第2話 限界集落への着任
王都を出発して十数日。ガタガタという不規則な振動が、セレスティアンの意識をゆっくりと浮上させる。
泥のように深く、重い眠りだった。王都での3年間で、これほどまとまった休息を取れたことなど一度たりともない。
肩や首を苛んでいた鉛のような凝りは和らぎ、視界の端を明滅させていた不快なノイズも完全に消え失せている。頭蓋の中が氷水で洗われたように澄み切っていた。
(……着くか)
馬車の窓から、分厚いカーテンの隙間を少しだけ開ける。
重く垂れ込めた灰色の空の下、荒涼とした大地が広がっている。枯れかけた背の低い木々が等間隔で並び、容赦なく吹き付ける北風に煽られていた。
王国の最北端、アビス領。
何もない。王都を象徴するような巨大な尖塔も、ひっきりなしに行き交う豪華な馬車の群れも、人の波が作り出すけたたましい喧騒もない。
ただ荒涼とした風景だけが延々と続いている。その「何もない」という事実が、今のセレスティアンにとっては極上の絵画のように見えた。
(ここでなら、本当に静かに暮らせる)
誰の干渉も受けない。王宮の果てしない派閥争いや、山のように積み上げられた決裁書類に追われることもない生活。前世から渇望し続けてきた完全なる平穏が、すぐそこまで来ている。
しかし、馬車がアビス領の中心である街――領都と呼ぶにはあまりにも粗末な集落――に差し掛かった時、彼の心地よい予感は微かな違和感によって遮られることになった。
馬車が石畳とは名ばかりの、ひび割れだらけの街道を進んでいく。
セレスティアンは窓の隙間から、流れる街の景色を静かに観察し始めた。
違和感の正体はすぐにわかる。街全体を重く覆う、異常なまでの静寂と停滞だ。
建物の石壁は崩れかけ、屋根の修繕も放棄されている。道ゆく人々の足取りはひどく重く、誰もが地面に視線を落として泥を引きずるように歩いている。すれ違う者同士で言葉を交わす様子もない。
彼らの頬は深くこけ、着ている服は継ぎ接ぎだらけで、北部の容赦ない寒さを凌ぐにはあまりにも薄手だった。
(貧しい土地だとは聞いていたが……)
それだけではない。ただ土地が痩せていて貧しいのなら、領民たちは少しでも糧を得ようと市場で声を張り上げ、必死に立ち回るはずだ。それなのに、窓から見える人々の目には、その日を生き延びようとする活気すらなく、ただ黒々とした諦観だけが張り付いていた。
ふと、路地の入り口に視線が止まる。
大八車に積まれた麻袋を、痩せこけた男が数人がかりで必死に運んでいる。その傍らには、革鎧を着た数人の男たち――代官所の衛兵だろう――が立ち、苛立った様子で鞭を鳴らして彼らを急かしていた。
衛兵たちの革鎧はよく手入れされ、鈍い光を放っている。何より、彼らの体格は荷を運ぶ領民たちと比べて明らかに肉付きが良かった。
(代官所だけが異常に潤っている、というわけか)
セレスティアンは窓から視線を外し、深くシートに背を預けた。
生かさず殺さずという言葉があるが、今の状況は殺す一歩手前まで搾り取っている状態だ。富の分配が極端に偏り、一部の人間だけが肥え太り、大半の人間が緩やかに死に向かっている。
(……俺には関係のないことだ。適当に代官という肩書きだけを背負い、館に引きこもって本でも読んでいればいい)
セレスティアンは微かに眉間を寄せ、そう自分に言い聞かせる。
この地を豊かにする義務などない。王家からも厄介払いされた土地だ。
だが、理屈で割り切ろうとすればするほど、彼の内側で冷徹な計算が始まってしまう。
これほどの搾取体制が長く続くはずがない。労働力である領民がこのペースで倒れていけば、遠からず領地の生産性は完全に崩壊する。街は死に絶え、治安は悪化し、暴動が起きるか野盗の巣窟になる。
