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第1話 依頼人



中野駅北口を出ると、湿った夜風がアーケードの隙間を吹き抜けていた。

八月の東京は、昼間に溜め込んだ熱を夜になっても吐き出し続ける。居酒屋の呼び込みの声、古着屋の閉店作業、遠くで鳴る救急車のサイレン。それらが混ざり合って、中野という街特有の雑多な呼吸を作っていた。


相良修司は細い路地へ入っていく。

築四十年は超えているであろう雑居ビル。その二階に、彼の事務所はあった。


看板には小さく『相良調査企画』とだけ書かれている。

探偵事務所ではない。だが、雑誌社の取材、企業の内部調査、警察からの情報整理の依頼など、気付けば「調査屋」に近い仕事ばかり引き受けるようになっていた。


階段を上がろうとした時、一階の喫茶店から声が掛かった。

「修司さん、今日は遅かったですね」


柔らかな声。

カウンターの奥でグラスを磨いていたのは、喫茶店クイーンのオーナー、松田ジゼルだった。金色の髪をゆるくまとめ、細いフレームの眼鏡を掛けている。白いブラウス越しにも分かる豊かな曲線は、店の常連客たちの視線を自然と引き寄せていた。


「取材帰りです。新宿で編集者に捕まりまして」

「またサービス残業みたいなものですか?」


「フリーライターに労働基準法はありません」

 修司が肩をすくめると、ジゼルは小さく笑った。


「アイスコーヒー、淹れますよ。顔が疲れています」

「助かります」


修司は素直に店へ入った。

クイーンは昭和の香りを残した純喫茶だった。赤いビニールソファ、古いジャズのレコード、壁に掛かった振り子時計。中野の再開発から取り残されたような空間だが、それが逆に落ち着く。


