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左遷された冷血公爵の領地経営改革〜有能な婿を捨てた元妻が泣きついてきましたが、もう遅い。優秀な部下たちと理想の領地を築きます〜  作者: 伊達ジン


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第10話 総括と次なる課題

 朝の陽光が、分厚いガラス窓を通して執務室の床に四角い光を落としている。

 広い執務机に向かっていたセレスティアンは、各村から提出された日報の束に無言で目を通していた。

 彼の足元では、仔犬のポチが丸めた羊皮紙の切れ端にじゃれついている。前足で器用に押さえつけ、小さな牙を立てて唸り声を上げているが、威嚇のつもりなのか遊びの延長なのか、全く怖さはない。

 やがて紙と格闘するのに飽きたのか、ポチは彼の磨かれたブーツのつま先に顎を乗せ、丸くなって心地よさそうに目を閉じた。

 足の甲に伝わる温かな重みと、かすかに聞こえてくる規則的な寝息を感じながら、彼は万年筆を動かし続ける。


 赴任してから数ヶ月。

 アビス領の風景は、彼が最初に馬車の窓から見た死の街とは見違えるほど変わっていた。

 ノックの音が響き、カイラが入室してくる。彼女の手には、何種類もの書類が挟み込まれた分厚い革張りの帳簿が抱えられていた。


「代官様。前月分の領地全体の最終的な収支、および各村の人口動態の集計が完了いたしました」

「ご苦労だった。概要を」


 カイラは帳簿を開き、淀みなく数字を読み上げていく。

 就業規則の抜本的な改革と、成果に応じたインセンティブ制度の導入により、農作物の収穫量と魔石の採掘量は安定した水準を維持している。過労による事故や病人は激減し、何より餓死者の数が完全にゼロとなった。


「さらに、隣接する領地から噂を聞きつけた流民が、ここ数週間で50人ほど移住してきています。彼らの受け入れ先として、東部の休耕地を割り当てる手続きを進めております。体力のある若者も多く、新たな労働力として期待できるでしょう」


 報告を終えたカイラの声には、確かな手応えと安堵が滲んでいた。

 かつては重税と過労で次々と人が倒れ、逃げ出していくばかりだった辺境の地が、今では外から人を呼び込むほどの活力を取り戻している。


「代官所の金庫に残っていたボルドーの隠し資産による食料の買い付けも一段落しました。各村の備蓄庫も順調に満たされつつあり、領内での自給体制が整いました。少なくとも、今年の冬を越すための糧は完全に確保できたと言ってよいでしょう」


 彼女は帳簿を閉じ、深く一礼した。

 赴任してわずか数ヶ月で、地獄のような惨状だった領地を自立可能な状態にまで引き上げた主君への、心からの敬意だった。


「そうか。まずは最低限の土台ができたということだな」


 しかし、セレスティアンは手元の書類から顔を上げず、淡々と言葉を返しただけであった。カイラがわずかに顔を上げる。


「最低限、ですか。これ以上の安定をお望みでしょうか」

「冬を越せるのはわかった。だが、カイラ。お前がまとめたこの帳簿の『外部との取引』の項目を見てみろ」


 彼は一枚の紙を机の端へ滑らせた。

 カイラがそれを受け取り、記載された数字の列に目を走らせる。


「……他領からの食料、冬用の布地、そして農具の修繕に必要な鉄器の購入費が計上されています。これらはすべてボルドーから接収した資産で賄っておりますが……この数字に何か問題が?」


 彼女はわずかに眉をひそめた。計算に間違いはないはずだ。


「領内の金は、労働と報酬という形で適切に循環し始めている。だが、それだけだ」


 セレスティアンは万年筆のキャップを閉め、真っ直ぐに彼女を見据えた。


「俺たちは備蓄や領内で生産できない物資を補うため、外部の商人から買い付けを行っている。つまり、このアビス領から外へ向かって金貨が一方的に流出している状態だ。逆に、外部からこの領地へ入ってくる金貨はどれくらいある?」


