第7話 写真
神崎が奥の資料庫へ消えてから、事務所には重い沈黙が落ちた。
壁際の古いエアコンが低く唸っている。
風間美緒は落ち着かない様子で膝の上の指を組み直した。
「月島玲子って……翔太たちの先輩なんですか?」
神崎が戻る前に、修司が静かに答える。
「可能性が高い。問題は、その失踪事件が『黒い月』とどう繋がっているかだ」
黒田は煙草を吸えない室内に苛立ったように腕を組む。
「十数年前の失踪なんて、普通ならとっくに時効みたいな扱いだろ」
「失踪に時効はない」
「イヤ…そういう意味じゃなくてだな…」
黒田が言いかけた時、奥の扉が軋んで開いた。
神崎が古びた段ボール箱を抱えて戻ってくる。
「これです」
箱の側面には、色褪せたマジックで『黒い月 試演会資料』と書かれていた。
神崎はそれをテーブルへ置き、慎重に蓋を開ける。
中には黄ばんだ台本、舞台図面、チラシ、そして数冊のアルバムが入っていた。
修司は白い手袋を借り、一冊目のアルバムを開く。
スタジオの写真。
若い学生たちが舞台装置を組み立てている。
そこに、先ほど特定した五人の姿があった。
さらにページをめくる。
暗い舞台。
黒い円形の床。
現在の『五匹●黒い月』と酷似した構図。
そして最後のページで、美緒が小さく声を漏らした。
「この人……」
写真の中央に、一人の女性が立っていた。
長い黒髪。
白いワンピース。
年齢は二十歳前後だろうか。
どこか儚げで、それでいて強い視線を持つ美しい女性だった。
写真の下には手書きで
『月島玲子 主演 “月の花嫁”役』 と記されている。
修司の背筋に冷たいものが走る。
舞台写真に写っていた女。
高円寺の部屋に現れた女。
向かいのビルの非常階段に立っていた女。
輪郭が一致していた。
『多分…いえ、間違いありません』
まどかの声が震える。
『この人です』
◆
神崎は苦い顔でアルバムを閉じた。
「玲子は当時、サークルの看板女優でした。演技も才能も突出していた」
「失踪したのは公演当日ですか?」
「千秋楽の夜です」
修司と黒田は顔を見合わせた。
結城翔太と同じだ。
「その話を、詳しく聞かせてください」
神崎はゆっくりと思い出す様に…記憶を辿り始めた。
「公演は国立駅近くの地下スタジオで行われました。観客は三十人ほど。終演後、打ち上げの準備をしていた時に、玲子がいなくなったんです」
「持ち物は?」
「バッグも財布も楽屋に、残ったままでした」
「翔太と同じ……」 美緒が息を呑む。
「警察は家出と事故の両面で捜査しましたが、結局何も見つからなかった。スタジオの地下には古い防空壕跡があったので、そこも徹底的に調べられました」
「それでも見つからなかった?」
「ええ」 神崎は視線を落とした。
「その事件の後、サークルは事実上の解散になりました」
修司はアルバムの最後の写真をもう一度見た。
月島玲子は黒い円の中央に立ち、こちらを真っ直ぐ見つめている。
その視線には、不思議な既視感があった。
まるで「知っていた」かのような目だった。
◆
資料箱の底から、さらに一冊のノートが見つかった。
表紙には『黒い月 演出覚書』。 神崎が眉をひそめる。
「こんなものが残っていたとは……」
修司がページを開く。
そこには演出メモと共に、奇妙な文章が並んでいた。
『月は一人では完成しない』
『五つの影が揃う時、黒い月は開く』
『花嫁は最後に選ばれる』
黒田が露骨に顔をしかめる。
「演劇ってこんな宗教みたいなこと書くものなのか?」
「普通は書かない…と、思う」
さらに読み進めると、最後のページに赤いインクで大きくこう書かれていた。
『五人目を欠いたまま幕を下ろしてはならない』
修司の脳裏に、高円寺の壁に描かれた五つの黒い円が再び浮かぶ。