カウンター席に腰を下ろすと、ジゼルが氷の入ったグラスを置いた。

「今日はお客さんが来ていましたよ」

「俺に?」


「ええ。二十分くらい前に」

ジゼルの視線が入口付近へ向く。


そこには、一人の若い女性が座っていた。

小柄で細身。茶色く染めた髪の片側を耳に掛け、ピアスがいくつも光っている。オーバーサイズの黒いパーカーにショートパンツという、今どきの若者らしい格好だった。

だが、スマートフォンを握る指先だけが落ち着きなく震えている。

修司が軽く会釈すると、彼女は慌てて立ち上がった。


「あ、相良修司さん……ですよね?」

「そうですが」

「風間美緒と申します。…突然すみません」

声は明るい調子を装っていたが、目の下には薄い隈があった。

修司は向かいの席を示す。


「座ってください。ジゼルさん、この人にも何か」

「かしこまりました」

美緒は深く頭を下げてから座った。


「依頼、したくて来ました」

「んー、内容によりますね」


「こ、…友人を探してほしいんです」

その言葉に、修司の表情がわずかに引き締まる。


失踪案件は珍しくない。しかし、彼女の口調には単なる家出相談とは違う切迫感があった。


「警察には?」

「出しています。でも、事件性が薄いって言われてしまって……」


美緒はスマートフォンを操作し、一枚の写真を見せた。

そこに写っていたのは、黒髪の男性だった。

三十四、五歳。痩せ型で、舞台役者らしい整った顔立ちをしている。照明を浴びて笑っている写真だった。


「名前は結城翔太です。劇団員です」

「いつから行方不明に?」


「十日前です」

 修司は写真を見つめたまま尋ねる。


「失踪した状況を詳しく」

美緒は唇を噛み、ゆっくりと言った。


「舞台の公演中に消えたんです」  店内のジャズが、妙に遠く聞こえた。

「公演中…ですか?」

「新宿の小劇場で『五匹●黒い月』っていう舞台をやっていて……終演後、翔太だけいなくなったんです」


「楽屋から?」

「はい。最後のカーテンコールまでは確かにいたって、みんな言っています。でも、着替えも途中で、スマホも財布も残ったままで……」


 修司は腕を組んだ。

 財布とスマートフォンを置いたまま姿を消す。計画的失踪としては不自然だ。


「劇団の人間関係は?」

「悪くなかったと思います。でも……」


「でも?」

 美緒は視線を落とした。

「最近の翔太、変だったんです」

 ジゼルが静かにコーヒーを置く。


「どんなふうに?」

「『あの舞台は普通じゃない』って何度も言ってました」

 修司は眉をひそめた。


「…普通じゃない?」

「台本にない声が聞こえるとか、稽古中に知らない女の人を見たとか……最初は役作りで神経質になってるだけだと思ってたんです」


そこで美緒は顔を上げた。

「でも、本当に消えた」

その瞬間だけ、彼女の強がりが完全に剥がれ落ちた。


修司は数秒沈黙した後、口を開く。

「風間さん。あなたは、結城翔太さんとどういうご関係ですか?」

美緒は一瞬だけ答えに詰まった。

「大学時代の後輩です。同じ演劇サークルで……」

「恋人ではない?」

「違います」

否定は早かったが、少しだけ声が揺れた。

修司はそれ以上追及しなかった。


「何か資料や手掛かりのような物はありますか?」

「これなんですけど……」

美緒はバッグからクリアファイルを取り出した。


舞台のチラシ、劇団のプロフィール、公演スケジュール。そして中央に、黒い満月のようなデザイン。

タイトルには、確かにこう印刷されていた。


『五匹●黒い月』


丸印の部分だけが黒く塗り潰されている。


「誤植じゃないんですか?」

「私も最初そう思いました。でも、公式サイトも全部この表記なんです」

チラシを指でなぞる…。黒い月の周囲に、五つの小さな影が描かれている。犬にも猫にも見えない、なんだか歪んだ生き物のシルエットだった。


その時だった。

カメラバッグの中で、かすかな振動がした。

修司は表情を変えずにバッグへ手を入れる。

愛用のPENTAX LX。

金属の冷たい感触が、わずかに熱を帯びていた。


――修司さん。

頭の奥で、柔らかな女性の声が響く。

四宮まどか。

神ノ島事件で命を落とし、今はこのカメラに精神を宿している存在だった。

修司はバッグを膝の上に置いたまま、心の中で問い返す。


――何か見えるのか。

――そのチラシ、裏を見てください。


修司は自然な動作でチラシを裏返した。

そこには出演者一覧が印刷されている。

結城翔太の名前。

そのすぐ下に、黒いインクが滲んだような小さな染みがあった。


いや、染みではない。

五本の細い指で触れたような跡だった。

修司の視線が止まる。


「どうしました?」

美緒が不安そうに尋ねる。


「……いえ。少し気になることが」

修司はチラシをファイルに戻した。


「依頼は……引き受けます」

美緒の顔がぱっと明るくなる。


「本当ですか?」

「ただし、失踪が単純な家出である可能性もあります。それでも構いませんか?」

「はい。それでも……翔太が生きてるのかだけでも知りたいんです」

 その言葉には嘘がなかった。


 修司は立ち上がり、事務所の鍵を取り出す。


「詳しい話は上で聞きましょう。明日から劇場と劇団関係者を当たります」

美緒は何度も頭を下げた。

階段を上がりながら、修司はカメラバッグを軽く叩く。

すると、まどかの声が再び響いた。


――修司さん。

――なんだ。

――あの黒い跡……人の手じゃありませんでした。


修司は足を止めなかった。

だが胸の奥で、神ノ島以来ほとんど感じることのなかった冷たい感覚が静かに広がっていた。


中野の夜は、相変わらず騒がしい。

しかしその喧騒の向こうで、まだ見ぬ舞台の幕が、ゆっくりと上がり始めていた。

相良修司イメージ

挿絵(By みてみん)


黒田慎一のイメージ

挿絵(By みてみん)

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