併設の広間で酒と飯を消費させる。彼らに払った給与の二割から三割を、この施設を通じて代官所に還流させるための仕組みだ」
カイラは図面とセレスティアンの顔を交互に見比べ、やがてその理にかなった構造を理解したのか、小さく息を呑んだ。
「……なるほど。これなら、各宿舎に個別で薪を配るよりも遥かに効率的です。しかし、それほどの規模の湯を常に適温に保ち、循環させる技術が……」
「イレーネを呼べ」
セレスティアンのその一言に、カイラの胃のあたりが微かに引き攣った。
数日後。執務室の机には、イレーネが書き上げた大浴場の設計図が広げられていた。
「完璧よ。あなたの要求通り、地下に中型の炎魔石を配置して水流の巡回機構と連動させる仕組みを組んだわ。これで常に清潔で適温の湯が保たれる」
白衣を無造作に羽織ったイレーネが、銀縁眼鏡を指先で押し上げながら誇らしげに豊かな胸を張る。
「ご苦労だった。だが――」
セレスティアンは設計図の余白にびっしりと書き込まれた、複雑怪奇な魔法陣の羅列を万年筆の尻で指差した。
「この湯船の底と壁面に描かれている配管と魔石はなんだ。当初の指示にはない」
「ああ、それね!」
イレーネは待っていましたとばかりに身を乗り出し、目を輝かせた。
「ただのお湯に浸かるだけじゃつまらないでしょう? だから、底に風魔石を仕込んで、強力な気泡を下から吹き上げさせる構造を追加したわ。水流の打撃で筋肉の疲労を強制的にほぐすのよ。さらに、隣の釜には薬草の自動抽出装置を直結させて、日替わりで湯の効能と色を変えられるようにしたわ。極めつけは天井よ! 微細な水魔石を配置して、室内に高温の蒸気を充満させる特別な熱気室も併設――」
「お待ちください、イレーネ殿!!」
隣で図面を見ていたカイラが、耐えきれずに悲鳴のような声を上げた。
「その『気泡を発生させる仕組み』とやらに必要な風魔石の調達費用は計算されていますか!? それに、この複雑すぎる配管図……! これを形にするには、街の基盤整備を止めて熟練の石工を全てこの施設に回さなければなりません。当初の予算の五倍、工期は半年以上延びます!」
「新しい技術への投資を渋るなんて、愚の骨頂ね」
イレーネは不満げに唇を尖らせた。
「代官様が『他にはない価値を作れ』と言ったんじゃない。この気泡と薬湯の仕組みが完成すれば、王都の貴族たちですら金貨を積んで入りに来るわよ。極上の癒やし場になるんだから!」
「今は王都の貴族を呼ぶ必要はありません! 明日の寒さに震える労働者を温めるのが先です!」
机を挟んで火花を散らす二人を前に、壁際で控えていたソフィアは「また始まった」とでも言いたげに、小さく息を吐いた。
「二人とも、そこまでだ」
セレスティアンの静かな、しかし絶対的な冷気を帯びた声が響くと、二人はピタリと言い争いを止めた。
彼は設計図を手に取り、イレーネが追加した気泡装置や薬湯システムの箇所に、万年筆で容赦なくバツ印を書き込んだ。
「イレーネ。気泡の着眼点と薬草の抽出機構は素晴らしい。だが、今回は見送る」
「どうしてよ! 妥協した技術なんて面白くないわ!」
「第一期工事の目的は、あくまで『労働者の不満を和らげ、衛生を保つこと』だ。過剰な機能は工期の遅れと費用の増大を招き、資金の回収を遅らせるだけだ」
セレスティアンはイレーネの青い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「商売において、最初から全ての手札を切る必要はない。この付加価値は、大衆が今の湯屋に飽き始めた頃に投入する、次の目玉として取っておけ」
その徹底した合理的な論理に、イレーネは反論の言葉を飲み込み、少しだけ頬を膨らませた。
「……分かったわよ。じゃあ、最低限の魔力で最大の熱効率を出す保温と循環の機構だけを組むわ。それなら一ヶ月で稼働させてみせる」
「頼む」
イレーネがぶつぶつと文句を言いながら図面を回収して部屋を出て行くと、カイラは深く息を吐き出し、制服の上から胃のあたりをそっと押さえた。
「……申し訳ありません、代官様。私がもう少し技術部門の暴走を抑えられていれば」
「気にするな。優れた技術者は得てして採算を度外視して理想を追うものだ。それを制御して利益に繋げるのが、俺たち実務を担う者の仕事だ」
セレスティアンは再び万年筆を手に取り、先ほど後回しにしていた決裁書類の束を引き寄せた。
「疲労回復には、広い湯船と適温の湯、そして湯上がりの冷たい飲み物があれば十分だ」
「冷たい飲み物、ですか? 湯上がりには温かいお茶かエールが一般的ですが」
「いや。湯上がりに腰に手を当てて一気に飲み干す、よく冷えたヤギのミルクだ。あれこそが労働者の魂を救う」
前世の銭湯の記憶、ガラス瓶に入った冷たい牛乳の味を反芻しながら真顔で言い切る代官に、カイラは「はあ……」と間の抜けた返事をするしかなかった。
その足元では、飽きることなく硬い木枝を噛み続けるポチの短い尻尾が、パタパタと小気味よい音を立てて床を叩いていた。外の厳しい寒さとは無縁の、微かな温もりが執務室を満たしている。