 カイラは帳簿のページをめくり、言葉を詰まらせた。


「それは……ほとんど、ありません。北部の鉱山から採れる魔石の一部を王都の商人に卸している程度で……」

「その魔石も、採掘量が増えたとはいえ、品質は並だ。輸送の費用と日数を考えれば、手元に残る利益はひどく少ない。結果として、アビス領の貿易収支は大幅な赤字だ」


 厳しい事実の提示に、執務室の空気がわずかに張り詰める。


「自給自足が成り立っているのは、あくまで横領されていた資産を切り崩しているからにすぎない。このまま外へ金を払い続けるだけの状態が続けば、いずれ代官所の金庫は底をつき、必要な物資すら買えなくなる。領民は再び飢えることになるぞ」


 カイラは唇を引き結んだ。

 言われてみれば、その通りである。領地内の労働環境が飛躍的に改善され、日々の食卓が豊かになったことで、彼女自身も領地の財政は完全に立ち直ったと錯覚していたのだ。だが、マクロな視点で見れば、領地の資産は緩やかに削られ続けている。

 金が内部で回っているだけで、外からの流入がない。経済の仕組みとしては致命的だった。


「……おっしゃる通りです。私の見通しが甘かったと言わざるを得ません」


 彼女は己の落ち度を認め、頭を下げた。だが、すぐに顔を上げ、実務を預かる者としての戸惑いと反論を口にする。


「しかし、代官様……このアビス領は、土地が痩せています。他領に誇れるような名産品など、とても……。農作物は領内で消費する分で手一杯ですし、魔石にしても……もっと純度の高いものが、他所で容易に手に入ります。外の商人が、わざわざ大金を払ってまで買いたがるような品など……今のこの領地には、存在しないのです」


 無い物ねだりをしてどうなるというのか。それが彼女の率直な思いだった。資源に恵まれないこの土地で、外貨を稼ぐための強力な商材を生み出すことなど、物理的に不可能に思える。


「ないなら、作るしかない」


 言い切る声には、一切の迷いがなかった。


「ただのありふれた農作物や、加工前の魔石を売っても、足元を見られて買い叩かれるだけだ。必要なのは、他の土地では絶対に手に入らない、圧倒的な価値を持つ独自の品。よそがどれだけ高値を出してでも欲しがるような、独占的な商品だ」

「独自の、商品……」

「そうだ。それを外部に売り込み、莫大な外貨をこの領地に引き込む。金が外から途切れることなく流れ込み続ける仕組みを作って初めて、真の安定と豊かさが手に入る。俺が求めているのは、その日暮らしの延命措置ではない」


 セレスティアンは立ち上がり、壁に掛けられた領地の大きな地図を見上げた。

 王国の最北端に位置する、広大だが未開の地が多いアビス領。

 この不毛と思われている土地のどこかに、まだ誰も価値に気づいていない資源が眠っているはずだ。前世の知識と経験が、彼にそう告げていた。

 価値がない石ころであっても、見せ方と加工の技術、そして売り出すための戦略さえあれば、王都の貴族が群がる宝の山へと変えることができる。


「カイラ。明日から、領内全域の資源調査を改めて開始する」

「全域、ですか」

「ああ。農村、鉱山、森林、さらにはこれまで見向きもされなかった荒れ地に至るまでだ。自生している雑草や特殊な土壌、鉱物の副産物など、あらゆるものをリストアップしろ。どんな些細なものでも構わない。前任者たちが見落としていたゴミの中にこそ、俺たちが探している宝が埋まっている」


 途方もない作業量になることは目に見えていた。

 だが、カイラは姿勢を正し、真っ直ぐに視線を返して深く頷いた。


「承知いたしました。各村の長たちにも通達し、見慣れない植物や変わった色の石があれば、必ず代官所へ持ち込むよう手配します。報酬の制度が浸透した今の彼らであれば、必ず有益な情報をもたらしてくれるはずです」

「頼んだ。それと、もし特殊な技術や知識を持っている者が領内にいれば、身分を問わず報告させろ。新しい事業を立ち上げるには、資源だけでなく、それを形にする人間の力が不可欠だ」


 足元でポチが目を覚まし、大きなあくびをした。

 前足で顔を擦る無防備な姿を一瞥し、セレスティアンは再び椅子に深く腰を下ろした。手元に新しい白紙を引き寄せ、万年筆のキャップを外す。


「準備を急げ。明日から、さらに忙しくなるぞ」


 セレスティアンがペン先を紙へと落とす。新たな事業計画の骨子を刻む硬質な音が、静かな執務室に響き始めた。

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