第19話 ブランド戦略とCMO就任
執務室の床には、最高級の鹿革が転がっていた。
王都の熟練した革職人が手縫いで仕上げた球体。内部には適度な反発力を持つ羊毛が隙間なく詰められ、表面には微かな香料まで擦り込まれている。先日、ヴィオラが「王都の貴族たちが飼う愛玩動物に、今最も人気の品ですわ」と、わざわざクレメント商会の便に乗せて取り寄せた代物だ。原価だけでも銀貨数枚は下らないだろう。滑らかな革の質感といい、均等に揃った縫い目といい、工芸品としても一級品であることは間違いない。
しかし、その持ち主であるはずのポチは、高級品には一切見向きもしていなかった。
ポチが今、短い尻尾を激しく左右に振り立てながら夢中になって格闘しているのは、そのボールが梱包されていた「ただの粗末な麻袋」だった。
「ヒャウッ、ぐぅぅ……っ」
短い牙で麻布の荒い繊維に食らいつき、前足で器用に押さえ込みながら首を激しく振っている。時折、袋の中に頭を突っ込みすぎて視界を奪われ、そのままゴロゴロと分厚い絨毯の上を転がり回っていた。
机に向かっていたセレスティアンは、決裁書類から視線を外し、その光景を無言で見下ろした。
犬にとっては、王都の流行りや投下された資本など関係ない。爪を立てたときの引っかかり具合や、噛みしめる際の適度な抵抗感、あるいは布地に微かに残る土と埃の匂いこそが、最高のおもちゃの条件なのだろう。ただそれだけの、極めて単純な事実だ。
セレスティアンは革のボールを拾い上げて無理に遊ばせるような野暮な真似はせず、足元にすり寄ってきた麻袋まみれの毛玉の背中を、ブーツのつま先で軽く撫でた。
ポチは満足げに鼻を鳴らし、彼の足の甲を枕にして丸くなる。重い書類仕事の合間に訪れる、静かで穏やかな時間だった。
数日前に開催された、アビス領で初めての『収穫祭』。
それは、セレスティアンの予想を大きく上回る熱狂の渦の中で幕を閉じた。
代官所が推進したインセンティブ制度により、領民たちの懐は潤い、消費への意欲はかつてないほど高まっていた。そこへ、他領の珍しい食材や酒がクレメント商会の物流網に乗って大量に流れ込んだのだ。
広場には数十の天幕が立ち並び、串焼きから滴る脂の匂いと、エールを注ぐ木のジョッキがぶつかり合う音が夜遅くまで響き渡った。子供たちは鮮やかな色に染められた飴を握りしめて走り回り、大人たちは懐の硬貨を惜しげもなく使って冬支度のための布や塩漬け肉を買い込んだ。
領民たちの顔には、赴任当時に見たような飢えと諦観の影は欠片もない。誰もが明日の生活を信じ、自ら稼いだ金を使う喜びを噛み締めていた。
だが、今回の祭りの真の目的は、領民の慰労だけではない。
コンコン、と控えめだが芯のあるノックの音が響き、重い木扉が開かれた。
「おはようございます、代官様。収穫祭の最終的な売上と、来場した顧客データの集計が完了いたしましたわ」
入ってきたのは、クロエ・ヴァレンタイン。
少しラフな白のシャツに、タイトなサスペンダースカートという出で立ち。辺境の空気に溶け込むような親しみやすさを残しつつも、彼女の豊満なプロポーションと計算された着こなしは、嫌味のない色気を放っている。
王都のトップ女優にして、先日自らを「売り込み」に来た女。王都のトップ女優にして、先日自らを「売り込み」に来た女。彼女の顔には王都のパトロンたちに向けるような媚びた愛嬌はない。あるのは、己の仕事の成果に対する絶対的な自信と、それを吟味する冷徹なプロデューサーとしての鋭い眼差しだった。
彼女が机の上に滑らせた分厚い報告書を一瞥し、セレスティアンの三白眼がわずかに細められた。
「想定の1.5倍。全体の売上もさることながら、特に高価格帯の商品群の消化率が異常だな」
「ええ。ヴィオラ様の商会が持つ流通網をお借りして、周辺国の富裕層や新興貴族に『秘密の招待状』を撒いた結果ですわ」
クロエは涼しい顔で言い、机の上にコトリと小さなガラス瓶を置いた。
