第14話 悪徳商会とのB2B交渉
アビス領代官所の厨房には、普段の執務室に漂う古い羊皮紙やインク、埃の匂いとは全く異なる、暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満していた。
セレスティアンは上着を脱ぎ、シャツの袖を肘まで無造作にまくり上げている。彼の冷徹な三白眼は手元の大きなボウルに注がれ、その手つきには書類の決裁を行う時と同様、一切の無駄がなかった。
挽肉の脂が手の体温で溶け出さないよう、氷水を入れた別のボウルで底を冷やしながら、手先だけで素早く、かつ力強く練り上げていく。適度な岩塩を振って強い粘りを出した肉種に、あらかじめ飴色になるまで炒めて粗熱を取っておいた玉ねぎ、硬くなった黒パンを細かく削ったパン粉、そして卵を割り入れる。それらを均一に混ぜ合わせると、彼は手のひらに少量の油を馴染ませた。
パンッ、パンッ、パンッ。
両手を行き来させるようにして肉種を打ちつけ、内部の空気を徹底的に抜いていく。この工程をわずかでも怠れば、焼成時に中の空気が膨張して肉が割れ、最大の旨味である肉汁が外へ逃げ出してしまう。前世の激務の中で、深夜の自炊だけが唯一の思考リセットの場だった彼にとって、この物理的な作業は染み付いた儀式のようなものだった。
美しい楕円形に整えられた肉種を、熱した厚手の鉄フライパンに落とす。ジューッという激しい音とともに、表面の脂が焦げる香ばしい匂いが弾け飛んだ。
「……代官様。なぜ、ご自身でここまで手の込んだ調理を?」
厨房の入り口で呆然と立ち尽くしていた代官補佐のカイラが、絞り出すように言った。その隣では、裏街から引き抜いた14歳のインターン、ソフィアがフライパンを食い入るように見つめ、思わずごくりと喉を鳴らしている。足元では、仔犬のポチが千切れそうなほど高速で短い尻尾を振りながら、鼻をひくつかせて前足で床を掻いていた。
「書類の数字ばかり追っていると、思考が鈍る」
セレスティアンはフライパンの火加減を調整し、肉の表面を焼き固めながら淡々と答えた。
「物理的な作業で手を動かし、異なる結果を生み出すのは、頭の切り替えにちょうどいい。それに、今日は午後から厄介な客が来る。腹に重いものを入れておかないと、途中で息切れする」
彼は隣のコンロに視線を移す。そこでは、昨夜の夕食で出た塩漬け肉の端材から取った透き通ったブイヨンが、小鍋で静かに沸いていた。
そこに、森で採集された野生のキノコと、細かく刻んだ香草を落とす。キノコから滲み出る深い琥珀色の出汁がブイヨンに溶け込み、香草の爽やかな香りと相まって極上のスープへと姿を変えていく。
横の調理台には、冷水に放ってシャキッとさせた葉野菜と、硬めに塩茹でしたブロッコリがザルに上げられている。湯剥きしてつるりとした真っ赤なトマトを切り分け、手早く皿に盛り付けると、適度な酸味と油分を乳化させた特製ドレッシングを回しかけた。
フライパンのハンバーグを裏返し、蓋をして蒸し焼きにする。数分後、竹串を刺して透明な肉汁が溢れ出るのを確認すると、彼は火を止めた。
「座れ。もうできる」
セレスティアンの短い言葉に、カイラとソフィアは慌てて厨房の隅にあるテーブルについた。
配られた皿には、ふっくらと焼き上がったハンバーグと彩り鮮やかなサラダ、そして湯気を立てるスープが並んでいる。
ソフィアが待ちきれない様子でハンバーグにナイフを入れた瞬間、閉じ込められていた熱い肉汁が堰を切ったように溢れ出し、皿の上に広がった。
「あ、あっつ! でも……うま、美味すぎる! なんだこれ、肉が口の中で溶けるぞ!」
「行儀が悪いぞ、ソフィア。……しかし、これは……」
カイラも一口食べ、驚きに目を丸くした。表面は香ばしく焼き固められているのに、中は驚くほど柔らかく、肉の旨味が凝縮されている。咀嚼するたびに、炒めた玉ねぎの甘みが肉の脂と絡み合って深い味わいを生み出していた。
続いてスープを口に運んだカイラの表情が、ふっと和らいだ。
「このスープ……とても深い味がします。塩漬け肉の出汁とキノコの風味が、こんなにも合うなんて。捨ててしまうような端材から作ったとは思えません」
「ただ水で煮るよりも、別の食材が持つ旨味を掛け合わせた方がいい。無駄なものを捨てる前に、別の価値に転換できないか考えるのは、内政も料理も同じだ」
味付けをしていない焼いた肉の切れ端をポチの皿に置いてやりながら、セレスティアンは自身の分の食事を早々に終えた。彼は細口のポットから湯を注ぎ、深く焙煎されたコーヒーの粉をゆっくりと膨らませていく。立ち上る芳醇で苦味のある香りが、厨房の空気を再び実務的なものへと引き締めた。
ブラックコーヒーを一口飲み、セレスティアンは対面に座る少女を見据えた。
「ソフィア。午後からの来客について、昨日調べさせた数字は頭に入っているな?」
「完璧だ。一度見た数字と市場の動きを忘れるほど、私の頭は安くない」
口の端にソースをつけたまま、14歳の少女は不敵に笑った。
★★★★★★★★★★★
