第9話 過労死ラインの攻防
朝の冷気に包まれた自室。分厚いカーテンの隙間から朝日が差し込み、埃が光の帯の中で舞っている。
出勤前のわずかな時間を利用し、セレスティアンは仔犬のポチと向き合っていた。
前世の彼であれば、朝の時間は一分一秒でも長く睡眠にあてるか、あるいは血走った目で最新の経済ニュースをチェックするかのどちらかだった。自室の床に座り込んで犬と遊ぶなどという優雅な時間は、文字通り別世界の出来事である。
彼は丸めた古布を手に持ち、部屋の対角線に向かって軽く放り投げる。
ポチは黒と茶色の短い脚を懸命に動かし、板張りの床をシャカシャカと爪で鳴らしながら猛ダッシュした。見事に布を咥え込み、得意げな顔でこちらへ戻ってこようとする。
だが、方向転換を急ぎすぎたらしい。勢い余って前足がもつれ、ポチは「あゅんっ」と短い悲鳴を上げて毛玉のように床を転がった。
そして、止まることなく床を滑り、しゃがみ込んでいたセレスティアンの胸元へ一直線に勢いよく飛び込んできた。
「……ぐふっ」
仔犬ほどの軽い重さとはいえ、不意を突かれた直撃だ。咄嗟に両手で受け止めようとしたセレスティアンはバランスを崩し、無様な体勢で仰向けに倒れ込んでしまう。
分厚い絨毯の上に背中を打ちつけた彼の胸の上で、ポチが「遊んでくれた」と勘違いし、千切れそうなほど高速で尻尾を振りながら顔をぺろぺろと舐め回してきた。
「やめろ、舐めるな。怪我はないか」
彼が仔犬の身体に異常がないか探ろうとしたその時、ノックの音とともに重い木扉が開いた。
「代官様、本日のスケジュールですが……」
報告に訪れたカイラの言葉が、途中で不自然に途切れた。
仰向けに倒れた大男と、その上に乗って大はしゃぎしている仔犬。
カイラは書類を胸に抱えた状態で完全に硬直し、やがて無表情のままそっとドアを閉めようとした。
「待て。違う、これは事故だ」
セレスティアンは素早く起き上がり、咳払いをして乱れた襟元を直す。ポチはまだ遊んでもらえると思って足元で跳ね回っている。
カイラは踏みとどまり、微かに口元をピクつかせながら再び扉を開けた。
「……お怪我がなくて何よりです。朝から随分と激しい訓練をなさっているのですね」
「番犬としての敏捷性を鍛えていたところだ」
「左様でございますか。では、敏捷な番犬殿には少しお休みいただき、業務の報告をよろしいでしょうか」
彼女の生真面目な声に促され、セレスティアンは自室を出て執務室へと向かった。
広い執務机に腰を下ろし、提出された書類に目を通す。
インセンティブ制度の導入から数週間。各村や鉱山からの生産量は順調に推移し、代官所の金庫には着実に外貨が積み上がりつつあった。
しかし、報告書を補足するカイラの声には、微かな懸念が混じっていた。
「生産量が維持されているのは事実ですが、帳簿の数字にいくつか不自然な点が見受けられます。各村からの農具やツルハシの修繕請求が、以前よりも増加しているのです。さらに、見回り用に支給しているはずのランタン用の油も、予定より早く底をついている村がいくつかあります」
「どういうことだ。規定の労働時間を超えた場合や、休息日に働いた場合は、基本報酬を没収すると通達したはずだ」
「ええ。ですから彼らは、見回りの目を盗んで……ランタンの光を厚手の布で隠しながら、夜明け前や深夜に農地の開墾や採掘を続けているとのことです。修繕費や油の異常な消費は、その隠れ作業によるものでしょう。報酬を取り上げられないよう、正規の作業時間にその時間外の成果を少しずつ混ぜて報告しているようで……」
カイラの声には、呆れと戸惑いが入り混じっていた。
「稼げるうちに、少しでも多く稼いでおきたい。いつこの夢のような制度が終わるかわからない、という恐怖心もあるのでしょう」
カイラの分析は的確だった。
だが、セレスティアンの眉間には深いシワが刻まれた。
これでは、前世の自分と全く同じではないか。
短期的な利益に目が眩み、睡眠と休息を削って働き続ければ、確実に身体は壊れる。一度壊れた肉体や精神を元に戻すには、莫大な時間とコストがかかるのだ。
「今日の夕刻、俺が直接現場を見回る」
「代官様自ら、ですか」
「監視役の目をごまかせると思っているなら、直接叩き潰すまでだ」
夕刻の鐘が鳴り響き、完全に日が落ちた後。
冷たい夜風が吹き抜ける中、セレスティアンの黒いコートの裾が翻る。
アビス領郊外の農村地帯。本来であれば各家から夕食の温かな煙が立ち上り、一日の疲れを癒す時間帯だ。
