第1話 不当解雇と左遷
王城の地下に設けられた特別執務室。窓一つないその部屋で、セレスティアン・フォン・ルシフェルは静かに万年筆を置いた。
時刻は午前3時。分厚い絨毯に吸い込まれる足音すらなく、壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、ひんやりとした空気を震わせる。
マホガニー材の広いデスクの上には、数時間前まで彼を圧殺しかけていた決裁書類の山があった。それらは今は完全に処理され、重要度と管轄部門ごとに整然と積まれている。
「……これで、今日の執務は完了か」
掠れた声で呟き、セレスティアンは目頭を強く押さえた。極度の眼精疲労で視界の端が明滅し、凝り固まった首を回すと骨がひどく軋む音がする。
前世の記憶――『黒川理人』としての記憶が蘇ってからというもの、彼は常に「過労」という見えない恐怖と戦ってきた。
倒産寸前の企業を次々と立て直す経営指南役として働き詰め、最後はオフィスのデスクで心臓が止まったあの生々しい感覚。ペンを握る指が唐突に硬直し、息ができなくなり、冷たい床に崩れ落ちた瞬間の絶望感は、今も悪夢となって彼を苛む。
今世では絶対に定時で帰る。週休3日で、休暇を完全に消化する。
そう固く誓ったはずだった。
だが、ルシフェル公爵家の次男として生まれ、エリシア王女の婿として王家に迎え入れられた彼は、致命的なまでに実務に長けすぎていた。
破綻寸前だった王国の財政状況。無駄だらけの公共事業。貴族たちの癒着による中抜き構造。前世の経営知識を持つ彼の目には、王国という巨大な組織が、放置すれば即座に崩壊を招く欠陥の塊に映る。
放っておけば、いずれ国は傾き、自分も巻き込まれる。自分が後で平穏に暮らすために、今のうちに構造的な無駄を省いておこう。そう言い聞かせて内政の立て直しに手を出したのが運の尽きだったと言える。
責任を負いたがらない官僚たちは喜んで彼に仕事を押し付け、結果として、セレスティアンは財務と内政の最終決裁のほとんどを一人で抱え込まされる羽目になっていた。
毎日2時間の仮眠。休日など3年間、一日たりともない。胃の底には常に重い鉛のような不快感が張り付き、全身の筋肉は悲鳴を上げ続けている。
翌朝。机に突っ伏して短い仮眠をとっただけのセレスティアンは、エリシア王女の私室へと呼び出された。
足元が微かに覚束ないのを強い気力で押さえ込み、廊下を進む。
重厚な扉の向こう、豪奢な調度品に囲まれた部屋の中央に、ベルベットのソファが鎮座している。甘い香水の匂いが、ひどく疲労した彼の神経を刺激した。
ソファにはエリシアが不機嫌そうに座り、彼女の隣には金髪で線の細い男爵令息、マリアンが控えている。さらに部屋の隅には、セレスティアンの実父であるルシフェル公爵の姿があった。
セレスティアンが足音を殺して進み、静かに一礼すると、エリシアは手元の扇を乱暴に弄りながら口を開いた。
「セレスティアン。単刀直入に言うわ。あなたとは離縁します」
室内の空気が張り詰める。だが、セレスティアンの表情は動かなかった。氷のように冷たい、切れ長で三白眼気味の瞳が、ただエリシアを見据える。
「……理由を、伺っても?」
声のトーンは一定だった。感情の起伏を押し殺し、事実関係を確認する業務連絡のような響き。それがエリシアの苛立ちをさらに煽ったらしい。彼女は立ち上がり、扇でセレスティアンを指差す。
「あなたのその、息が詰まるような理屈っぽさに耐えられないのよ! 何か言えば数字、数字、予算、効率! 私が新しいドレスを作ろうとした時も、すぐに帳簿を持ち出して文句を言ったわね」
「あれは承認できません。すでに今期の殿下の個人予算は上限を完全に超過していました」
「そういうところよ! 私が求めているのは、民を笑顔にする愛と情熱。あなたのような冷たい計算機じゃないわ」
エリシアは隣のマリアンの腕にすり寄った。
「マリアンは違うわ。彼はいつも私の心を癒し、国を明るくする素晴らしいアイデアを出してくれる」
「はい。エリシア様。愛と祈りがあれば、国は必ず豊かになるはずです。僕はそう信じています」
マリアンが甘い声で同調する。
セレスティアンはひび割れた唇を噛み締め、小さく息を吐き出した。
愛で飢えが凌げるなら、農業政策も治水工事もいらない。あの男の言うアイデアとやらは、資金繰りも人員配置も考慮されていない、実現不可能な絵空事にすぎない。
