第18話 トップインフルエンサーの来訪
王都から馬車に揺られること十数日。
かつては「死の街」と蔑まれていたアビス領の領都は、冬の冷たい空気を弾き飛ばすほどの凄まじい熱気に包まれていた。
目抜き通りには真新しい天幕がどこまでも連なり、クレメント商会の流通網がもたらした他領の珍しい香辛料や、港町から氷結魔法で運ばれてきたばかりの海産物が所狭しと並んでいる。それらを目当てに集まった人々の声が重なり合い、活気ある喧騒が石畳を揺らしていた。行き交う領民たちの足取りは力強く、その頬は十分な栄養と希望によって赤く染まっている。
そのひしめき合う人波の中を、目深にフードを被った小柄な人影が滑るように歩いていた。
身にまとっているのは粗末な灰色の外套だが、その下にある豊かで女性らしいグラマラスな曲線までは隠しきれていない。彼女は周囲の視線を警戒するそぶりを見せながらも、フードの奥の大きな猫目だけは、舞台を検分する演出家のように鋭く街の様子を観察していた。
王都でその名を知らぬ者はいないトップ舞台女優にして歌姫、クロエ・ヴァレンタイン。
彼女は現在、完全なお忍びでこの辺境の地を踏んでいた。
(……おかしいわね。本当に、ここがあの最果ての地獄のような搾取領地?)
クロエは道の端に立ち止まり、屋台で熱々の串焼きを売る男と、それを買い求める衛兵のやり取りを見つめた。
衛兵の制服は仕立てが良く、王都の末端兵士によく見られるような疲労困憊した様子や、特権を笠に着た横柄な態度は一切ない。彼は硬貨をきっちりと支払い、笑顔で店主と冗談を交わしている。
さらにクロエの目を引いたのは、荷運びの労働者たちの動きだった。一定の時刻になると、銅鑼の音が小さく鳴る。すると、重い木箱を運んでいた者たちが未練なく荷を下ろし、待機していた別の者たちと速やかに交代して、日だまりのベンチで休憩を始めたのだ。
「ねえ、おじさん。あっちの荷運びの人たち、まだお昼前なのにもう休んでるの?」
クロエは外套の襟を合わせながら、串焼き屋の店主に尋ねた。
「ああ、お嬢ちゃんはよそから来たんだな。あれは代官様の決まりさ。時間になったらきっちり休む。その方が結局、午後の仕事も早くなるんだと。それに、頑張って規定より多く運んだ分は、後でしっかり色をつけてくれるからな。皆、休む時はしっかり休んで、働く時は目の色変えて働くのさ」
店主は誇らしげに胸を張って答えた。
クロエは小さく息を呑む。
王都の劇場では考えられない光景だった。あそこでは、役者も裏方も倒れるまで使い潰されるのが常識だ。睡眠時間を削って舞台を設営し、足の骨が軋んでも客のために笑顔で踊り続ける。結果としてパフォーマンスの質は落ち、客離れを防ぐためにさらに過激で無理な演出を強いられるという地獄のような悪循環に陥っている。
しかし、この街はどうだ。
すれ違う人々の足音の均等なリズム、声の張り、瞳に宿る生気。すべてが、彼らが心身ともに最高の状態に保たれていることを証明している。誰一人として「搾取されている」という暗い顔をしていない。まるで街全体がひとつの完璧な舞台であり、領民という役者たちが自発的に最高の演技を披露しているかのようだった。
(噂以上ね……セレスティアン・フォン・ルシフェル。王都じゃ無能扱いされて追い出された男が、こんなものを創り上げているなんて)
クロエは唇の端を吊り上げると、迷うことなく代官所へ向かって歩き出した。
代官所の執務室。
分厚いガラス窓から差し込む冬の柔らかな日差しが、床の絨毯に四角い光を落としている。
その室内には、ペンの走る乾いた音と、微かな獣の吐息だけが響いていた。
セレスティアンは広い執務机に向かい、山のように積まれた書類を冷徹な機械のような正確さで次々と処理している。
その足元では、黒と茶色の毛玉――仔犬のポチが、彼が丸めて捨てた失敗書類の切れ端に夢中になっていた。しかし、やがてそれに飽きたのか、短い脚で机の横にトコトコと移動する。そして、主の手に握られた万年筆が動くたびにカリカリと鳴る音に惹かれたらしく、机の脚に短い前足をかけ、必死に背伸びをして卓上を覗き込もうとしていた。
「くぅん」
鼻を鳴らしながら、プルプルと後ろ脚を震わせているポチ。
セレスティアンは書類から一切視線を外さず、空いている左手の人差し指をそっと伸ばし、机の縁からわずかに覗いたポチの湿った鼻先を軽く押し返した。
「……邪魔だ」
低く冷たい声。しかし、その指先は押し返した後、極めて自然な動作でポチの耳の裏の柔らかい毛並みを数回撫でた。ポチは喉の奥で満足げな音を鳴らし、再び床に伏せて大人しくなる。
ノックの音が響き、代官補佐のカイラが入室してきた。
「代官様。王都から来訪者です。身分を隠しておられますが、クレメント商会のヴィオラ殿からの紹介状を持っています」
「通せ」
短く答えたセレスティアンの前に、フードを脱いだクロエが進み出た。
艶やかな髪が揺れ、誰もが目を奪われるキュートな顔立ちが現れる。彼女は少し猫目がちな瞳を潤ませ、イタズラっぽく、しかし庇護欲を激しく掻き立てる完璧な角度で首を傾げた。