イレーネが開発した、高純度ポーションだ。だが、以前のような無骨な試験管の見た目ではない。滑らかな曲線を描く特注の青い小瓶に入れられ、アビス領の紋章が精巧に刻まれたシックな封蝋が施されている。首の部分には、細いベルベットの紐が結ばれていた。
それだけで、中身は同じでもまるで王族への献上品のような高級感が漂っている。
「どんなに中身が優れていても、『辺境で作られた泥臭い薬』というパッケージのままでは、王都の貴族や周辺国のセレブは金貨を出しません。だから、彼らが買いたくなる『物語』を作りました」
「物語、だと?」
「『極限の寒冷地でしか育たない希少な魔草から、失われた古代技術で抽出された奇跡の一滴』。そして、『生産数が極めて限られているため、今回招待された特別な方々にしかお譲りできない品』……という文脈です」
「……誇大広告の境界線だな」
「嘘は一言も言ってませんわ。イレーネ様の技術は過剰なほどの異常な水準の変態レベルですし、生産量が限られているのも事実ですもの」
クロエは猫目がちな大きな瞳を細め、唇の端を吊り上げた。
「彼らは『怪我を治すための効能』だけを買っているわけじゃありません。求めているのは、『王都の流行遅れな貴族たちはまだ知らない、最先端の希少品をいち早く手に入れられる自分』という優越感。私はその虚栄心に、美しい外箱を被せた」
セレスティアンは報告書の数字を指先で叩いた。
「広場のレイアウト。あれもお前の指示か」
「はい。入り口付近に串焼きや新商品のおにぎりなど、安価で匂いの強い屋台を意図的に集中させました。そこで領民たちの圧倒的な『熱気』を作り出すんです。そして、その喧騒から離れた奥まった静かな場所に、豪奢な特別客用の天幕を設けました」
「大衆の熱気を餌にして、富裕層の財布を開かせるわけか。外の賑わいと活気を一種の『演目』として見下ろさせながら、自分たちだけが隔離された安全な場所で特別扱いされているという優越感を煽る。見事な空間設計だ」
「ご名答。彼らは外の熱狂をスパイスにして、喜んで高額なポーションや特産品を買い占めていきましたわ。価格の交渉すらしてこないほどにね」
クロエの言葉には、人間の心理と欲望を知り尽くした者特有の重みがあった。
セレスティアンは万年筆を置き、腕を組んでクロエを正面から見据えた。
「採用試験は合格だ。お前のプロデュース能力は、俺の想定を上回っていた。単なる舞台女優ではない。盤面全体を俯瞰し、人間の欲望を計算し、数字に変える力がある」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
クロエは恭しく、しかし堂々とした態度で一礼した。
「クロエ・ヴァレンタイン。本日付で、お前をこのアビス領の宣伝戦略の最高責任者に任命する。同時に、領の特産品を対外的に発信する公式の特産品を外へ広める領地の顔の役割も担ってもらう」
「……ええ。謹んでお受けします」
彼女は顔を上げ、挑戦的な笑みを浮かべた。
「ただ売るのではない。価値を支配しろ。価格決定権を常にこちらが握り続けるためのブランドを創り上げるんだ」
「わかっているわ。これからは、このアビス領全体が私の新しい『舞台』よ。どんな地味な特産品でも、私にかかれば世界中が誰もが欲しがる最高級品に育て上げてみせる。ヴィオラの流通網と私の演出があれば、周辺国の経済圏を塗り替えることだって不可能じゃないわ」
「期待している」
「ええ。最高の熱狂を約束するわ」
実務家同士の短い、しかし確かな誓約。
クロエはそれ以上余計な言葉は交わさず、手短に次回のプロモーション会議の予定を確認すると、優雅な足取りで執務室を後にした。
静けさが戻った執務室で、セレスティアンは再び書類に視線を落とした。
「……ぐふぅっ」
足元から、くぐもった声が聞こえた。
見れば、ポチが麻袋の奥深くに顔を突っ込んだまま抜けなくなり、短い脚をジタバタとさせて後ずさりしている。
セレスティアンは小さく息を吐き、机の下に手を伸ばして、不格好な毛玉を麻袋の呪縛から救出してやった。




