第20話 経済特区の設立
窓の外から聞こえる喧騒は、ほんの数日前とは明らかに性質が変わっていた。
クロエが仕掛けたVIP向けの『収穫祭』がもたらした熱気は、単なる一過性のイベントでは終わらなかった。最高品質のポーションという「圧倒的な独自商品」の存在と、それを求める富裕層の熱狂は、アビス領という土地そのものが持つ強烈な「引力」へと昇華されつつあった。
セレスティアンは執務机の上で、次々と運ばれてくる決裁書類に万年筆を走らせていた。
新設される居住区のための木材の買い付け、隣国からの石工ギルドの受け入れ申請、大規模な下水道整備の予算案。どれもこれも、これまでの辺境領では考えられなかった規模の数字が並んでいる。
足元では、すっかり毛艶の良くなった仔犬のポチが、丸められた不要な羊皮紙にじゃれつき、短い尻尾を忙しなく左右に振っている。時折「ぐるぅ」と喉を鳴らして書類の山に体当たりをしてくるが、セレスティアンは視線を落とすことなく、ブーツのつま先で器用にポチの腹を撫でてあしらっていた。
「……代官様。こちらが昨日付けで申請された、新規工房の建築許可願いです」
カイラが静かに差し出した束は、これまでの倍以上の厚みがあった。彼女の涼しげな瞳には、隠しきれない驚きが滲んでいる。
「王都周辺や、隣国であるゼノア公国からも移住の申請が相次いでいます。特に、王都の古いギルドで冷遇されていた中堅の職人たちや、独自の技術を持ちながらパトロンに恵まれなかった者たちが、こぞってこちらへ拠点を移そうとしているようです。彼らの技術力は確かなものですが、これほどの数が一気に動くとは」
「イレーネの抽出技術の噂と、ヴィオラが敷いた確固たる流通網。そしてクロエが作り出した『最先端の市場』という絶対的な付加価値。これだけ良質な餌を撒けば、鼻の利く商売人は勝手に集まってくる」
セレスティアンは書類の数字を素早く目で追いながら、次々と署名していく。
「カイラ、事前に協議していた『特区指定』の布告を出せ」
「関税の引き下げ、ですね」
「ああ。本日をもって、アビス領におけるすべての商業関税を、王都の基準の3割まで引き下げる。同時に、熟練の技術を持つ職人や、独自の製法を持つ商人には、移住費用と工房設立の初期投資を代官所の予算から無利子で融資しろ」
カイラは切れ長の目をわずかに見開いた。
「……関税の大幅な引き下げは、一時的に代官所の収入を激減させます。その上、無利子の融資まで一斉に行えば、財政への負担は計り知れません。王都が黙っていないのでは」
「王都の顔色など気にするな。税を高く設定して、狭い領地の中で小さな利益を奪い合っても未来はない。今は一時的に血を流してでも、外部から優秀な人材と資本を徹底的に吸い上げ、経済の規模そのものを拡大する時期だ。金は使わなければただの鉄と紙切れにすぎない」
彼は最後の一枚にサインを終え、ペンを置いた。
「目先の小銭を拾うな。5年後の巨富を築くための土台を作れ。資金のショートはさせない。ヴィオラのクレメント商会との専属取引で得た先月の利益を、全て融資の原資に回せ。それと、新しく来る職人たちのための仮設住宅の建設も急がせろ」
「……承知いたしました。ただちに手配します」
カイラは主の圧倒的な決断力と、冷徹なまでに計算されたロジックに深い一礼をし、執務室を後にした。
入れ替わるようにして、音もなく扉が開き、小柄な人影が滑り込んできた。
少年風のシックなサスペンダーパンツを身に纏った、14歳のソフィア・ランカスターだった。足音を一切立てないその歩き方は、裏街でスリや情報屋として生き抜いてきた彼女の染み付いた習性だ。
「報告」
ソフィアはセレスティアンの机の前に立つと、感情の読めない青緑色の瞳で彼を見上げた。
「王都の東部ルート、クレメント商会以外の3つの中堅商会が、こちらへの接触を図ろうとしてる。関税引き下げの噂をもう嗅ぎつけたみたい。それから、ゼノア公国の宝石細工師のギルド長が、偽名を使ってお忍びで街の宿屋に入った。護衛は3人。いずれも腕利き」
彼女の口から出る情報は、どれも代官所の正規のルートではまだ上がってきていない、裏のネットワークから吸い上げた生きたデータだった。一度見た顔や数字を絶対に忘れないソフィアの記憶力と情報処理能力は、セレスティアンの予測を遥かに超える速度で組織の「目」として機能し始めていた。
