第3話 抜き打ち監査
翌朝、午前7時50分。
セレスティアンが執務室の重い木扉を開けると、そこにはすでに人の気配があった。
薄暗い室内。朝日が差し込む窓を背にして、カイラ・アシュフィールドが立っている。昨日と同じ、色を失ったような地味な文官服姿だ。
だが、昨日の夕方と一つだけ違う点があった。彼女の傍らにある長大なマホガニーのデスクの上に、崩れんばかりの羊皮紙と紙の束が山のように積まれていることだ。
「……おはようございます、代官様」
カイラは小さく一礼した。声のトーンは相変わらず平坦だったが、その目には微かな疲労の色が滲んでいる。
「過去5年分。各村の徴税記録、代官所の出納帳、公共事業の予算申請書、および衛兵隊の給与明細。ご指示の通り、すべてボルドー殿の目を通さずに書庫から直接運び入れました」
セレスティアンは無言でデスクに歩み寄った。
紙の束は、大人の腰の高さまで積み上がった山が三つ。相当な重量だ。埃とカビ、そして古いインクの匂いが混ざり合った独特の臭気が鼻を突く。
彼女は一晩かけて、あるいは早朝から一人でこの量を書庫から運び出したのだろう。壁に寄りかかっているカイラの呼吸は、昨日よりもわずかに荒い。
「ご苦労だった。ボルドーには気づかれたか?」
「いえ。彼らは昨夜、歓楽街へ繰り出したようで、今朝はまだ誰も登庁しておりません」
「そうか」
セレスティアンは上着を脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。腕まくりをして、一番手前にある書類の束に手を伸ばす。
「君は下がって休んでいていい。午後になったらまた呼ぶ」
「……私も、残ります」
カイラが意外なことを口にした。セレスティアンが無言で理由を問うように見返すと、彼女は目を逸らさずに答えた。
「代官補佐の職務として、代官様の執務を補佐いたします。それに……」
カイラは山積みの書類をちらりと見た。
「これほどの量を、お一人で今日中に確認するなど不可能です。分類や整理の作業が必要であれば、私が行います」
なるほど、とセレスティアンは内心で呟いた。
彼女は自分を疑っているのだ。王都から来たお飾りの貴族が、これほど膨大な実務資料を一人で処理できるわけがない。どうせ少し眺めて、面倒になってボルドーに丸投げするのだろう。その一部始終を見届けてやろう、という冷めた観察眼が彼女の瞳の奥にあった。
「好きにしろ。ただし、俺の作業中は音を立てるな」
セレスティアンはそれだけ言い残し、椅子に深く腰を下ろした。
そこから始まった光景は、カイラの予測を少しずつ裏切っていくものだった。
セレスティアンは一枚の白紙を自分の手元に引き寄せ、羽ペンをインク壺に浸した。そして、積まれた書類の山から無作為に手を取るのではなく、まず「予算申請書」と「出納帳」の束だけを抜き出した。
文字の羅列を一つ一つ追うような真似はしない。彼は各月の「支出総額」と「徴税総額」という末尾の数字だけを拾い上げ、手元の白紙に構築した表に書き写していく。
最初の1時間は、ただひたすらに全体の資金の流れを俯瞰するための作業に費やされた。
領地全体でどれだけの金が動き、どの時期に大きく減っているのか。大まかなマクロの視点で帳簿の「アタリ」をつけるための地道な作業だ。
やがて、特定の月の支出額に不自然な膨らみがあることを確認したセレスティアンは、白紙の横に「春の修繕事業」と短く書き込んだ。
そこから、彼の動きが変わった。
全体の数字から細部の項目へと焦点を絞り、「出納帳」と「衛兵隊の給与明細」を並べて突き合わせる作業に入る。
室内は、彼が紙をめくり、羽ペンを走らせる規則的な作業音に支配されていた。
2時間が経過した。
セレスティアンの集中力は途切れる様子がない。背筋を伸ばし、淡々と、しかし確実に紙の山を消化していく。不自然な点を見つければ、別の書類の束から関連する記録を探し出し、矛盾を裏付ける数字を白紙に書き足していく。
超常的な魔法を使っているわけではない。仮説を立て、手元にある複数のデータを照合して事実を抽出するという、純粋な実務家としての論理的アプローチだった。
部屋の隅で控えていたカイラは、次第に自分の掌がじっとりと汗ばんでくるのを感じていた。
王都で騎士として仕えていた頃、優秀な文官たちが働く姿を何度も見てきた。だが、これほど明確な目的意識を持って、淀みなく数字の矛盾を追い詰めていく人間を見たことがない。
領地の帳簿は、ただいくら入って、いくら使ったかを羅列しただけの単純なものだ。それゆえに、単体の書類だけを見れば数字を誤魔化すことは容易い。
だが、この男は複数の帳簿に散らばった数字の断片を拾い集め、自らが引いた線の上で再構築することで、隠蔽された事実を浮き彫りにしている。
正午を少し回った頃。
セレスティアンは長く息を吐き、羽ペンを机に置いた。
彼の手元には、数字と矢印が整然と書き込まれた数枚の紙が残されている。
「……ひどい有様だな」
セレスティアンが呟いた。その声は長時間の作業による疲労で少し掠れていたが、同時に、確たる証拠を握った者の静かな自信を含んでいた。
