第4話 月島という名前
高円寺の古い木造アパートは、夜になると別の建物のようだった。
昼間にはただ古びて見えた廊下も、裸電球が一つだけ灯る今は、長いトンネルのように暗く伸びている。
相良修司は二〇五号室の前にしゃがみ込み、床に残った黒い跡をもう一度指でなぞった。
墨のように粘り気があり、乾いているはずなのに指先へまとわりつく。
「血じゃないな」
黒田慎一が後ろから覗き込む。
「絵の具か?」
「臭いが違う」
修司はハンカチで指を拭った。
微かに焦げたような匂いがする。
風間美緒は少し離れた場所で不安そうに二〇五号室を見つめていた。
古びた表札には、確かに『月島』と書かれている。
だが郵便受けにはチラシが大量に詰め込まれ、長い間人が出入りしていないように見えた。
「管理会社に確認した方がいいな」
黒田が言う。
「今から電話してみる」
修司がスマートフォンを取り出そうとした時――。
カタン。
二〇五号室の中で何かが動く音がした。
三人の視線が一斉にドアへ向く。
沈黙。
古い木材が軋む音だけが聞こえる。
黒田が低い声で言った。
「空き部屋じゃないのか」
美緒が小さく首を振る。
「私、翔太から“隣はずっと空いてる”って聞いてました」
修司はドアノブを見た。
鍵穴には新しい傷がある。
誰かが最近、無理に開けようとしたような跡だった。
「勝手に開けるわけにはいかない」
「でも中に誰かいるかもしれないぞ」
「だからこそ慎重にやる」
修司は耳をドアへ近づけた。
中から物音はしない。
ただ、ひどく冷たい空気が隙間から漏れてくる気がした。
その瞬間、カメラバッグの中でPENTAX LXが熱を帯びる。
――修司さん。
まどかの声はいつもより緊張していた。
――この部屋、見ない方がいいです。
――理由は…聞いても良いか?
数秒の沈黙。
――誰かが、こちらを見ています。
修司はゆっくり顔を上げた。
二〇五号室のドアスコープ。
暗い穴の奥に、確かに何か気配のようなものを感じる。
だが次の瞬間には、ただの黒いガラスにしか見えなかった。
◆
結局、その夜は管理会社へ連絡だけ入れ、これ以上の侵入は避けることにしたて、三人は高円寺駅近くの小さなファミレスへ移動した。
深夜に近い時間だったが、店内にはライブ帰りらしい若者や終電を逃した会社員がまばらに残っている。
美緒は温かいカフェオレを両手で包み込むように持っていた。
「すみません……怖がってばかりで」
「普通の反応です」
修司はドリンクバーのコーヒーを口に運ぶ。
黒田はハンバーグを追加注文していた。
「で、整理しようぜ」
彼はナプキンの裏に簡単なメモを書き始める。
・結城翔太失踪
・舞台『五匹●黒い月』
・女の影
・五つの黒い円
・月島という隣人
「こうして並べると、完全に都市伝説だな」
「問題は、どこまでが事実か…」
修司はテーブルに置いた集合写真を見つめた。
五人の若者。
全員が同じペンダントを着けている。
「この写真の人物、他に名前は分かりませんか」
美緒は写真を覗き込んだ。
「中央が翔太で……左の女の子は多分、篠原真理さんです。サークルの先輩だったと思います」
「連絡先は?」
「SNSで昔は繋がってましたけど……」
美緒はスマートフォンを操作した。
「……あれ?」
「どうしました?」
「アカウントが消えてる」
「最近?」
「半年前くらいまでは確かにあったんです」
黒田が顔をしかめる。
「偶然にしちゃ出来すぎてるな」
さらに写真を拡大すると、裏側に薄く鉛筆で文字が書かれているのが見えた。
修司はスマートフォンのライトを色々な角度から当ててみる。
『KUNITACHI STUDIO B1』
「国立……」 修司は小さく呟いた。
昨日、劇場で見つけた封筒も国立演劇研究会から届いていた。
偶然ではない。
「明日、国立を調べる必要があるな」
その時、美緒が思い出したように顔を上げた。
「翔太、失踪の一週間前に国立へ行ってました」
「一人で?」
「はい。“昔の資料を返しに行く”って」
「どこへ返すと言っていました?」
「そこまでは聞いてませんでした……」
修司はメモを取りながら考える。
国立。
大学時代の演劇サークル。
黒い月の試演会。
そして、失踪前の訪問。
点と点が少しずつ線になり始めていた。
◆
店を出ると、日付はすでに変わっていた。
高円寺駅前のネオンはまだ明るい。
黒田は大きく伸びをする。
「今日はここまでにしようぜ。頭がオカルトでいっぱいだ」
「俺は事務所に戻る」
「徹夜する気か?」
「フィルムを現像したい」
舞台で撮影した写真。
部屋の隅に現れた女の影。
あれを確認しなければ次へ進めない。
美緒は少し迷った後、頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「送りますよ」
「え?」
「こんな時間に、一人で帰すわけにはいきません」
黒田がニヤニヤ笑う。
「お前、やっぱり優しいじゃねえか」
◆
美緒を西荻窪の自宅近くまで送り届けた後、修司は一人で中野へ戻った。
午前一時を過ぎた雑居ビルは静まり返っている。
何故か一階の喫茶店クイーンだけは灯りがついていた。
四宮まどかファインダー内のイメージ




