第17話 カイラとヴィオラの静かなるマウント戦
アビス領代官所の厨房は、夜明け前の静寂と冷たい空気に包まれていた。
セレスティアンはダークトーンの執務服の上着を椅子に掛け、シャツの袖を肘まで丁寧にまくり上げている。彼の視線は、目の前の分厚い木製の調理台に並べられた食材へと静かに注がれていた。
クレメント商会との専属ビジネスパートナー契約が締結されてから数週間。物流網が劇的に改善された恩恵は、早くも代官所の台所に現れていた。王都周辺の限られた市場でしか流通していなかった希少な香辛料や、近隣の港町で水揚げされたばかりの海産物が、氷結魔法を付与された特殊な木箱で鮮度を保ったまま辺境まで届くようになったのだ。それは、この貧しい領地が確実に外の巨大な経済圏と繋がり始めた確かな証拠でもあった。
彼の手元にあるのは、その第1陣として届いた真鱈の卵巣――タラコだった。
セレスティアンは金網を火にかけ、火力を極限まで絞る。網が十分に熱されたことを手のひらをかざして確認すると、薄皮を絶対に破らないように慎重な手つきでタラコを乗せた。
チリチリという微かな音とともに、表面が白く縮み、海産物特有の香ばしい匂いが立ち上る。彼は菜箸の先で絶妙なタイミングを見計らって裏返し、表面にはしっかりと焼き目をつけながらも、中心部分は生に近いレアの状態を保つように素早く火から下ろした。
隣のまな板では、領内の農家が古い樽の底で数年かけて熟成させた、酸味の強いプラムの塩漬けを処理する。種を抜き、包丁で果肉を細かく叩く。トントンというリズミカルな音が厨房に響く。粘り気が出た果肉に、小魚を極限まで乾燥・燻製にして削った粉末と、小魚を発酵させて作った琥珀色の魚醤を1滴だけ垂らして混ぜ合わせる。強すぎる酸味の角が取れ、えも言われぬ重層的な旨味へと変化した。
同時に、コンロの端で火にかけていた深い鉄鍋から、穀物の炊き上がる甘く芳醇な匂いが吹き出してきた。
分厚い木の蓋を開けると、もうもうと立ち上る白い湯気の向こうに、艶やかに光る大粒の丸麦と燕麦が立っている。セレスティアンは水で湿らせた木桶に炊き上がったばかりの麦を移し、しゃもじで切るように混ぜ合わせて余分な水分を飛ばした。
両手を冷水で濡らし、適量の粗塩を手のひら全体に薄く馴染ませる。火傷しそうなほど熱い麦をすくい取り、中央に先ほど仕込んだ焼きタラコとプラムの果肉を沈める。
両手を合わせ、手首のスナップを利かせる。前世でブラック企業の立て直しに奔走していた頃、深夜の暗い部屋で何度も繰り返した、過労で焼き切れた思考をリセットするための自炊のルーティン。麦の粒を絶対に潰さず、中に適度な空気を含ませながら、しかし外側は崩れないよう確実に3回で三角形に結ぶ。仕上げに、塩漬けにして軽く炙った食用海藻の葉を巻きつけると、麦の熱で葉が僅かに縮み、完全な一体感が生まれた。
「きゅぅん……」
足元に纏わりつき、仔犬のポチが鼻をヒクヒクとさせて見上げている。前足で彼のブーツの革をカリカリと引っ掻き、琥珀色の丸い瞳で必死に訴えかけながら、短い尻尾を千切れそうなほど高速でに振っている。
「……これはお前のじゃない。塩分が強すぎる」
セレスティアンは淡々と告げ、ポチ用にあらかじめ用意しておいた、味付けをしていない茹でた鶏肉を小皿に入れて床に置いた。ポチが勢いよく食らいつくのを横目に、彼は皿に乗せた数個の「結び飯」を木盆に乗せ、厨房を後にした。
同じ頃、代官所の応接室では、ひんやりとした朝の空気とは異なる、静かで重い緊張感が漂っていた。