しかし、裏山の斜面には不自然な人影がいくつも動いていた。新しい水路を引くための溝掘り作業である。十数人の男たちが、冷たい泥にまみれながら無言でツルハシを振るっていた。彼らの手元を照らすのは、周囲に光が漏れないよう布で覆われた小さなランタンの灯りだけだ。
セレスティアンは足音を殺し、彼らの背後に近づいた。
「規定の労働時間は、とうに過ぎているはずだぞ」
低い声が闇夜に響く。
男たちは弾かれたように振り返り、手にしていたツルハシを次々と取り落とした。
「お、お代官様!?」
泥だらけの男たちが、血の気を引かせてその場に平伏する。
「違うんです、これはその……明日の作業の準備を少しだけ」
震える声で言い訳を探す若者に、セレスティアンは冷ややかな視線を向けた。
「俺は、時間外の労働は一切認めないと言ったはずだ。お前たちのこの時間外の作業成果は、評価対象にしない。一銭の価値もない無駄骨だ」
その容赦のない言葉に、若者の一人が顔を上げ、すがるような声を出す。
「どうか、それだけはお見逃しください! 俺たちはもっと稼ぎたいんです。妹に腹一杯の飯を食わせて、冬を越すための厚い布を買ってやりたいんです。代官様がいつか王都に帰ってしまえば、また元の地獄に戻るかもしれない。だから、今のうちに少しでも……!」
切実な訴えだった。彼らには彼らなりの必死の事情がある。
しかし、セレスティアンは一歩も引かなかった。
「明日死ぬかもしれない働き方で、どうやって冬を越す気だ」
男たちが言葉を失う。
「お前たちの掘っている溝を見ろ。足元が崩れかかっている。暗闇の中で疲労困憊のまま作業を続ければ、いずれツルハシを仲間の足に振り下ろすか、土砂に埋もれることになる」
彼は一歩前に出て、土にまみれた若者を見下ろした。
「お前が怪我をすれば、誰が妹を養う。治療費で稼いだ金は消え飛び、労働力を失った家族は飢える。さらに、崩れた溝を修復し直すための資材と人員も無駄になる。俺は、目先の小銭のために翌日の労働力を潰し、領地に負債を抱えさせるような無能に払う金は持っていない」
感情論ではない。徹底したロジックだった。
「俺がお前たちに求めているのは、明日も明後日も、来年も同じ水準で利益を出し続けることだ。そのためには、今すぐ道具を置いて家に帰り、温かい飯を食って眠れ。それがお前たちに課した『仕事』だ。この命令に背くなら、明日の基本手当を減額する」
厳しい宣告だった。
しかし、平伏していた男たちの目からは、なぜか大粒の涙が溢れ出していた。
「お代官様……」
「……何だ」
「我々のような卑しい農民の怪我を、そこまでご心配くださるとは……。明日も来年も生きていてほしいと、そう仰ってくださるのですね」
「待て、俺は労働力の維持の話を」
「ああ、なんて慈悲深いお方だ。この命に代えても、明日からきっちり休んで、万全の体調で働かせていただきます!」
男たちは次々と立ち上がり、涙を乱暴に拭いながら深々と一礼して、足早に村へと帰っていった。
残されたセレスティアンは、薄闇の中で一人、深いため息をつく。
「……なぜそうなる」
後ろでランタンを持って控えていたカイラが、表情を取り繕うとしているが、肩が小刻みに揺れていた。
「素晴らしいご威光ですね、代官様」
「お前、笑っているだろう」
「滅相もございません。彼らが代官様をまるで慈悲深き神のように慕う気持ち、私にもよくわかりますから」
執務室への帰り道。
セレスティアンは馬車の窓から夜の街並みを眺めながら、思考を巡らせていた。
「彼らの過剰な熱狂を止めるには、強制的な見回りだけでは不十分だな」
「と、仰いますと?」
「稼いだ金と有り余る時間を消費させる場所、あるいは娯楽が必要だ。今のままでは、彼らは不安から金を貯め込むか、隠れて働くことに時間を費やしてしまう。市場の拡大や安全な娯楽施設など、金が領地内で循環する仕組みを作らなければならない。それに、いつ制度が終わるかという不安を払拭するためには、領地が永続的に豊かになるという確固たるビジョンを示す必要がある」
そして、ふと重大な事実に気づく。
(……しまった)
定時で退社するはずが、見回りのせいで完全に夜更けになってしまった。平穏な生活を望んでいるはずの自分が、結局のところ誰よりも長く働き続けているという皮肉な現実。
執務室に戻って残りの仕事を片付ける気にもなれず、彼はそのまま自室へと向かった。
扉を開けると、待ちわびたようにポチが短い尻尾を振りながら駆け寄ってくる。
その愛らしい姿に、セレスティアンは呆れ半分に息を吐きながらも、そっと屈み込んでその小さな頭を撫でた。




