第2話 舞台の終幕
翌朝、中野はすでに真夏の光に焼かれていた。
相良修司が事務所へ入ると、窓際のデスクに黒田慎一が勝手に腰を下ろしていた。
「おう、朝から嫌な顔してんな」
「鍵を勝手に複製したのか?」
「昨日ジゼルさんに開けてもらった」
黒田はプロテイン飲料を片手に笑う。
体格の良い彼が狭い事務所にいると、部屋がさらに狭く感じられる。
「で、また面倒な依頼か?」
修司はクリアファイルを机に置いた。
「劇団員の失踪だ。新宿の小劇場で公演中に消えた」
「公演中?」
「終演後に楽屋からいなくなった。財布もスマホも残したまま」
黒田は口笛を吹いた。
「そりゃ確かに普通の家出じゃねえな」
そこへノックの音がした。
風間美緒だった。
今日は黒いTシャツにカーゴパンツというラフな格好で、昨日より少しだけ落ち着いて見える。
「おはようございます」
「早いですね」
「じっとしていられなくて」
美緒は修司の前に座り、小さく頭を下げた。
「今日は劇場に行くんですよね?」
「ええ。まず現場を見る」
「私も一緒に行っていいですか?」
修司は一瞬考えた。
依頼人を現場に連れて行くのは本来好ましくない。だが、劇団関係者への聞き込みでは彼女の顔が役立つ可能性もある。
「危険だと判断したら帰ってもらいます」
「はい」
黒田が立ち上がった。
「じゃあ俺も付き合う。最近デスクワークばっかで身体が鈍ってんだよ」
「筋トレじゃ足りないのか」
「現場は別腹だ」
三人は昼前に中野駅から中央線へ乗り、新宿へ向かった。
◆
歌舞伎町から少し外れた雑居ビル街。
目的の小劇場「アステリズム座」は、地下へ続く細い階段の先にあった。
入口にはすでに次回公演のポスターが貼られている。
だが、その脇にはまだ『五匹●黒い月』のチラシが数枚残っていた。
地下へ降りると、薄暗いロビーに漂う独特の匂いが鼻をつく。
埃、木材、古いカーテン、そして微かな化粧品の香り。
舞台にしか存在しない空気だった。
「うわ、いかにも小劇場って感じだな」
黒田が周囲を見回す。
受付には三十代半ばほどの女性スタッフがいた。
美緒が名乗ると、彼女は警戒した表情を浮かべた。
「また翔太くんの件ですか……」
「相良です。調査を依頼されています。少しお話を伺えますか」
修司が名刺を差し出すと、女性はため息をついた。
「私は制作の佐伯です。警察にも話しましたけど、分かっていることは少ないですよ」
ロビーの隅で話を聞くことになった。
「失踪当日の流れを教えてください」
佐伯は記憶を辿るように語り始めた。
「八月二十七日、千秋楽でした。客入りも良くて、終演は九時十分頃。カーテンコールの後、出演者は楽屋へ戻りました」
「その時、結城翔太さんは?」
「確かにいました。衣装係とも話していたし、汗を拭いているのを見ています」
「その後は?」
「十分くらいして、次の打ち上げの準備で呼びに行ったらいなかったんです」
「裏口は?」
「施錠されていました。表の入口を通ったなら誰かが気付くはずです」
黒田が腕を組む。
「地下に他の出入口は?」
「搬入口がありますけど、そこも監視カメラがあります」
「映像は?」
「警察が確認しました。でも、翔太くんが出ていく姿は映っていないそうです」
修司の視線が自然と舞台の方へ向く。
「客席を見せてもらえますか」
佐伯は少し迷ったが、やがて頷いた。
◆
客席は百席にも満たない小さな空間だった。
黒い壁、低い天井、むき出しの照明。
舞台中央には、黒い円形の床が残されている。
「これが劇中の“黒い月”です」
佐伯が説明する。
「月?」
「物語では、五人の登場人物が“黒い月”に集められるんです」
修司は舞台へ上がった。
円形の床材は普通の塗装に見える。だが、近付くと表面に細かな傷が無数に刻まれていた。
まるで何度も鋭いもので引っ掻かれたような痕跡だった。