「カイラ。ボルドーを呼べ。そろそろ酒が抜けて登庁している頃だろう」
「は、はい」
カイラは弾かれたように背筋を伸ばした。
ただ作業をする背中を見ていただけだというのに、肌が粟立つような緊張感に当てられていた。彼女は足早に執務室を出て、ボルドーを探しに向かった。
数十分後。
ボルドーが執務室に姿を現した。彼の顔は昨日のような卑屈な愛想笑いに覆われていたが、目の下には隈があり、酒の匂いと強い香水の匂いが混ざり合って漂ってくる。
その後ろから、カイラが静かに入室し、扉を閉めた。
「お呼びと伺いまして、急ぎ参上いたしました。いやはや、代官様。初日からこれほどの書類に目を通されるとは、ご熱心なことで……しかし、やはりこのような煩雑な作業は」
「座れ」
セレスティアンの低く重い声が、ボルドーの言葉を遮った。
ボルドーは一瞬動きを止め、それからぎこちない動作で対面の椅子に腰を下ろした。
「いくつか、確認したいことがある」
セレスティアンは自身が書き込んだ数枚の紙の中から、一枚をボルドーの前に滑らせた。
「昨日の話の続きだ。まず、北部の橋の修繕費について。過去5年分を遡ったが、毎年春に大規模な修繕が行われたことになっている。予算申請書によれば、計上されている木材と石材の購入費は金貨で年間300枚。職人の日当が200枚だ」
「は、はい。北部の橋は老朽化が激しく、毎年のように雪解け水で……」
「そうか。では、なぜ同じ時期の出納帳の運送費項目には、それだけの大量の資材を運んだはずの馬車の借り上げ費用も、御者への支払い記録も一切記載されていない?」
ボルドーの肩がピクリと跳ねた。
「そ、それは……地元の農民たちが、自発的に荷車を出して協力してくれたためでして」
「ならば人件費の矛盾はどう説明する。お前が提出した出納帳には、職人の日当として総額だけが記されている。だが、衛兵隊の給与明細に付随する警備日報と照らし合わせた結果、春の修繕期間中、北部の橋で作業をしていた職人は報告の3分の1しかいなかった。残りの3分の2の人件費は、誰に支払われた?」
ボルドーの額から、昨日の比ではない量の汗が噴き出し始めた。彼は袖口で顔を拭う。
「き、記録の不備かと存じます! 現場の者が、日報を出し忘れたか、あるいは私が数字を見間違えて転記した可能性が……」
「記録の不備や転記ミスで、毎年ピタリと同じ額の金が消えるのか。では、これについてはどう説明する?」
セレスティアンは二枚目の紙を突きつけた。
「架空の職人に支払われたはずの人件費。架空の木材の購入費。これらは修繕費という名目で金庫から支出されたことになっている。だが、出納帳を確認すると、毎年この架空工事の決済が終わった1ヶ月後に、『王都復興支援組合』なる無名の組織から、この代官所へ寄付金が振り込まれている」
セレスティアンは淡々と事実だけを並べ立てた。
「額面は、消えた人件費と資材費の合計から、ちょうど2割を引いた額だ」
「そ、それは……!」
ボルドーは椅子から身を乗り出し、声を荒らげた。
「その寄付金は、組合からの純粋な善意の寄付です! 王都の皆様がこの貧しい辺境を思いやってくださった浄財を、不正な金だと疑うなど、あまりに非礼ではありませんか!」
「毎年、架空工事の決算直後に、きっちり横領額の8割の額が振り込まれる偶然など存在しない」
セレスティアンは顔色一つ変えずにボルドーの反論を切り捨てた。
「自分の懐に入れる前に、一度外部の組織を経由させて資金の出所を不透明にしたつもりだろう。では、引かれた残りの2割はどこへ行ったか。……衛兵隊の給与明細だ」
セレスティアンが最後の一枚を指で叩く。
「修繕工事の期間中だけ、衛兵隊の幹部連中に『特別功労金』という名目で不可解な手当が支給されている。彼らへの口止め料だろう。その特別功労金の総額は、見事に消えた2割の額と一致している」
沈黙が落ちた。
ボルドーの唇が震え、顔面は土気色に変わっている。
「手元にある徴税記録、出納帳、予算申請書、給与明細。これらを照合しただけで、不正の構造は完全に証明できる。言い逃れは不可能だ」
セレスティアンは椅子に深く背を預け、見下ろした。
感情的な糾弾は一切ない。ただ、事実と数字によって構築された完璧な論理の鎖が、ボルドーの首を確実に絞め上げていた。
「ち、違います! 私はただ、この領地のために……」
「確認作業は終わりだ」
ボルドーは膝から崩れ落ち、床に手をついた。肩が小刻みに震え、もはや反論の言葉を紡ぐ気力すら残っていないようだった。
部屋の隅でその一部始終を見ていたカイラは、無意識のうちに自分の両手を強く握りしめていた。
5年間。誰も見抜けなかった、あるいは気づいていても見過ごされてきた代官所の横領の仕組み。それを、この男は手元にある帳簿の照合だけで完全に暴き出したのだ。
王都から左遷されてきた、ただの無能な貴族。
その評価は、カイラの中で完全に覆っていた。彼女はただ黙って、床に這いつくばるボルドーを見下ろす代官の背中を見つめていた。