領地が破綻すれば、代官である自分の生活環境も確実に脅かされる。
後で自分が平穏に暮らすためには、放置すれば確実に腐り落ちるこの負の連鎖を、今のうちに断ち切って自動化しておく必要がある。
(……結局、一番の癌を取り除かなければ、スローライフは始まらないということか)
セレスティアンは内心で小さく舌打ちをした。
馬車は街の中央にある、周囲の崩れかけた家屋とは不釣り合いなほど立派な石造りの館の前に停まった。
御者が恭しく扉を開け、セレスティアンはゆっくりと地に足を下ろす。
長い旅路を感じさせない、皺一つない漆黒のフロックコート。その圧倒的な長身と静かな威圧感に、出迎えに並んでいた数人の役人たちが言葉を失い、身を固くするのがわかった。
「よ、ようこそおいでくださいました、セレスティアン様」
列の中心にいた、腹の突き出た初老の男が愛想笑いを浮かべて前に出た。彼が現在この地を実質的に取り仕切っている代官代理だろう。絹の衣服からは、安っぽい香水の匂いが漂ってくる。
「長旅でお疲れのことと存じます。私はこの館で実務を取り仕切っております、ボルドーと申します。ささ、中へ」
揉み手をするボルドーを一瞥し、セレスティアンはその背後に並ぶ者たちへ視線を巡らせた。
誰もが、ボルドーの顔色を窺うような卑屈な笑みを浮かべている。その中で、列の端に立つ一人の女性だけが異質だった。
灰色の地味な文官服を着たその女性は、出迎えの列に並んではいるものの、セレスティアンを見るでもなく、ただ虚空を見つめている。
艶のある黒髪は後ろで無造作にまとめられ、色白の肌と切れ長な瞳は、本来であれば人を惹きつける美しさを持っているはずだ。しかし、彼女の全身からは「私はここにいません」と言わんばかりの無気力さが発せられていた。
セレスティアンの目が微かに細められる。
彼女は壁に寄りかかるようにして立っているが、その体幹の重心は全くブレていない。だらりと下げた両手も、よく見れば親指と人差し指の付け根に分厚いタコがある。長年、重い剣を振り続けてきた証だ。
ただの文官ではない。
「……おい。そこの彼女は?」
セレスティアンが低く通る声で問うと、ボルドーが慌てたように振り返った。
「はっ、彼女はカイラ。代官補佐を務めております。元々は王都で騎士をしていたとかで……どうにも無愛想で使い勝手が悪く、お見苦しいところを」
ボルドーが舌打ち混じりに言うと、カイラと呼ばれた女性はようやく視線をこちらに向けた。
「代官補佐の、カイラ・アシュフィールドです。……歓迎いたします、代官様」
抑揚のない、乾いた声だった。
儀礼的な一礼。王都から左遷されてきた自分に対し、何の期待も興味も抱いていないことがその目を見ればわかる。どうせこの男も、ボルドーと同じように私腹を肥やすか、辺境の現実に耐えきれずに逃げ出すのだろう。そう決めつけている視線だった。
「セレスティアンだ」
短く名乗り、彼はそれ以上何も言わずに館の中へと歩き出した。カイラの涼しげな瞳が、ほんの少しだけ怪訝そうに彼の背中を追ったのを感じたが、振り返ることはしない。
応接室に通されたセレスティアンは、革張りのソファに深く腰を下ろした。
対面に座ったボルドーが、部下に持ってこさせた数枚の書類をテーブルに並べる。その後ろには、やはり無表情のままカイラが控えていた。
「こちらが、当領地の昨年度の収支報告と、今年の税収見込みでございます。セレスティアン様は王都で要職に就かれていたと伺っておりますが、この辺境の細々とした数字など、わざわざご覧になるのも煩わしいかと」
ボルドーは口元を歪め、分厚い羊皮紙の束をセレスティアンの前に押しやった。
「細かいことはすべて私共にお任せください。代官様には、煩わしい政務など忘れて、ゆっくりとお寛ぎいただきたく」