向かい合って座っているのは、代官補佐のカイラと、クレメント商会会頭のヴィオラだ。
カイラは無駄のない細身のパンツスタイルという機能的な執務服姿。一切の装飾を排したその出で立ちは、彼女の洗練された生真面目さを引き立てている。対するヴィオラは、朝から隙のない完璧なメイクと、ボディラインを強調した真紅のドレスを纏っている。彼女が少し動くたびに、上質な香水の匂いが応接室の空気を塗り替え、圧倒的な存在感を放つ。
卓上には、ヴィオラが持参した流通経路の再編案に関する分厚い書類が積まれていた。
「代官様は、随分と厨房がお好きなのね。まさか、組織のトップ自らが我々の朝食を作ってくださるとは」
ヴィオラは美しい茶器を傾けながら、ふんわりとした笑みを浮かべた。
「代官様は、思考を整理する際に料理をされることが多いのです。お気になさらず」
カイラは手元の書類から目を離さずに、平坦な声で返した。
「……それに、この領地の内政において、食事の質の向上は極めて重要なファクターでした。領民の労働意欲と健康状態は、直接的に生産性に直結します。彼の作られるものは、常に領地の現状と理にかなっています」
言葉の端々に、「私の方が彼の日常と意図を深く理解している」という自負が滲む。カイラにとって、赴任直後の餓死者が出かねないどん底の時代から、セレスティアンの側で苦楽を共にし、領地を立て直してきたという誇りは揺るぎないものだった。
ヴィオラはカップを置き、ゆっくりと足を組み替えた。ドレスの裾から覗く白い脚が艶めかしい。
「そう。でも、彼が求めているのは辺境の小さな内政の安定だけじゃないわ。外貨を稼ぎ、この領地を誰も手出しできないほど盤石なものにする。そのためには、私の商会がもたらす『外の血』が不可欠よ。……カイラ殿はずっとこの泥臭い領地で彼をお支えになってきたのでしょうけど、これからは私がお力添えする場面も増えそうですわね」
「クレメント商会の強大な流通網には大いに期待しています。ですが」
カイラは書類を置き、真っ直ぐにヴィオラの目を見据えた。
「実務を統括し、代官様の決定を現場の隅々にまで落とし込むのは私の役目です。王都の華やかな理屈だけで、領地の現場を急激にかき回されては困る。彼の計画に遅れを生じさせるような無用な混乱は、私がすべて排除します」
「混乱だなんて、心外ですわ」
ヴィオラは口元を扇で隠し、妖艶に笑う。
「私は商人ですもの。彼の非凡な才能を一番高く売れる市場を、外の世界に用意するだけ。……あなたのような生真面目で堅実な文官では見えない壮大な景色を、私が彼にお見せするわ」
静かな、しかし1歩も引かない鍔迫り合い。
組織の内部を徹底的に最適化し、安定稼働を守る女騎士上がりの実務家。
外部市場を開拓し、手段を選ばず利益の最大化を狙う若き女会頭。
有能な2人の女性が、1人の男の隣に立つ資格を巡り、それぞれの役割と誇りを盾にして火花を散らしている。
そこへ、ドアが開く音が響き、セレスティアンが入室してきた。
「待たせたな」
盆の上に乗せられた丸みを帯びた三角形の物体を見て、2人の会話がピタリと止まる。
「代官様、これは……?」
「結び飯だ。仕事の合間に片手で栄養を摂取できる。箸やカトラリーを用意する時間すら惜しい時に最適だ」
セレスティアンは盆をテーブルの中央に置き、自分も向かいのソファに腰を下ろした。
ヴィオラは興味深そうに身を乗り出す。
「美しい形ですわね。それに、この黒い紙のようなものは……乾燥させた海藻?」
「ああ。冷める前に食え。数字の話はその後だ」