午後2時。代官所の応接室。
部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
「お初にお目にかかります。セレスティアン辺境伯」
艶やかで、それでいて芯の通った声とともに優雅に一礼したのは、クレメント商会の若き女会頭、ヴィオラ・クレメントだった。
体にフィットした上質なパンツスーツに身を包み、優雅な足取りで進み出る。彼女が動くたび、甘く重い香水が応接室の古い空気を塗り替えていく。
カイラが背後で警戒を含んだ視線を向ける中、セレスティアンは静かにソファを勧めた。
「単刀直入に伺いましょう」
ヴィオラは美しい所作で脚を組み、一枚の分厚い羊皮紙をテーブルに滑らせた。
「アビス領で新たに生産可能となった、あの高純度のポーション液。当商会が『全量』買い取らせていただきます」
「条件は」
「卸値は、王都における最新の市場価格の7割。その代わり、面倒な輸送手配、倉庫の確保、新たな販路開拓、そして道中の盗賊や魔獣に対する護衛費用は、すべて当商会が負担いたします」
ヴィオラは計算し尽くされた妖艶な微笑を浮かべた。
「辺境の皆様にとっては、破格の好条件かと存じますが?」
セレスティアンは契約書を一瞥しただけで、無造作にテーブルの向こうへ押し返した。
「持ち帰れ。話にならない」
ヴィオラの完璧な微笑が、わずかに硬直した。
「……あら? ご不満がおありですか? 辺境でいくら良いものを作っても、それを王都まで運ぶ『足』がなければただの青い水ですわよ。既存の保守的な商会は、ルシフェル公爵家から事実上見放されたあなたと取引するのを恐れている。私たちしか、あなたの品をさばける相手はいませんのよ」
「ソフィア」
セレスティアンが短く呼ぶと、壁際に控えていたソフィアが一歩前に出た。
ヴィオラが怪訝な顔で14歳の小柄な少女を見つめる。大人社会のトップに君臨する女会頭の威圧感を正面から浴び、ソフィアはギュッと拳を握り込んだ。
「……王都周辺における、下級ポーションの最新卸値は、1瓶あたり銀貨5枚」
少しだけ上ずった声で言い切り、彼女は小さく息を吸い込む。セレスティアンの期待に応えるため、頭の中のデータを必死に引きずり出した。
「で、でも! クレメント商会が管轄している東部ルートの倉庫群では、この半月でポーションの出庫量が3割も落ちている! 理由は、他商会との価格競争で薬草の買い付けに出遅れて、深刻な在庫不足に陥っているからだ!」
ヴィオラの眉がピクリと跳ねた。
セレスティアンは冷たくヴィオラを見据える。
「お前たちは今、喉から手が出るほど『新しい目玉商品』を欲している。俺たちが別の新興商会と組めば、クレメント商会の商圏は確実に食われる。だから急いで辺境までやってきて、恩着せがましく独占契約を結ぼうとした」
「……」
「イレーネの抽出技術を使えば、薬草の原価は今の3分の1に落ちる。輸送費をそちらが負担しようが、7割の卸値で買い叩かれたら、うちの利益の大半がお前たちに吸い取られる仕組みだ。お前は俺たちを流通を知らない田舎者と見下して、リスクゼロで甘い汁を吸おうとしただけだ」
ヴィオラの顔から、先ほどまでの余裕と妖艶な笑みが完全に消え失せた。
彼女の眼差しが、見下していた相手の力量を測り直すような、鋭く冷酷なものへと変わる。数秒の緊迫した沈黙の後、ヴィオラはフッと息を吐き、口角を上げた。
「……驚いたわ。本当に、ただの左遷されたお坊ちゃんかと思えば、とんだ化け物ね」
彼女の声音には、一切の虚飾がなかった。
「いいでしょう。なら、いくらなら卸す気?」
「独占契約は結ばない。だが『優先交渉権』はくれてやる」
セレスティアンは一切の躊躇なく条件を叩きつけた。
「最初の3ヶ月間、全生産量の8割をクレメント商会に卸す。価格は市場の8割5分だ。運送費と護衛費はそちらの持ち出しとする。残りの2割はこちらで自由に売る」
「8割5分!? いくらなんでも強欲すぎるわ。8割が限界よ。それ以上は輸送費を引けばうちの旨味がない」
「では、別の商会にこの抽出技術の情報を流すまでだ。王都の流通網がひっくり返るぞ」
ヴィオラはセレスティアンの三白眼の奥にある、決して揺らがない意志を数秒で見極めようとしていた。互いの呼吸音さえ聞こえるほどの静寂の中で、ヴィオラは小さく息を吐いた。
「……負けたわ」
彼女は再び艶やかな笑みを浮かべた。しかし、その顔には先ほどまでの相手を見下した軽薄さは微塵もない。
「卸値は8割。その代わり、最初の半年間は生産量の9割をうちに回してちょうだい。それなら輸送の馬車を追加で手配できるわ」
「妥協できるラインだ。契約しよう」
セレスティアンが頷くと、ヴィオラは立ち上がり、すっと右手を差し出した。
「セレスティアン辺境伯。あなたとは、とても良いビジネスができそうだわ」
差し出された細くもしっかりとした手を取り、セレスティアンは短く握り合う。
窓から差し込む午後の光が、互いの利益と才覚を認め合った二人の横顔を静かに照らし出していた。




