第5話 深夜の出来事
美緒を西荻窪の自宅近くまで送り届けた頃には、午前一時を回っていた。
「今日は本当にありがとうございました」
住宅街の街灯の下で、美緒は何度も頭を下げる。
昼間の派手な印象とは違い、夜の薄明かりの中では年齢よりずっと幼く見えた。
「何か思い出したことがあれば、すぐ連絡してください」
「はい……あの」
美緒は少しだけためらう。
「相良さんって、怖くないんですか?」
「何がです?」
「翔太の部屋で起きたこととか……ああいうの」
修司は少し考えてから答えた。
「怖くないわけではありません。ただ、怖がっている間にも真実は遠ざかるので」
美緒は小さく笑った。
「なんか、映画の探偵みたいですね」
「現実はもっと地味ですよ」
彼女がマンションへ入っていくのを見届けてから、修司はタクシーに乗った。
◆
中野駅に着いた時には、駅前の人通りもかなり減っていた。
アーケードのシャッターは半分以上閉まり、酔客の笑い声だけが夜気に浮かんでいる。
雑居ビルへ戻ると、一階の喫茶店クイーンにはまだ灯りが点いていた。
カウンターでグラスを磨いていた松田ジゼルが顔を上げる。
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったですね」
「高円寺まで行っていました」
「例の失踪事件ですか」
修司が頷くと、ジゼルは棚から小さなポットを取り出した。
「眠気覚ましに濃いコーヒーを淹れます」
「助かります」
カウンター席に腰を下ろすと、ジゼルは手際よく豆を挽き始めた。
深夜の店内にはジャズのピアノが静かに流れている。
「顔色が良くありませんね」
「少し妙なものを見ました」
「幽霊ですか?」
冗談めかした口調だったが、ジゼルの目は真剣だった。
修司は曖昧に笑う。
「まだ断定できません」
ジゼルはカップを差し出しながら、ふと低い声で言った。
「新宿の小劇場街は、昔から変な噂が多いんです」
「噂?」
「戦前の地下劇場が残っているとか、上演中に役者が死んだとか。裏社会でもあまり近づきたがらない場所が、…幾つかあります」
修司は興味を引かれた。
「アステリズム座について何か知っていますか」
「名前だけなら。でも、もし“黒い月”なんて単語が絡んでいるなら、少し気を付けた方がいいかもしれません」
「なぜ?」
ジゼルは一瞬だけ、、言葉を選ぶように沈黙した。
「昔、父から聞いたことがあります。『黒い月』は演劇界の隠語で、“観客を選ぶ舞台”を意味することがあるそうです」
「観客を選ぶ?」
「ええ。舞台が人を呼ぶ、という迷信ですね」
修司はカップを置いた。
偶然にしては出来すぎている。
ジゼルはそれ以上深くは語らず、いつもの穏やかな笑みに戻った。
「徹夜するなら、サンドイッチも作りましょうか?」
「そこまで甘やかさなくて、大丈夫です」
「常連様へのサービスです」
彼女の金色の髪が照明に柔らかく光る。
修司は軽く礼を言って二階へ上がった。
◆
事務所の扉を閉めると、外の喧騒が遠ざかった。
狭い部屋には、資料の山と暗室用品が並んでいる。
修司はすぐにカメラバッグからLXを取り出した。
黒い金属ボディは、まるで生き物のように微かな温もりを帯びている。
「まどか」 …声に出して呼ぶ必要はない
だが、そうすると彼女が近くにいる気がした。
ファインダーを覗く。
次の瞬間、静かな事務所の中に一人の女性が現れた。
四宮まどか。
長い黒髪を肩に流し、白いワンピース姿でこちらを見つめている。
ファインダー越しにしか存在できない、修司だけの亡霊だった。
『お疲れさまです、修司さん』
柔らかな声。
その声を聞くたびに、神ノ島事件の記憶が胸の奥で静かに…疼く。