だが、それを口に出して反論することはしない。相手は最初から結論ありきで感情的に動いている。ここで論理をぶつけても、無益な摩擦を生むだけだ。
数秒の沈黙。こめかみの奥で脈打つ痛みをやり過ごし、セレスティアンは静かに頷いた。
「……承知いたしました。王家からの離縁、お受けします」
予想外にあっさりとした同意に、エリシアが僅かに目を丸くする。セレスティアンは構わず言葉を続けた。
「つきましては、東部治水事業など現在進行中の案件15件について、引き継ぎの時間をいただきたいのですが」
「引き継ぎなんていらないわ」
エリシアは吐き捨てるように言った。
「あなたが抱え込んでいた仕事なんて、他の者に任せればすぐに終わるでしょう。むしろ、あなたがいなくなった方が皆のびのびと働けるわ」
セレスティアンは軽く目を伏せる。
それらの事業に関わっている予算は、国家の年間税収の約半分に達する。どれも彼が独自の判断基準と緻密な計算で、ギリギリのバランスを取っている案件ばかりだ。情報を整理して他者に引き継ぐだけでも数ヶ月はかかる代物を「いらない」と言う。
「……そうですか。わかりました」
沈みゆく泥船の舵取りを、これ以上無報酬でやらされる義理はない。
エリシアは勝ち誇ったように顎を上げる。
「ええ。そして、あなたには王家の直轄地であるアビス領の代官を命じます。ただちに王都から去りなさい」
アビス領。王国の最北端に位置する辺境。土地は痩せ、魔獣が跋扈し、まともな産業もない。歴代の代官が次々と逃げ出し、あるいは過労で倒れたという、完全な左遷先だ。
王国の実務を掌握するセレスティアンは、無能な王族にとって目障りな存在になりすぎていたのだろう。厄介払いのための事実上の追放宣告。
そこで、部屋の隅にいたルシフェル公爵が一歩前に出た。
「エリシア殿下。愚息が長らくご不快な思いをさせたこと、ルシフェル家当主として深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる実父を見て、セレスティアンは瞬き一つしなかった。公爵は冷ややかな視線を息子へと向ける。
「セレスティアン。王家の御心を損ね、国益を停滞させる不心得者は我が一族に不要だ。本日をもって貴様を戸籍から除籍する。二度と当家の門を叩くことは許さぬ」
王家への忠誠を示し、巻き添えを食うのを防ぐためのトカゲの尻尾切り。その政治的判断は理解できるが、実の息子を切り捨てる言葉としてはあまりにも無機質だった。
「……承知いたしました。これまでのご厚情に感謝いたします。エリシア殿下、どうぞお健やかに」
美しい一礼。作法だけは完璧に取り繕い、セレスティアンは私室を後にする。
背後から、エリシアの嘲笑が聞こえたが、歩みは止めなかった。廊下に出た瞬間、膝から力が抜けそうになるのを壁に手をついて堪え、長く深い息を吐き出す。
数日後。
王都を出立する質素な馬車の中。
ガタガタと揺れる車内で、セレスティアンは一人、シートに深く身体を沈めた。
首元まで詰まった窮屈なフロックコートのボタンを外し、タイトに締められていたネクタイを乱暴に緩める。
「…………終わった」
低く乾いた声が、狭い空間に溶けていく。
王都の高い城壁が、車窓の後方へと遠ざかっていく。セレスティアンは目を閉じ、肺の底に溜まっていた澱んだ空気をすべて吐き出した。
引き継ぎなし、即時退去。
あの膨大な仕事量から解放される日が来るとは。
毎晩2時間の仮眠。休日など3年間、一日もなかった。無能な上層部の尻拭いと、破綻しかけた国家という組織の延命措置。
それが、今日終わったのだ。
「息が詰まる、か。……こっちの台詞だ」
冷徹な仮面の下で、セレスティアンの口角が自然と持ち上がる。
アビス領。何もない最果ての地。
それはつまり、王家からの干渉もなく、複雑な派閥争いもなく、何より国を動かすための膨大な決裁書類が存在しないということだ。
何もないなら、何もしなくていい。
彼は座席に深く寄りかかり、強張っていた全身の筋肉の力を抜いた。
今度こそ、絶対に働かない。週休3日、残業ゼロ。完全なるホワイト・スローライフを手に入れてやる。
馬車は寂れた街道を辺境へと向かって進んでいく。
セレスティアンは規則的な揺れに身を委ね、3年ぶりに泥のような深い眠りへと落ちていった。




