第12話 R&D(研究開発)部門の設立
朝の冷気がまだ残る自室で、セレスティアンは床に膝をついていた。
壁際に設けた木箱――仔犬のポチの寝床を掃除するためだ。敷いてあった古い毛布を引き抜き、新しく清潔な布を敷き直そうとしているのだが、作業は遅々として進まない。
原因は、彼の足元で短い尻尾を振り回している黒と茶色の毛玉だった。
「待て。今これを敷くから」
彼が新しい布の端を掴んで広げようとすると、ポチはそれを「綱引きの誘い」と勘違いしたらしく、小さな牙で布の反対側を咥え込み、短い脚を踏ん張って「ぐるる」と可愛い唸り声を上げた。
布を引っ張る力は仔犬のそれであり、彼が少し指先に力を入れれば簡単に奪い返せる。だが、必死に布に食らいつきながら、琥珀色の丸い瞳で上目遣いにこちらを見つめてくる姿を見ると、どうにも無下に扱うことができなかった。
彼が引く力を少し緩めると、ポチは自分が勝ったと思い込んだのか、布を咥えたまま誇らしげにその場で2、3度ぐるぐると回ってみせた。
そして勢い余って自分の短い脚に布を絡ませ、コロンと背中から床に転がる。
「……だから、言っただろう」
呆れたように言いながらも、彼の手は自然と伸び、仰向けでもがいている仔犬の柔らかい腹をそっと撫でていた。ポチはすぐに起き上がり、今度は彼の手首に前足を絡ませて甘噛みを始める。
前世の記憶を辿っても、朝の出勤前にこんな風に生き物と触れ合う時間など一度たりとも存在しない。ネクタイを締めながら朝食を胃に流し込み、頭の中はすでにその日の会議やタスクで埋め尽くされているのが日常であった。
指先を舐める小さな舌の感触に、彼は微かに目を細める。
この何気ない平穏な時間を守るためにも、領地の事業を早急に軌道に乗せなければならない。
彼はポチの頭をひと撫でしてから立ち上がり、身だしなみを整えて自室を後にした。
午前9時ちょうど。
代官所の執務室に、約束通り一人の女性が姿を現した。
イレーネ・フォン・ヴァルトスタイン。先日と同じ白い麻のコートを羽織った彼女は、部屋に入るなり応接用のソファに深く腰を下ろし、足を組んだ。
「時間通りに来たわよ。さあ、私の研究室と予算をちょうだい」
挨拶もそこそこに要求を突きつけてくる彼女に対し、セレスティアンは執務机から数枚の書類を差し出した。
「お前を、このアビス領における技術開発の最高責任者に任命する。当面の間、代官所の敷地内にある南倉庫を専用の工房として使え。必要な機材や素材の購入費として、まずはこの額を割り当てる」
提示された金額を見たイレーネの青い瞳が、わずかに揺れた。
「……王立アカデミーの筆頭研究員に与えられる年間予算の、およそ2倍。それを初期投資としてポンと出すわけ? あなた、本当に頭がどうにかなっているんじゃないの?」
「俺は将来の利益に対して適切な投資を行っているだけだ。昨日も言ったが、お前に求めるのは自己満足の研究ではない。ありふれた雑草から、他国が高値で買い取るポーションを大量に生み出すことだ」
セレスティアンは懐から万年筆を取り出すと、契約書に流れるような筆致で自らの署名を記した。
「ただし、条件が一つある」
「条件?」
「この領地では、いかなる立場の者であっても1日の労働時間は8時間までと定めている。それはお前も例外ではない。夕刻の鐘が鳴れば工房を閉め、必ず休息をとれ。徹夜での作業は一切禁ずる」
「ちょっと待ちなさいよ! 研究ってのはね、閃いた瞬間に形にしないと意味がないの! 寝る時間すら惜しい時だってあるのに、そんな規則……」
「従えないなら、この話は白紙だ」
一切の交渉を許さない冷ややかな声色に、イレーネは言葉を詰まらせた。
彼女は唇を尖らせ、机上の契約書とセレスティアンの顔を交互に睨みつける。破格の予算と専用の工房。アカデミーを追放された彼女にとって、これ以上ない環境であることは間違いない。
「……わかったわよ。その馬鹿げた規則、守ってあげるわ」
彼女は自分の懐からペンを乱暴に引き抜くと、契約書に自身のサインを書き殴った。
それから十数日が経過した。
南倉庫を改装した工房は、イレーネの要求通りに様々な機材が運び込まれ、独特の薬草の匂いが充満していた。
セレスティアンがカイラを伴って視察に訪れると、イレーネは作業台の前で頭を抱え、忌々しそうに自身の髪を掻き毟っていた。
「駄目ね。どうしても魔力の伝導率が安定しないわ」
作業台の上には、この辺境に自生する『夜泣き草』の束と、すり鉢、そして煮沸するための鍋が置かれている。
「抽出温度は完璧なはずよ。でも、魔力を使って成分を引き出す過程で、どうしても不要な不純物が混ざってしまう。これじゃあ、王都で売られている中級ポーションと同程度の効能しか出せない。私が目指しているのは、ほんの数滴で重傷を塞ぐ最高級品なのよ」
彼女は焦燥感を露わにし、爪の先を噛んだ。
魔力による成分抽出は、術者の魔力操作の精密さに大きく依存する。イレーネほどの天才であれば手作業で純度の高いものを数本作ることは可能だろう。だが、それを領民たちにやらせて「大量生産」するとなると、技術的な壁が高すぎるのだ。
セレスティアンは無言で作業台に歩み寄り、煮立っている鍋と、その横に置かれたすり鉢を観察した。