「今日は随分静かだったな」
『少し、考え事をしていました』
「気になる事があったか?」
まどかは少し視線を伏せた。
『あの舞台の女の人のことです』
修司は現像用のフィルムを取り出しながら尋ねる。
「やはり…普通の霊じゃないのか」
『分かりません。でも、あの人は“ここ”に近い感じがしました』
「ここ?」
『私がいる場所に』
修司の手が止まる。
まどかはカメラに宿る特殊な存在だ。普通の幽霊とは明らかに違う。
『もし同じような存在なら……かなり危険なんです』
◆
暗室代わりに使っている小部屋の赤いランプを点ける。
薬品の匂いが広がる中、修司は慎重にフィルムを現像していった。
水洗いを終え、ネガを光に透かす。
確かに数枚、舞台で撮影したカットがある。
修司は乾燥を待ちきれず、コンタクトプリントを作成した。
一枚目。
黒い円形舞台。
二枚目。
五人の出演者。
三枚目。
結城翔太のアップ。
そして四枚目で、修司の呼吸が止まった。
舞台袖の暗闇。
そこに、白い服を着た女が立っている。
顔はぼやけているが、長い髪と細い身体ははっきり分かる。
さらに奇妙なのは、その女がカメラの方を向いていることだった。
まるで撮影者の存在に気付いていたかのように。
『やっぱり……』
まどかの声が震える。
修司はさらに高円寺の部屋で撮った写真を現像した。
部屋の隅を撮影したはずの一枚。
そこには、壁際に立つ同じ女の姿が写っていた。
しかし今度は、その背後にもう一つ影がある。
背の高い……男?。
輪郭は曖昧だが、舞台衣装のような長いコートを着ている。
「これは……」
修司は写真を拡大鏡で覗き込む。
その胸元に、三日月を逆さにしたペンダントが見えた。
集合写真の五人が身に着けていたものと同じだ。
『修司さん、その人……』
「ああ、見覚えがある」
結城翔太の部屋にあった写真。………その中の誰かだ。
◆
午前三時過ぎ。
修司は机いっぱいに写真を並べていた。
舞台写真。
部屋の写真。
集合写真。
そして五つの黒い円のスケッチ。
点と点が少しずつ繋がり始めている。
その時、事務所の固定電話が鳴った。
深夜の静寂を切り裂くような着信音。
修司は眉をひそめながら受話器を取る。
「相良です」
数秒、無音。
そして、かすれた男の声が聞こえた。
『……五人目を探すな』
修司の目が細くなる。
「誰だ!」
『月はもう欠け始めている』
ザザッというノイズ。
『次は、お前が呼ばれる』
そこで通話は切れた。
すぐに発信者番号を確認する。 公衆電話・番号通知不可。
黒田に連絡しようとした時、まどかが鋭い声を上げた。
『修司さん、窓!』 修司は反射的に振り向いた。
事務所の窓の外。
向かいのビルの非常階段に、白い人影が立っている。
街灯の逆光で顔は見えない。
だが長い髪だけが風に揺れていた。
修司は即座に LXを構え、シャッターを切る。
カシャッ。
次の瞬間、影は階段の闇へ溶けるように消えた。
窓を開けて外を見る。
非常階段には誰もいない。
ただ、夜風だけが吹き抜けていた。
机の上では、現像したばかりの写真が赤いスタンドライトに照らされている。
舞台袖の女。
高円寺の部屋の女。
そして今、向かいのビルに現れた女。
三つの影は、まるで同じ存在が修司を追ってきているかのようだった。
まどかが静かに囁く。
『修司さん……この事件、もう翔太さんだけの問題じゃありません』
修司は窓を閉め、写真を一枚ずつ封筒へしまった。
固定電話の受話器はまだ微かに温かい。
そして机の上の集合写真では、五人の若者たちが
何も知らない笑顔でこちらを見つめ続けていた。
相良修司のイメージ