最後の「五」だけが空白だった。
結城翔太は、何かが「揃っていないこと」を恐れていた。
◆
その時、神崎のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見た瞬間、表情を曇らせる。
「すみません、少し失礼します」奥の部屋へ移動する神崎。
ドアが閉まると、黒田が小声で言った。
「どう思う?」
「まだ…何か隠している」
「だよなぁ…」
「神崎さん、玲子さんの話になると急に様子が変わりました」
修司は資料を整理しながら考える。
神崎はこの事件を知っている。
ただし、すべては話していない。何か理由でも…
その時、まどかが急に鋭い声を上げた。
『修司さん、後ろ!!』
修司は反射的に振り向いた。
事務所の奥、閉じたはずの資料庫の扉が、わずかに開いている。
暗い隙間の向こうに、白い服の裾のような物が見えた。
修司は立ち上がり、ゆっくり近づく。
「相良さん?」
美緒の声を背中に聞きながら、修司は資料庫の扉を押し開けた。
中は狭い、ただの倉庫だった。
棚と段ボールが積まれているだけで、人影はない。
だが、空気が異常に冷たい。
修司はPENTAX LXを構え、ファインダーを覗いた。
すると、棚の奥に白いワンピース姿の女が立っていた。
月島玲子。 今度は顔がはっきり見えた。
青白い肌。
濡れたような黒髪。
そして、深い悲しみを湛えた目。
彼女はゆっくりと口を動かす。声は聞こえない。
だが唇の形はなんとか読み取れた。
「ち…か」 次の瞬間、姿は霧のように消えた。
修司は静かにシャッターを切る。
カシャッ。 音だけが狭い資料庫に響く。
◆
神崎が戻ってきた時、修司は何事もなかったように席へ戻っていた。
「すみません、劇団の連絡でした」
だがその額には薄く汗が浮かんでいる。
修司はさりげなく尋ねた。
「神崎さん。国立の地下スタジオは、今も残っているんですか?」
神崎の動きが止まった。
「……なぜそんなことを?」
「月島玲子さんが、最後にいた場所だからです」
神崎はしばらく黙り込んだ後、観念したように答えた。
「建物自体は取り壊されました。
でも地下部分だけは埋め戻されず
今も封鎖されたまま残ってると聞いてます」
「場所を教えてください」
「国立駅南口から徒歩十五分。旧『KUNITACHI STUDIO』跡地です」
修司はメモを取った。
まどかが静かに囁く。
『さっき玲子さんが言っていました。“ちか”って』
修司は心の中で頷く。答えは国立にある。
十五年前の失踪。封鎖された地下スタジオ。
そして、結城翔太が失踪前に訪れた場所。
◆
新宿を出る頃には、夕方の空に厚い雲が広がっていた。
歌舞伎町のネオンが早くも灯り始めている。
歩道を歩きながら、黒田が低い声で言った。
「次は国立か」
「ああ」
「なーーんか、本格的にヤバい匂いがしてきたなぁ」
「相良さん……本当に行くんですか?」
修司は立ち止まり、夕闇に沈み始めた新宿の街を見上げた。
「翔太さんは失踪前にそこへ行っている。
そして月島玲子も、多分だけど…最後にそこにいた」
風が吹き、チラシの端が揺れる。
黒い月の図柄が、まるで生きているように見えた。
「国立の地下に、何かが残っているかもしれない」
その時、修司のポケットのスマートフォンが震えた。
知らない番号からの着信。
出ると、雑音混じりの女の声が聞こえた。
『……きて』
「…誰だ?」
『ち かで まってる』 そして通話は切れた。
画面を見ると、発信元は存在しない番号だった。
修司はゆっくりとスマートフォンをしまう。
まどかが不安そうに囁く。
『修司さん……呼ばれていますね』
かなり遠くで雷鳴が鳴った。
国立へ続く幕が、重く静かに上がろうとしていた。