セレスティアンはボルドーの顔を見ず、テーブルの上の書類に手を伸ばした。
紙の質がひどく悪い。文字の並びも不均一で、ところどころインクの滲みがある。
彼は無言のまま、数分かけて数枚の報告書をゆっくりとめくり、数字の列を追った。部屋の中には、羊皮紙が擦れる乾いた音だけが響く。
やがて、セレスティアンは手を止め、静かに顔を上げた。
「……ボルドー」
「はい、何なりと」
「少し、計算が合わないな。この数字はどういう基準で出している?」
ボルドーが怪訝そうに瞬きをする。
「は? 計算、ですか……?」
「ああ。過去3年間、不作が続いているという報告になっているな」
セレスティアンは書類の一箇所を指先でトントンと叩いた。
「だが、それに反比例して、肥料や農具の購入費として計上されている額が年々増加しているのはなぜだ?」
ボルドーの顔から愛想笑いが消えた。
「そ、それは……不作を補うために、より多くの肥料を……」
「粗悪な土壌に過剰な肥料を撒いても土が死ぬだけだ。しかも、街へ入る道中、畑の脇に放置されていた農具はどれも何年も手入れされていない酷い有様だった。新しく購入したはずの大量の農具はどこにある?」
「…………」
ボルドーの額にじわりと脂汗が浮かぶ。
セレスティアンは追及の手を緩めず、さらに数枚の書類をめくった。
「もう一つ。この税収見込みについて。過酷な環境による人口の減少率に対し、徴税の予定額が維持されている」
彼は手にした書類をテーブルに放り投げた。
「これは、残った領民に対する一人当たりの負担額を上げているという解釈で間違いないか?」
「いや、それはその……取りこぼしを防ぐための、厳格な……」
「死人から税は取れないぞ」
静かで、感情の読めない声だった。しかし、その声は応接室の温度を急激に下げるほどの凄みを含んでいた。
ボルドーの顔から完全に血の気が引く。王都から来た世間知らずの貴族が、報告書をめくっただけで次々と矛盾を突きつけてくるとは思ってもみなかったのだろう。
セレスティアンは僅かに目を伏せ、ソファの背もたれに寄りかかった。
「今日は長旅で疲れた。書類は預かっておく。続きは明日だ」
「は、はい! かしこまりました! 今夜は歓迎の宴を……」
「必要ない。食事は自室でとる。下がれ」
追い払うように手を振ると、ボルドーは逃げるように部屋から退出していった。
静かになった室内。セレスティアンが立ち上がると、扉の前に控えていたカイラと視線がぶつかった。
彼女の目は、先ほどの無気力なものから少しだけ変化している。微かな警戒と、底知れない相手を探るような光。
「……何か言いたいことがあるのか、代官補佐」
セレスティアンが問うと、カイラは背筋を伸ばし、涼やかな声で答えた。
「いえ。明日の執務開始時刻は、いかがいたしましょうか」
「午前8時だ。この部屋に、過去5年分の収支の記録をすべて揃えておけ。ボルドーを通す必要はない。君が直接用意しろ」
「……すべて、ですか。かなりの分量になりますが」
「構わない」
セレスティアンはカイラの横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。
「剣ダコがあるなら、重い書類の束も運べるな。頼んだぞ」
カイラが肩を強張らせる気配がしたが、セレスティアンは振り返らずにそのまま部屋を出た。
冷たい石造りの廊下を歩きながら、彼は自嘲気味に口元を歪める。
(……今日だけだ。今日だけ残業して、この領地の膿をすべて出し切る。明日から絶対に働かない)
前世からの悲願であるスローライフを守るため、彼は王都にいた時と同じような、血も涙もない冷徹な思考を本格的に再稼働させていた。