「ご苦労。正確な情報だ」
「当然。あたしが集めたんだから」
ソフィアはぽってりとした唇を少し尖らせ、ツンとした態度を取る。だが、その背筋が微かに伸びたのをセレスティアンは見逃さなかった。彼女は大人扱いされること、そして何より彼から評価されることに極度の渇望を抱いている。
「よくやっている。今日は午後から休め」
セレスティアンが告げると、ソフィアの顔に明らかな不満の色が浮かんだ。
「……子供扱いしないで。あたしは疲れてない。次の監視対象のリストの精査がまだ――」
「これは業務命令だ。労働者に適切な休息を取らせるのは、この領地の基本規則だ」
「あたしはあなたの直属の監査見習い。特別枠でしょ。他の文官たちと一緒にしないで」
一歩も引かず、食ってかかるソフィアに、セレスティアンは小さく息を吐いた。
彼女の忠誠心と労働意欲は有難いが、この年齢で過労の概念を植え付けるわけにはいかない。有能な人材を酷使して潰すのは、前世の自分が散々見てきた三流のブラック企業のやり方だ。
「ならば、俺の視察に同行しろ」
セレスティアンは立ち上がり、椅子の背にかけてあった外套を手に取った。
「視察?」
「街の現状をこの目で確認しておく必要がある。護衛兼、案内役としてついてこい。……ただし、その格好は目立ちすぎる。着替えてこい」
ソフィアの青緑色の瞳が、一瞬だけ微かに揺れた。
「……ただの視察なら、衛兵隊長を連れて行けばいいのに」
口ではそう言いながらも、彼女の足取りは部屋に入ってきた時よりも明らかに軽かった。
★★★★★★★★★★★
アビス領の目抜き通りは、数週間前とは全く別の顔を見せていた。
関税の大幅な引き下げと、手厚い融資制度の布告はまたたく間に周辺国へ広がり、先行して移住してきた職人たちの手によって、あちこちで新しい工房や店舗の建設が始まっている。
道行く人々の服装も多様化していた。領民の素朴な衣服に混じって、王都の流行を取り入れた商人や、異国の色鮮やかな布を纏った技術者たちが肩をぶつけ合うように歩いている。
多言語が飛び交い、鉄を打つ音、馬車の車輪の音、そして新しい建築資材の匂いや香辛料の香りが混ざり合い、街全体が一つの巨大な生き物のように強烈な活気を放っていた。
「……信じられない」
少し背伸びをしたタイトな黒のワンピースに着替え、セレスティアンの少し後ろを歩いていたソフィアが、ポツリと漏らした。
「ほんの数ヶ月前まで、ここは死んだような街だったのに。裏街の連中が、あんな真面目な顔で荷運びの仕事をしてるなんて」
彼女の視線の先では、かつてスラムでその日暮らしをしていた若者たちが、新しい工房の建設現場で汗を流し、休憩時間に配給のパンではなく、自分たちの金で買った肉串を美味そうに頬張っていた。
「雇用が生まれ、対価が確実に支払われるという信用があるからだ。人は、明日の飯が約束されていれば、今日を真面目に生きようとする」
セレスティアンは周囲の店舗の配置や、人の動線を観察しながら答えた。ミリタリーテイストの執務服を少し着崩した彼の姿は、街の喧騒の中でも異質なまでの威圧感と存在感を放っており、すれ違う商人たちが思わず道を譲る。
「でも、みんなどこか浮かれてる。こんな砂上の楼閣みたいな賑わい、いつ崩れるかわからないのに」
ソフィアは周囲の喧騒に対し、野良猫のような警戒心を解いていない。裏街で裏切りと搾取だけを見てきた彼女にとって、この急速な発展と人々の笑顔は、逆に不安を煽るものなのかもしれない。
セレスティアンは足を止め、通りに面した一つの屋台に目を向けた。
クロエが「歩きながら食べられる新しいスイーツ」として他国から職人を呼び寄せ、展開し始めたばかりの『クレープ』の屋台だった。薄く焼いた生地に、領地で採れた果実を煮詰めたジャムと、貴重な甘いクリームが巻かれている。屋台の前には若い女性や子供たちの長い列ができていた。
「おい」
セレスティアンが硬貨を投げて列に割り込むことなく二つのクレープを受け取ると、一つをソフィアに差し出した。
「え……」
「食ってみろ。市場調査だ」
ソフィアは戸惑ったように受け取った。
