第13話 裏街のインターン
アビス領の領都は、本格的な冬の到来を前に活気づいていた。
代官所が推進したインセンティブ制度により、領民たちの懐には確かな硬貨が入り始めている。購買意欲の高まりを嗅ぎつけた行商人たちが他領から続々と集まり、市場の規模は1ヶ月前の数倍に膨れ上がっていた。
かつては日々の粗末な食事を確保するだけで精一杯だった人々が、今は冬を越すための厚手の外套や、少しばかり上質な干し肉を買い求めて立ち並ぶ露店を巡っている。各所で響き渡る商人たちの威勢の良い呼び込みと、それに値切り交渉で応じる領民たちの声は、この土地が死の淵から脱し、経済という血流を取り戻した何よりの証左であった。
そのひしめき合う人混みの中を、セレスティアンはゆっくりとした足取りで歩いていた。
隣には、技術開発の統括責任者であるイレーネが親しげに腕を絡ませて歩いている。彼女は銀縁の眼鏡の奥で青い瞳を輝かせながら、珍しい素材を探して左右の露店をせわしなく見回していた。
すれ違う領民たちは、長身で威厳のある代官と、華やかな美貌を持つ女性の組み合わせを見て、休日の逢瀬を楽しんでいるのだと解釈し、微笑ましげに道を譲っていった。
しかし、当の二人の間に交わされている会話は、色恋とは対極にある極めて実務的なものだった。
「ねえ。あそこの薬師が売っている赤い鉱石、買い占めていいかしら? あれを使えば、抽出器の魔力変換効率を1割は引き上げられるわ!」
並べられた商品に目を輝かせながら、イレーネが腕を引く。だが、セレスティアンは歩調を崩すことなく、冷静な声で応じた。
「原価と製造にかかる費用の兼ね合いだ。その鉱石を組み込むための改修費用が、投資回収までに何ヶ月かかるか計算してから言え。目先の効率のために、全体の資金繰りを悪化させるわけにはいかない」
「相変わらず可愛げのない男ね。研究のパトロンなら、買い出しに付き合う時くらい、もう少し気前よく財布の紐を緩めなさいよ」
イレーネは不満げに唇を尖らせたが、本気で怒っている様子はない。己の要求に対して論理的な反論が即座に返ってくる状況を、彼女はむしろ一種の知的な遊戯として楽しんでいるようだった。優秀な研究者にとって、自らの発想をシビアな視点で評価し、実現可能なラインへと落とし込んでくれる実務家の存在は、得難い壁打ち相手なのだ。
そんな会話を続けながら、少し薄暗い、裏街に近い区画へと足を踏み入れた時だった。
ふいに小柄な人影が、人混みを縫うようにしてセレスティアンの脇をすり抜けた。
その瞬間、彼の上着の懐にわずかな違和感が走る。
常に市場全体の人の動線や物流の流れを俯瞰して観察していた彼は、規則的な群衆の動きから外れた、その不自然で素早い軌道にいち早く気づいていた。
「痛っ!」
瞬時に振り返り、その不審な影の細い腕を掴み上げると、小柄な身体がバランスを崩して足元に倒れ込んだ。
同時に、目深に被っていた古びた帽子が落ち、中から艶のある青緑色の瞳と、汚れにまみれた金髪がこぼれ落ちる。
ボロボロの男物の服を着て偽装しているが、捕まえたのは14歳前後の少女だった。
「何をするんだよ、おっさん! 離せ!」
少女は野良猫のように牙を剥き、拘束を振り解こうと身をよじる。
セレスティアンは彼女の必死の抵抗を片手で容易に押さえ込みながら、空いた手で自分の上着のポケットから抜き取られかけていた銀製の懐中時計を取り返した。
「他人の懐に手を入れるなら、もっと相手を選ぶべきだったな」
見下ろすセレスティアンに、少女は一瞬だけ焦りの色を見せたが、すぐにぽってりとした唇を歪めて強がりを口にした。
「あたしは何も盗んでない! あんたがそれを落としそうだったから、親切で押し込んでやろうとしただけだ!」
「俺はこの時計をベストの裏側に鎖で繋いでいる。自然に落ちる構造にはなっていない」
「ちっ……金持ちのくせに嫌な野郎だ。銀貨の1枚や2枚分くらいの時計、減ったってどうせ困らないだろ!」
苦し紛れに開き直る少女の横で、イレーネが呆れたようにため息をつく。
「あらあら。治安が良くなったとはいえ、裏街にはまだこんな手癖の悪い小ネズミがいるのね。さっさと衛兵を呼んで突き出しましょう」
衛兵という言葉に、少女の瞳が微かに揺れた。だが、彼女は怯えて屈服する代わりに、セレスティアンを真っ直ぐに睨み返してきた。
「衛兵になんて、突き出しても無駄だ! あたしがいなくなったら……裏街の連中が、今日の麦の相場を知れなくて困るんだからな!」
