第3話 高円寺のアパート
中央線の車窓に映る夕暮れは、どこか色褪せて見えた。
新宿を出た電車は、代々木、千駄ヶ谷、信濃町と都心の隙間を縫うように走り、やがて高円寺へ近づいていく。
風間美緒はドア脇に立ったまま、ずっとスマートフォンを握り締めていた。
「大丈夫ですか」
修司が声を掛けると、彼女は慌てて顔を上げた。
「あ、はい。すみません」
「無理に来なくても良かったんですよ」
「でも、翔太の部屋を開けるの、私一人じゃ無理だったと思います」
その言葉には素直な弱さが滲んでいた。
黒田は吊り革につかまりながら、二人を交互に見る。
「お前、こういう時だけ妙に優しいよな」
「依頼人を不安にさせる必要はない」
「はいはい、真面目な先生」
高円寺駅に着くと、駅前の喧騒が一気に押し寄せてきた。
古着屋、ライブハウス、居酒屋、雑貨店。雑多な文化が混ざり合ったこの街は、中野とはまた違う種類の熱気を持っている。
美緒に案内され、三人は駅南口から十分ほど歩いた。
商店街を抜け、さらに細い住宅街へ入る。
目的のアパートは、築三十年ほどの古い木造二階建てだった。
外壁は薄く剥がれ、階段の鉄骨には赤錆が浮いている。
「ここです」
美緒が二〇三号室の前で立ち止まった。
ドアノブには警察が貼った確認済みの小さなシールが残っている。
「鍵は?」
「管理会社から預かっています」
美緒が震える手で鍵を差し込み、ゆっくり回した。
ガチャリ、と重い音がした。
部屋の中から、閉め切った空気が流れ出てくる。
◆
ワンルームの狭い部屋だった。
だが、意外なほど整頓されている。
ベッドのシーツも乱れておらず、テーブルの上には台本とペットボトルが置かれたままになっていた。
「思ったより普通だな」
黒田が部屋を見回す。
修司は入口で靴を脱ぎ、静かに室内へ入った。
カメラバッグの中のPENTAX LXが、わずかに温かい。
――修司さん。
――何かあるか。
――奥の棚を見てください。
修司は視線を向けた。
本棚の横に、小さなコルクボードが立て掛けられている。
そこには舞台のチケット半券、劇団の写真、メモ書きなどが無造作に貼られていた。
そして中央に、黒いマーカーで描かれた五つの円。
美緒が息を呑む。
「これです……!」
五つの黒い円が横一列に並んでいる。
その下には数字。
一
二
三
四
そして最後の五だけが空白になっていた。
修司は近づいて観察する。
マーカーのインクは比較的新しい。
「いつ頃描かれたか分かりますか」
「失踪の三日前くらいに来た時にはありませんでした」
黒田が腕を組む。
「単なる舞台のメモじゃないのか?」
「その可能性もある」
修司は壁を見渡した。
すると、ベッド脇に積まれたノートが目に入る。
表紙には『五匹●黒い月 稽古メモ』と書かれていた。
ページを開く。
最初の数ページは普通の役作りの記録だった。
『第三場、感情を抑えすぎない』
『月を見る時、恐怖より懐かしさ』
『黒田(役名)との距離感を修正』
しかし途中から筆跡が乱れ始める。
『袖に女が立っている』
『また客席にいる』
『今日は二人になっていた』
『四人目が増えた』
最後のページには、殴り書きのようにこう記されていた。
『五人目が揃う前に終わらせないと』
美緒の顔が青ざめる。
「こんなの……見たことありません」
修司はページを閉じた。
「翔太さんは最近、誰かと揉めていませんでしたか?」
「劇団の人とは特に……でも、昔の知り合いと連絡を取っていたみたいです」
「昔の知り合い?」
「大学の演劇サークルのメンバーです。三鷹でよく集まっていたって」
三鷹。
修司は頭の中でその地名を記憶に留めた。
◆
その時だった。
カチ、と小さな音がした。
三人が同時に振り向く。
部屋の隅に置かれた古いCDラジカセの電源ランプが点灯していた。
「……誰か触ったか?」
黒田が眉をひそめる。
「触ってません」
美緒は修司の後ろへ半歩下がった。
ラジカセから、ザーッというノイズが流れ始める。
そして。
『……まだ……』
低い男の声が混じった。
美緒が悲鳴を飲み込む。
黒田がすぐにラジカセへ近づき、停止ボタンを押した。
音は止まる。
「テープが入ってるだけだろ」
しかし黒田がカセット蓋を開けると、中は空だった。
「……おい」
部屋の空気が一気に冷える。
修司は無言でカメラバッグを開き、LXを取り出した。
ファインダーを覗く。
すると、肉眼では何もない部屋の隅に、ぼんやりと白い影が立っていた。
長い髪。
顔は見えない。
舞台写真に写っていた女と同じ輪郭だった。
――修司さん、右です!
まどかの声と同時に、影がすっと壁の中へ消えた。
修司は素早くシャッターを切る。
カシャッ。
フィルムの巻き上げ音だけが響いた。
「何が見えた?」
黒田が真剣な表情になる。
「女だ」
「また霊か?」
「断定はできないが、少なくとも普通ではない」
美緒は唇を震わせていた。
「翔太、本当に何かに怯えてたんだ……」
修司は現像前のフィルムを慎重に巻き戻す。
まどかが静かに告げる。
――あの人、何かを探しています。
――何を探してる?
――…五人目を。
その言葉が、壁の黒い円と奇妙に重なった。
◆
さらに部屋を調べていると、クローゼットの奥から古い封筒が見つかった。
差出人は『国立演劇研究会』。
中には五人の若者が写った集合写真が入っていた。
大学時代らしい。
中央に結城翔太。
その周囲に男女四人。
写真の裏には手書きで、
「黒い月・試演会 記念」と記されていた。
「試演会?」
黒田が写真を覗き込む。
「この舞台、大学時代からやってたのか?」
美緒は首を振った。
「翔太、そんな話したことありません」
修司は写真を注意深く見る。
五人全員が同じ黒いペンダントを身に着けている。
三日月を逆さにしたような、不気味な形だった。
その時、玄関の外でギシッと床が鳴った。
三人の動きが止まる。
誰かが廊下を歩いている。
古い木造アパート特有の軋み。
だが、その足音は二〇三号室の前でぴたりと止まった。
コン、コン。
ゆっくりと二回、ノック。
美緒が小さく息を呑む。
黒田が無言で玄関へ向かい、勢いよくドアを開けた。
しかし、廊下には誰もいない。
裸電球が揺れ、夏の湿った風が吹き抜けるだけだった。
「……いたずらか?」 黒田が外を見回す。
その時、修司の視線が床に落ちた。
玄関の前の木の床に、黒い水滴のような跡が点々と続いている。
まるで濡れた足で立っていたかのように。
だが、それは水ではなかった。
指で触れると、墨のように黒く指先へ付着した。
そして跡は、廊下の突き当たりではなく――
二〇五号室の前で途切れていた。
古びた表札には、かすれた文字でこう書かれている。
「月島」
修司はその名前を見つめたまま、静かに言った。
「黒田、隣の部屋の住人を調べる」
「何か引っ掛かったか?」
「ああ。翔太の失踪は、劇場だけの話じゃない」
廊下の奥から、どこか遠くで女が笑ったような気がした。
しかし次の瞬間には、高円寺の夜の喧騒だけが残っていた。
松田ジゼルのイメージ