この世界のポーション作りは、基本的に「薬草をすり潰し、魔力を込めた湯で煮詰める」という、極めて前近代的な手法にとどまっている。
「イレーネ。成分を抽出する際、なぜ直接湯で煮込んでいる」
「はあ? 薬草の成分を溶け出させるんだから、煮込むのは当然でしょ?」
「違う。それだと不要な成分まで一緒に溶け出し、魔力の干渉を受けて焦げ付きや変質が起きる」
彼は作業台の上にあった白紙を引き寄せ、万年筆で簡単な図解を描き始めた。
二つの密閉されたガラス容器。それを繋ぐ一本の細い管。片方の容器の下には火の印、もう片方の管の周囲には水滴の印が描かれている。
前世の義務教育レベルの科学知識。「蒸留」の概念図だ。
「直接煮込むのではなく、気化させるんだ」
セレスティアンは図の左側の容器を指差す。
「夜泣き草から必要な成分と魔力だけを揮発性の液体に溶かし、加熱して蒸気にする。その蒸気をこの管に通し、周囲を冷やして再び液体に戻す。沸点の違いを利用すれば、不純物を完全に分離し、極めて純度の高い成分だけを抽出できるはずだ」
イレーネは図解を覗き込み、最初は怪訝な顔をしていた。
しかし、数秒もしないうちに彼女は瞬きすら忘れ、その図解に完全に釘付けになった。呼吸が浅くなり、指先が微かに震え始める。天才ゆえの直感が、その全く新しい理論の正当性を瞬時に理解してしまったのだ。
「気化させて……冷却し、再結晶化させる……? 魔力で直接干渉するんじゃなくて、温度変化という物理現象を媒介にするのね……!」
王立アカデミーの分厚い教本には一度も書かれたことのない、異世界の科学という劇薬。
「でも、これを持続させるには、一定の温度で加熱し続ける機構と、急激に冷却する機構が必要になるわ。ただの火や氷じゃ温度にムラができてしまう」
「そこはお前の専門分野だろう」
セレスティアンはペンを置いた。
「魔石に特定の温度を維持する魔法陣を組み込めばいい。誰が触っても同じ温度になる魔導具を作り、この管の周囲に配置しろ。職人の勘や魔力操作の技術は必要ない。手順通りに素材を入れ、魔石を起動させるだけで、誰にでも最高純度の薬液が抽出できる『工程』を作るんだ」
イレーネは両手で自らの顔を覆い、天を仰いだ。
「ああっ……なんてことなの。信じられない。こんな単純で、美しくて、暴力的なまでに合理的な理論が存在するなんて!」
彼女はコートの裾を翻し、狂ったような手つきで作業台の上の機材を片付け始めた。そして棚から複数の魔石を引っ張り出し、凄まじい速度で魔法陣を刻み始める。
完全に自身の世界に入り込んだイレーネを背に、セレスティアンは静かに工房を後にした。
それからさらに2週間後。
代官所の応接室のテーブルに、透き通るような美しい青色の液体が入った小さなガラス瓶が置かれた。
瓶の底からは微細な光の粒が湧き上がり、液面で弾けている。
「……信じられません」
カイラがその瓶を見つめ、言葉を失っていた。
「これが、あの道端に生えている夜泣き草から作られたというのですか? 色の純度も、内包されている魔力の密度も、王都の神殿でしか作れない最高級のエリクサーに匹敵しています」
「ええ、その通りよ!」
イレーネが胸を張り、得意げに笑う。彼女の目の下には微かな隈があるが、その表情はこれまでにないほどの達成感に満ちていた。
「あのふざけた『8時間労働』のせいで完成まで2週間もかかったじゃない! 徹夜できれば3日で終わったのに! ……でも、見て、これ! 加熱と冷却の魔石を組み込んだ抽出装置を5台連結させたわ。あとは手順通りに作業員を配置して、順番に魔力弁を開け閉めするだけ。魔力が全くない平民の子供でも、この最高級品を1日に100本単位で量産できるわよ!」
彼女の興奮は最高潮に達していた。
セレスティアンは椅子に深く腰掛け、テーブルの上の青い瓶を見つめた。
「よくやった。原価と製造にかかる費用の計算書を見る限り、利益率は驚異的だ。王都の相場の半額で卸しても、十分に莫大な利益が出る」
「ねえ、次はどうするの!?」
イレーネが身を乗り出し、机に手をついてセレスティアンの顔を覗き込む。
「あなたの頭の中には、まだあんなとんでもない理論が眠っているんでしょ!? 次は魔石のエネルギー変換率を上げる方法? それとも新しい金属の精錬? なあに、なんでも言ってちょうだい! 私が全部形にしてあげるから!」
知的好奇心を満たしてくれる圧倒的な知識の泉。彼女の瞳には、すでに対等な契約相手に向けるものではない、狂信的なまでの執着が宿っていた。
カイラが息を呑んで警戒を露わにしたが、セレスティアンは冷静に彼女の視線を受け止める。
「商品を作るのはお前の仕事だが、ここから先は別の領域だ」
「別の領域?」
「どんなに優れた品でも、買い手がいなければただの青い水にすぎない。そして今のこの領地には、これを他国へ売り捌くための強い商路がない」
セレスティアンは青い瓶を手に取り、窓から差し込む光に透かした。美しい光の粒が、彼の冷徹な瞳を青く照らし出す。
「カイラ。近隣の国々で最も資金力と影響力を持つ商会をリストアップしろ。こちらから招待状を送る。……この武器を使って、外部の巨大な資本と交渉のテーブルにつく」