「妙な傷だな」
黒田も舞台へ上がる。
「演出用じゃないのか?」
修司はしゃがみ込み、指先で傷をなぞった。
その瞬間――
カメラバッグの中で、PENTAX LXがかすかに震えた。
――修司さん。
まどかの声が響く。
――この場所、嫌な感じがします。
修司は表情を変えずに立ち上がった。
「舞台写真は残っていますか?」
「あります。広報用に撮影したデータなら」
佐伯が事務所からノートPCを持ってきた。
千秋楽の写真が次々と表示される。
暗い照明の中、五人の出演者が黒い円を囲んで立っている。
その中央に、結城翔太。
修司は画面を拡大した。
「止めてください」
翔太の背後、舞台袖の暗闇。
そこに、ぼんやりと白い輪郭が浮かんでいた。
長い髪の女のようにも見える。
「これ、誰です?」
佐伯は画面を見て首を傾げた。
「え……そんな人、写っていました?」
黒田も顔を近付ける。
「照明の反射じゃないのか?」
しかし、修司には違うと分かっていた。
まどかの声が静かに告げる。
――昨日のチラシと同じです。
修司はノートPCから視線を外した。
「結城さんは最近、何か変わった様子はありませんでしたか」
佐伯は困ったように笑った。
「正直、少し変でした」
「具体的には?」
「稽古の途中で急に振り返ったり、誰もいない袖に向かって話しかけたり……」
「何と言っていました?」
「“また来てる”って」
客席の空調音だけが低く響く。
「他の出演者も見た?」
「いいえ。だから皆、役に入り込みすぎているだけだと思っていました」
その時、美緒が小さく口を開いた。
「翔太、私にも似たことを言ってました」
二人が彼女を見る。
「“舞台の女が増えていく”って」
「増えていく?」
「最初は一人だったのに、稽古が進むたびに客席に立つ女の人が増えていくって……」
「完全にホラーじゃねえか」 黒田が眉をひそめる。
「本人は本気で怯えていました。だから病院を勧めたんです。でも、“あれは病気じゃない”って」
修司は再び舞台を見渡した。
黒い円。
五人の役者。
そして、存在しないはずの女の影。
何かがこの舞台に残っている。
そんな直感があった。
◆
劇場を出た時には、外は夕方になっていた。
新宿の雑踏が地下の静けさを一気に洗い流していく。
「どう思う?」
黒田が煙草を取り出しながら聞く。
「少なくとも、普通の失踪ではない可能性が高い」
「霊的な意味で?」
「まだ……断定はしない」
修司はチラシを取り出した。
黒い月の周囲に描かれた五つの影。
よく見ると、それぞれ微妙に形が違う。
まるで五人の人間を歪めたような輪郭だった。
その時、美緒が思い出したように言った。
「そういえば……翔太の部屋に変な絵がありました」
「どんな?」
「黒い丸が五つ並んでいて、その下に数字が書いてあったんです」
「数字?」
「一、二、三、四……最後の五だけ空白でした」
修司と黒田が顔を見合わせる。
「部屋はどこです?」
「高円寺です。駅から徒歩十分くらい」
修司は即座に決めた。
「今から行きます」
「え、今から?」
「時間が経つほど痕跡は消える」
美緒は不安そうに頷いた。
三人は新宿駅へ向かって歩き出す。
夕焼けに染まる高層ビルの隙間から、白い月が薄く浮かんでいた。
その月を見上げた瞬間、修司の耳元でまどかが囁く。
――修司さん。
――なんだ。
――さっきの舞台写真、もう一度見たいです。
――気になるのか。
数秒の沈黙の後、まどかは珍しく迷うような声で答えた。
――あの女の人……私を見ていました。
修司の足がわずかに止まる。
ファインダー越しにしか存在できないはずのまどかを、“向こう側”の何かが認識していた。
その事実が、夏の夕暮れの熱気とは別種の冷たさとなって、静かに背筋を這い上がっていった。
風間美緒イメージ




