第29話 クイーンの地下
喫茶店クイーンの店内は
いつもと変わらぬ静けさを装っていた。
磨かれた木のカウンター。
壁に並ぶ古いコーヒーカップ。
ジャズのレコードが小さく流れている。
だが修司には、床の下から
微かに響く拍手がはっきり聞こえていた。
パチ……パチ……パチ……。
松田ジゼルはカウンターの奥で
コーヒーを淹れながら、静かに言った。
「聞こえていますね」
修司は頷く。
「地下からだ」
黒田慎一が床を見下ろす。
「マジで?!この下にまだ何かあるのか?」
ジゼルはカウンターの端に置かれた
古い真鍮の鍵を手に取った。
「クイーンには、代々オーナーしか知らない地下室があります」
美緒が驚いた顔をする。
「そんな場所が……」
「普段は倉庫としてしか使っていません。でも、もっと古い部分が残っているんです」
修司はフィルム写真を思い出した。
昭和十二年の黒月座。
裏路地に写っていた石階段。
それが今もこの店の地下に存在している。
◆
閉店後。
店のシャッターを下ろし
ジゼルはカウンター奥の棚を動かした。
すると床に古い木製の扉が現れる。
真鍮の鍵を差し込み、ゆっくり回す。
ギィ……。
湿った空気が吹き上がってきた。
暗い石階段が下へ続いている。
「本当にあった……」 翔太が息を呑む。
ジゼルは小さなランタンを灯した。
「気を付けてください。私もここより下へは降りたことがありません」
黒田が苦笑する。
「最近、誰も行ったことのない地下ばっかりだな」
修司は LXを握り直し、先頭で階段を降り始めた。
◆
階段は思ったより深かった。
石は古く、ところどころ苔が生えている。
十数段降りた先に、小さな地下倉庫があった。
古いワイン樽や木箱が並んでいる。
「ここまでは普通の地下室です」
ジゼルが説明する。
だが倉庫の奥の壁には、不自然な継ぎ目があった。
修司がライトを当てると
レンガの一部に…月の紋章が刻まれている。
「またこれか……」 黒田が低く呟く。
ジゼルは少し躊躇した後、壁際の木箱をどかした。
すると、その裏にさらに下へ続く細い石段が現れた。
冷たい風が吹き上がってくる。
そして今度は全員に聞こえた。
パチ……パチ……。
地下のさらに奥から響く拍手。
◆
細い石段を降りると、空気が急に変わった。
湿気の中に、古い舞台の木材の匂いが混じっている。
通路の先に、小さな地下ホールが現れた。
そこは新宿最深部ほど巨大ではない。
だが構造はよく似ていた。
半円形の客席。
低い舞台。
そして舞台中央には
焼け焦げた黒い円の痕跡が残っている。
「黒月座……」
ジゼルは静かに周囲を見回した。
「子供の頃、一度だけ祖母に
“地下へ近づくな” と言われたことがあります」
彼女の祖母。
つまり、この場所を知っていた人物が松田家にはいたことになる。
修司は舞台へ近づいた。
黒い円は半分以上焼けて崩れている。
しかし完全には消えていない。
そして舞台袖には、小さな映写室のような部屋が残っていた。
◆
映写室の中には、古い映写機とフィルム缶が並んでいた。
ほとんどは腐食している。
だが一つだけ、比較的新しい缶が残っていた。
ラベルにはこう書かれている。
『五匹と黒い月 その後』
全員が息を呑む。
修司は慎重に缶を開けた。
中には16ミリフィルムが収められている。
真壁の工房で見た昭和十二年のフィルムより新しい。
おそらく戦後に撮影されたものだ。
黒田が顔をしかめる。
「その後って……誰が撮ったんだ?」
その時、PENTAX LXが再び熱を帯びた。
まどかの声が緊張を含む。
『修司さん、映写機を見てください』
古い映写機のリールが、
誰も触れていないのにゆっくり回り始めていた。
カタ……カタ……。
次の瞬間
地下ホールの白い壁に映像が投影されたーー
◆
モノクロ映像だった。
昭和二十年代と思われる地下ホール。
そこに、一人の女性が映っている。
和服姿の若い女性。
ジゼルが小さく息を呑んだ。
「……祖母です」
映像の中の女性はカメラに向かって話していた。
音声はない。だが唇の動きが読める。
「月は消えていない」
女性は舞台中央を指差す。
そこには、焼け残った黒い円があった。
次の映像。
女性は何かを地下へ運び込んでいる。
白木の椅子だった。
修司の心臓が強く脈打つ。
新宿最深部で燃やしたはずの「最初の席」と同じ形。
映像はさらに続く。
女性は椅子を舞台中央へ置き
カメラに向かって深く頭を下げた。
そして最後に、地下ホールの入口を
レンガで封鎖していく………
映像が途切れる直前
背後の客席に黒いコートの男が立っていた。
六人目だ。
しかし女性は振り返らない。
まるで最初からそこにいることを
知っていたかのようだった
◆
映像が止まる。
地下ホールに重い沈黙が落ちた。
ジゼルはしばらく動かなかった。
「祖母は……黒月座の後始末をしていたんですね」
修司は映写機の横に置かれていた古いノートを開く。
そこには達筆な字でこう書かれていた。
『松田家覚書』
最初のページ。
『五匹が失敗した時、月を見る者を守れ』
次のページ。
『記録者がいなくなれば、月は再び観客を選び始める』
そして最後に、
『黒月座の地下には、まだ一人残っている』
という一文が記されていた。
黒田が顔をしかめる。
「一人って誰だ?」
その瞬間
地下ホールの客席の一番奥で
ギシリと椅子が軋んだ。
全員が振り向く。
暗闇の最後列。
そこに、誰かが座っている。
黒いコートではない。
白いシャツ姿の若い男。
修司はライトを向けた。
男は静かに顔を上げる。
青白い顔。
痩せた身体。
そしてその胸元には
逆さ三日月のペンダントが揺れていた。
男はゆっくり口を開く。
「……やっと、 月を見る者が来た 」
次の瞬間、地下ホールの照明が一斉に点灯し、舞台中央の焼け焦げた黒い円が、再び淡い銀色の光を放ち始めた。