セレスティアンが1つ手に取って齧り付くのを見て、カイラとヴィオラもそれぞれ手に取った。
ヴィオラが1口かじる。
パリッという心地よい音とともに海藻の葉が噛み切れ、ふんわりと結ばれた丸麦と燕麦が口の中でほどける。同時に、強烈な旨味が爆発した。
「……っ!」
ヴィオラは絶句した。
ただの塩味ではない。香ばしく炙られたタラコの粒がレアな食感とともに弾け、そこに熟成プラムの洗練された酸味と燻製粉末の風味が合流する。異なる食材の旨味が、麦という完璧な土台の上で緻密に計算されたように調和している。
「これ、信じられないわ……。ただの麦と塩、それにわずかな具材なのに、口の中で全てがほどけていく。この香ばしい卵は、昨日うちの商会が届けた真鱈のものね?」
「そうだ。少し炙ってある」
「素晴らしいわ! これ、いけますわよセレスティアン。うちの商会で、街道沿いの宿場町で新商品として売り出しましょう。片手で食べられるなら、旅の商人や傭兵にも需要がある。専用の箱を作って――」
「却下だ」
セレスティアンが即答するより早く、カイラが静かに口を挟んだ。
「ヴィオラ殿。この食べ物は、握ってから時間が経つと麦が硬くなり、海藻の風味も落ちます。手で直接握ってまとめる以上、外に持ち出せば傷むのも早い。ましてや不特定多数の客に売るとなれば、衛生状態の維持だけで現場の負担は計り知れません。食中毒でも出せば、代官所の信用問題にも発展しかねない。代官様が『今すぐ』私たちが腹に入れるために作ったからこそ成立するものです」
ヴィオラの眉がピクリと動いた。
「……あら。保存の魔法を付与した容器と組み合わせれば、高級な携行食として貴族向けに販売できるのではないかしら? 利益率は十分に確保できますわよ」
「利益率と魔石の費用が合いません。イレーネの技術開発部門の人手と時間を、一部の富裕層向けの嗜好品の容器開発に割く余裕は今の代官所にはない。それに、この鮮度と品質を大量生産で維持するための人員確保と教え込むための労力と費用まで計算に入れていますか?」
カイラは淡々と、しかし実務を預かる者としての確固たる観点からヴィオラの提案を退けた。
セレスティアンは無言で頷き、2口目を食べる。
ヴィオラは小さく息を吐き、扇をゆっくりと下ろした。
「……なるほど、現場の統括責任者としては商品化の壁は高いというわけね。でもね、カイラ殿。新しい価値を外の市場へどう繋げるかを考えるのが商人の仕事であり、私の役目ですわ。リスクを恐れて現場の都合ばかりを優先していては、彼が描く巨大な利益は生み出せませんのよ」
「現場が崩壊すれば、利益そのものが絵に描いた餅になります。私は代官様の足元を強固に固める。ヴィオラ殿は、そこから先の外の道を整備すればいい。……互いの領域を侵さないことです」
カイラとヴィオラの視線が空中で激突する。
見ている方向が違うからこそ生じる、1歩も譲らない対立。しかしそれは、互いに組織の利益を第一に考えているからこその衝突だった。
「……美味いか」
セレスティアンがぽつりと呟いた。
言い争っていた2人が、弾かれたように彼を見る。
「はい。いつ頂いても、代官様の料理は完璧です」
「ええ。こんなに美味しい朝食は初めてですわ」
セレスティアンは最後の1口を飲み込み、茶で喉を潤した。
「ならばいい。……これ以上冷める前に食え。食い終わったら、流通再編案の数字を詰める」
冷徹な声で告げると、2人は小さく頷き、再び結び飯に手を伸ばした。
セレスティアンは空になった皿を見つめながら、静かに次の盤面への思考を巡らせ始めた。