「はじめまして、代官様。王都から参りました、クロエ・ヴァレンタインと申します。この素晴らしい領地に、私の歌と踊りで少しでも華を添えられればと思い、不躾ながら足を運ばせていただきました」
声のトーン、言葉の間、わずかに上目遣いになる視線。そして、ふわりと香る甘い香水の計算された拡散。
王都の貴族たちを一瞬で虜にし、劇場のパトロンたちから莫大な資金を引き出してきた、彼女の最大の武器である「完璧な愛嬌」だった。
しかし、セレスティアンはペンを置き、無表情な三白眼で彼女を真っ直ぐに見据えた。
「……その小芝居は終わりか」
「えっ?」
「筋肉の動かし方から声の周波数、呼吸のタイミングまで、見事なまでに計算されている。大衆が最も心地よく感じる黄金比を、意図的に出力している技術は評価に値する。だが、ビジネスの場において虚飾は判断を鈍らせるノイズでしかない。本題に入れ」
冷徹な事実だけを指摘する声に、クロエの笑顔がピタリと止まった。傍らに控えるカイラも、相手が何者であろうと一切容赦しない主君の態度に、わずかに目を細めて警戒を強める。
数秒の沈黙の後。
クロエは「あーあ」と小さく息を吐き、ピンと張っていた姿勢を崩した。甘ったるい声色は完全に消え失せ、そこにあるのは冷徹に盤面を見つめるプロフェッショナルの顔だった。
「王都の貴族なら、今の挨拶だけで白紙の小切手を出してきたのに。あなた、本当に面白くない男ね」
「時間の無駄を嫌うだけだ。王都のトップ女優が、なぜ辺境に来た」
「売り込みよ。私を、あなたの陣営に雇いなさい」
クロエは一歩前に出て、セレスティアンの机に両手をついた。
「この領地は、まるでひとつの見事な舞台だわ。皆が自分の役割に熱狂し、最高のパフォーマンスを出している。でも、それを外の世界の『観客』に届ける術がない。どんなに素晴らしい演目も、劇場に足を運ばせる人間がいなければ誰も見ないわ。大衆の欲望を計算し、視線を誘導し、価値を錯覚させる。その『熱狂の空気』を創り出すことにおいて、私の右に出る者はいない」
彼女の言葉には、確固たる自信が満ちていた。
王都の劇場で、宣伝から舞台装置、観客の動員計画に至るまで、裏で全てを計算し尽くしてきたのは彼女自身だったのだ。
「王都の劇場は腐りきっているのよ。役者を使い捨てて、手柄は豚みたいなパトロンが奪っていく。あんな環境じゃ、最高のエンターテインメントは創れない。でも、ここなら……私の演出の手腕を最大限に活かせると思ったのよ」
セレスティアンは彼女の言葉を遮らずに聞き終え、静かに頷いた。
「大衆心理を読み、扇動する術の重要性を理解し、ただの女優ではないことはわかった」
セレスティアンは引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、クロエの前に置いた。
「だが、採用試験は必要だ。2週間後、この領地で初めての『収穫祭』を行う。領内で獲れた農作物、ヴィオラが持ち込んだ海産物、そしてイレーネの工房で量産体制に入ったポーションの新しい販路を開拓するための大規模なイベントだ。王都周辺の行商人たちも呼び込む」
彼は冷徹な瞳でクロエを見据えた。
「この祭りの宣伝と集客を全てお前に一任する。領民の士気を限界まで引き上げ、外から来る商人たちにアビス領の活力を脳裏に焼き付けろ。限られた予算に対し、最低でも投じた予算の3倍の利益を叩き出してみせろ。結果を出せば、俺の陣営の『宣伝・広告の最高責任者』として、王都の劇場など比較にならない裁量と報酬を与えよう」
圧倒的なプレッシャー。失敗すれば取り返しがつかない重圧だった。
しかし、クロエの瞳にはギラギラとした熱が灯っていた。
「3倍? 馬鹿にしないで。5倍の利益を出して、あなたに土下座で契約書にサインさせてあげるわ」
「期待している」
その緊迫した応酬の最中。
机の脚元で大人しくしていたポチが、クロエの身を乗り出した拍子に垂れ下がった外套の紐に興味を引かれたらしい。短い脚で力強く床を蹴り、紐の先端を目掛けて「ひゃふんっ!」と元気よく飛びかかった。
「きゃっ!?」
不意の動きにクロエが肩をすくめた瞬間、セレスティアンの大きな手が極めて滑らかな動作で空中の毛玉をキャッチした。
そのままポチを自身の膝の上に乗せると、セレスティアンは視線をクロエに向けたまま、不満げにキュウキュウと鳴く仔犬の顎の下を、完璧な力加減で優しく撫でる。ポチはすぐに抵抗をやめ、大きな手にすりすりと顔を擦り付けてうっとりとした表情を浮かべた。
一切の隙がない冷徹なコンサルタントの顔と、膝の上の仔犬を甘やかすその姿。
クロエは呆気に取られながらも、胸の奥でかつて感じたことのない激しい高鳴りを覚えた。
(計算し尽くされた私の愛嬌はノイズだと切り捨てたのに、あの犬の無防備な愛嬌には無意識に応えるわけ?)
理不尽なほどの敗北感と、だからこそ絶対に自分の実力を認めさせてやるというプロとしての闘争心。王都のトップインフルエンサーは、己の中に湧き上がるかつてないほどの熱を自覚し、その美しい唇を不敵に吊り上げた。