「あたし、甘いものなんて……子供じゃないんだから」
「いいから食え」
セレスティアンが自分の分を無造作に口に運ぶのを見て、ソフィアも恐る恐る生地の端をかじった。
その瞬間、彼女の青緑色の瞳が丸く見開かれた。
サクッとした生地の食感の直後、果実の濃厚な酸味と、それを包み込むようなクリームの暴力的な甘さが口いっぱいに広がる。裏街でカビたパンをかじっていた彼女の人生において、全く未知の味覚だった。
「……っ!」
ソフィアは言葉を失い、無意識のうちに二口目、三口目と貪るように食べ進めた。口元にクリームがついていることにも気づかず、夢中になって頬張るその姿は、背伸びをした黒のワンピースに反して、14歳の少女そのものだった。
セレスティアンは懐から清潔なハンカチを取り出すと、彼女の口元を無言で拭った。
「あ……」
ソフィアはビクッと肩を震わせ、顔を真っ赤にして後ずさった。
「じ、自分で拭けるわよ!」
「そうか。味はどうだ」
「……悪くないわ。原価の割に利益率は高そうだし、クロエのやりそうな派手な見掛け倒しね」
精一杯の強がりを言う彼女の耳まで赤くなっているのを見て、セレスティアンは内心で微かに口角を上げた。
★★★★★★★★★★★
広場から少し離れた、見晴らしの良い丘のベンチに二人は腰を下ろした。
眼下には、急速に拡大していくアビス領の全貌が見渡せた。立ち並ぶ建物の屋根の向こうには、新しく切り拓かれた街道を土煙を上げて進む商隊の姿が見える。
「街が、大きくなっていく……」
ソフィアはクレープの最後の一口を飲み込み、眼下の景色を見つめながら呟いた。
「ねえ、セレスティアン。あなたは、この街をどこまで大きくするつもりなの」
「王都を飲み込むまでだ」
淡々とした、しかし揺るぎない声だった。
「関税を引き下げ、技術者を集め、独自の経済圏を作る。王都の貴族たちが自分たちの権力に胡座をかいて既得権益を貪っている間に、物流と技術の根幹をこちらで完全に握る。彼らが気づいた時には、アビス領なしでは王国の経済が一日たりとも回らない状態にする」
ソフィアは彼の横顔を見つめ、ギュッと自分の膝の上で小さな拳を握り込んだ。
「……あたしを、拾ってくれてありがとう」
不意の言葉だった。
普段の皮肉屋な彼女からは想像もつかない、素直で、ひどく切実な響きを持っていた。
「あなたが来なければ、私はあの汚い路地裏で、誰にも知られずに死んでいた。この綺麗な街を見ることも、こんな美味しいものを食べることもなかった」
ソフィアは彼の方へ向き直り、青緑色の瞳で真っ直ぐに見上げた。そこには野良猫の警戒心はなく、ただ一人の人間に対する狂信的なまでの依存と忠誠があった。
「あたしは、あなたの目となり耳となる。王都の秘密も、裏社会の動きも、あなたが望むものは全て私が暴いてみせる。だから……」
彼女は少しだけ身を乗り出し、震える声で言った。
「絶対に、あたしを手放さないで」
自分が用済みになれば捨てられるのではないかという、裏街で生きてきた者特有の根深い恐怖。
セレスティアンは彼女の言葉を遮らずに聞き終えると、手を伸ばし、彼女の整った頭を無造作に撫でた。
「……っ」
ソフィアが小さく息を呑む。
「勘違いするな。俺はお前を哀れみで拾ったわけじゃない。お前の情報処理能力と、現場の実態を見抜く目が、俺の組織に必要だったから引き抜いた」
頭を撫でる彼の手つきは、仔犬のポチを撫でる時のように不器用だったが、そこには確かな温もりがあった。
「有能な部下を手放すような、無能な主はいない。お前は自分の価値を証明し続けろ。そうすれば、俺はそれに相応しい対価と居場所を払い続ける」
「……うん」
ソフィアは彼の大きな掌の感触に目を細め、喉の奥で小さく鳴くように答えた。
大人ぶる仮面が外れ、本来の年相応の表情を見せる彼女の頭から手を離し、セレスティアンは再び眼下の街へと視線を向けた。
眼下では、休むことなく荷馬車が新しい資材を運び込み、槌の音が遠くまで響いている。人が集まり、金が回り、街がうねりを上げて膨張していく。
冷たい風が吹き抜ける中、セレスティアンは遥か彼方にある王都の方向へと視線を向けた。その三白眼には、これから起こるであろう事態すらも計算に組み込んだ、静かで冷徹な光が宿っていた。