「相場、だと?」
「そうさ! 金持ちのあんたには……今日の南区画の麦の値段なんて、わからないだろ! 東通りじゃ麦1袋が銀貨2枚と、銅貨4枚。でも、南の裏街じゃ銅貨8枚もぼったくってる! 肉は昨日の朝より銅貨2枚上がってて……逆に、東から来た商人の荷馬車が壊れたせいで、根菜類は午後から値下がりするんだよ!」
息継ぎも荒く、切羽詰まった声だった。だが、少女は市場全体の物価の変動と、各区画での価格差やその要因を、驚くほどの早口で正確に暗唱してみせた。
裏街の貧しい人々にとって、少しの物価変動が死活問題となる。字も読めない彼らに代わって市場の価格を調べ上げ、情報を武器に生き抜いてきたのだろう。
その必死の言葉の羅列を聞き、セレスティアンは目を眇めた。
「お前、今の数字をすべて暗記しているのか?」
「当たり前だ! あたしは、一度見た数字や顔は絶対に忘れない!」
孤児の虚勢かもしれない。だが、もしそれが事実であれば、彼女の頭脳は代官所で長年帳簿と睨み合ってきた並の文官を遥かに凌駕していることになる。
セレスティアンは彼女の腕を掴んだまま、低い声で問いを投げかけた。
「ならば、南の裏街で麦を15袋、東通りで保存肉を20塊買った場合、代官所の正規の卸値と比較してどれだけの差額が出る? 代官所の麦の卸値は銀貨2枚、肉は銀貨1枚と銅貨5枚だ」
大人が紙とペンを使っても数分はかかる複雑な計算だ。イレーネが「ちょっと、そんな意地悪な質問……」と口を挟みかけたが、少女は瞬きを数回繰り返しただけで、即座に答えた。
「……麦の差額が銅貨120枚で銀貨12枚分。肉の差額が銅貨40枚で銀貨4枚分。合計で銀貨16枚分の損になる。どうだ、合ってるだろ!」
澱みない回答。計算に1秒の遅れもない。
セレスティアンは小さく息を吐き、少女の細い腕から手を離した。
この情報処理能力。正規の教育を一切受けていない裏街の孤児が、これほどの算術と記憶力を持っている。
組織のトップに立つ者にとって、最も恐れるべきは現場の実態が隠蔽されることだ。代官所の役人たちが提出する綺麗に整えられた帳簿よりも、裏街の泥を這いつくばって生きている人間の持つ「生きた数字」の方が、よほど価値がある。
表面化しない現場のリアルな声と、小さな不正の兆候を拾い上げるための、独立した監査の目。それが今の代官所には欠けていた。
「名前は」
「……ソフィアだ。ソフィア・ランカスター」
警戒を解かないソフィアに対し、セレスティアンは自身の懐中時計をベストのポケットにしまい直した。
「ソフィア。スリとして衛兵に突き出されるか、俺の元で働くか、選べ」
「は……? 働くって、代官所でか?」
ソフィアは素っ頓狂な声を上げた。
「あたしみたいな裏街の孤児が、役所で働けるわけないだろ。からかってんのか?」
「身分や生まれはどうでもいい。俺が求めているのは、その記憶力と計算力だ。お前を、俺直属の監査見習いとして雇う」
「か、監査見習い……?」
横で聞いていたイレーネが、信じられないものを見るような目を向けてくる。
「ちょっと、あなた。いくらなんでも拾い食いが過ぎない? 仔犬の次は裏街の孤児を拾うつもり?」
「必要な投資だ。こいつの頭脳は、いずれ領地の経営において莫大な利益を生む」
セレスティアンはイレーネの言葉を一蹴し、再びソフィアを見下ろした。
「3食の食事と安全な寝床、そして適正な報酬を保証する。ただし、俺の要求する基準の仕事をこなせば、の話だがな」
ソフィアは狐につままれたような顔をしていた。大人を全く信用していない彼女の目が、目の前の男の真意を測ろうと忙しく動いている。
しかし、彼が提示した条件は、その日暮らしの孤児にとってあまりにも破格だった。何より、自分を厄介な子供としてではなく、価値のある人材として評価しようとする冷徹な視線に、彼女の心は強く揺さぶられた。
「……わかったよ」
ソフィアはそっぽを向き、唇を不満げに尖らせた。
「どうせここで断ったら牢屋行きなんだろ。あんたの役に立ってやるよ。その代わり、飯は腹一杯食わせてもらうからな!」
大人びた態度を取ろうと必死に背伸びをしているそのいじらしい姿に、セレスティアンの口元がわずかに緩む。
「契約成立だ。ついてこい」
彼は短い言葉を残し、市場の喧騒の中を代官所に向けて歩き出した。ソフィアは少しだけ戸惑いながらも、慌てて立ち上がり、その真っ直ぐな背中を追いかけていった。




