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第28話 フィルム




夜明けの新宿を離れ、中野へ戻った頃には空は薄い青に染まり始めていた。

雑居ビルの一階、喫茶店クイーンはまだ開店前だったが、松田ジゼルはすでに店にいた。


彼女は修司たちの顔を見るなり、何も聞かずにカウンターの奥からコーヒーを淹れ始める。


「生きて戻ってきた顔ですね」


黒田慎一が苦笑した。


「毎回それ言われる気がする」


修司はバッグを静かにカウンターへ置く。

中には、『五匹と黒い月』

そして、『黒月座 昭和十二年 最終幕』

と書かれたフィルム缶が入っている。


ジゼルはフィルム缶を見た瞬間、わずかに表情を変えた。


「かなり古いですね」

「現像できそうですか?」


「店では無理です。でも、知り合いに古い銀塩フィルム専門の技師がいます」


修司は頷いた。


「お願いします」


  ◆


二階の事務所。


翔太はソファで眠り込み

美緒もその隣で静かに目を閉じていた。


極限状態が続いていたせいで

二人とも完全に疲れ切っている。


修司は机にPENTAX LXを置いた。

カメラはまだ微かに温かい。


『修司さん』


 まどかの声は以前より少し弱い。


「無理をさせた」


『大丈夫です。でも……カメラの中に“何か”が残っています』


修司はファインダーを覗く。

普段ならまどかの姿が見える。

しかし今は、その背後にぼんやりと

暗い客席のような影が映り込んでいた。


 最後列。


そこに黒いコートの男が座っている。


 六人目だ。


男は静かに拍手をしていた。


 パチ……パチ……パチ……パチ……。


修司が目を離すと、映像は消えた。


     ◆


 昼過ぎ。


ジゼルが紹介した技師の工房へ向かうことになった。

場所は高円寺の古い商店街の外れ。

看板もない小さな写真工房だった。


店主は七十代くらいの痩せた老人で、

名前を真壁昭一と名乗った。


修司がフィルム缶を差し出すと

真壁は手袋をはめて慎重に蓋を開ける。


「昭和十二年……よく残っていたもんだな」


彼はフィルムを光に透かし、眉をひそめた。


「普通の保存状態じゃない。まるで昨日撮ったみたいだ」


修司と黒田は顔を見合わせた。

地下最深部にあったものが

そんな状態で残っているはずがない……


「現像できますか?」

「やってみよう。ただし時間がかかる」


真壁は暗室へ消えていった。


  ◆


待っている間、高円寺の古い喫茶店で

時間を潰すことになった。


美緒は温かい紅茶を両手で包みながら

ようやく少し落ち着いた様子を見せていた。


「まだ夢みたいです」

「俺も半分そう思ってる」


黒田がコーヒーをすすりながら言う。


「地下にあんな場所があるなんて、誰が信じるんだ」


翔太は窓の外を見つめたまま呟く。


「でも玲子さんは、本当にいた」


その言葉に、店内の空気が少し静かになった。


修司はふと尋ねる。


「翔太さんは、これからどうしますか」


翔太は苦笑した。


「劇団には戻れません。神崎さんもたぶん解散を考えるでしょう」


「後悔してますか?」


「逃げ続けていたことは後悔してます。

 でも、戻ったから玲子さんと遼のことを知れた」


彼の表情には、以前のような軽さはなかった。

十五年前の罪と向き合った人間の顔になっていた。



  ◆



夕方近く、真壁から連絡が入った。

工房へ戻ると、老人は黙って数枚の印画紙を机に並べた。


「覚悟して……見た方がいい」


修司は最初の写真を手に取る。

そこには昭和初期の地下劇場が写っていた。


 舞台中央。


五匹の面をつけた役者たち。


 犬、猫、狐、烏、蛇。


彼らは円形の舞台を囲むように立っている。


 二枚目。


客席の最後列。


 黒いコートの男が座っている。


顔はかなりぼやけているが…

六人目と同じ存在だと分かった。


 三枚目。


五匹の役者たちが、一脚の白木の椅子を舞台中央へ運んでいる。

その背後で、蛇腹式カメラを構える青年が写っていた。


 そして最後の一枚。


修司たちは息を呑んだ。


  ◆


そこに写っていたのは、地下劇場の舞台ではなかった。

どこかの雑居ビルだった。


現在、修司の事務所と…

喫茶店クイーンが入っている建物……?


もちろん当時の姿で、まだ木造部分が多い。

しかし写真の裏路地には

地下へ続く石階段がはっきり写っていた。


黒田が思わず声を上げる。


「おい、これ……俺たちのビルじゃねえのか!」


美緒も青ざめる。


「そんな……」


真壁が低く言う。


「この写真の撮影場所、分かるのか?」


修司は静かに頷いた。


「多分、中野です。俺の事務所がある場所だ」


真壁はしばらく黙っていたが

やがて古い封筒を取り出した。


「実はな、そのビルの写真を見て思い出したことがある」


封筒の中には、戦後の都市再開発資料のコピーが入っていた。


そこには、


 『旧・黒月座跡地』


という文字が記されている。


修司の心臓が強く脈打った。


「黒月座……」


「昭和二十年代に火災で消失した地下劇場だ。跡地に現在の雑居ビルが建てられたと記録されている」


つまり、修司が何年も事務所を構えていた場所は――


黒い月の最初の劇場の真上だった。


  ◆


中野へ戻る途中、修司は無言だった。


電車の窓に映る自分の顔が、どこか別人のように見える。


まどかが静かに囁く。


『だから修司さんが選ばれたんですね』


ーー最初から、あの場所にいたからか?


『偶然ではないと思います』


 夜。


雑居ビルへ戻ると、一階のクイーンにはいつものように灯りが点いていた。

ジゼルは修司たちの表情を見るだけで

何か重大な事実を掴んだことを察していた。


「何が…写っていましたか?」


 修司は最後の写真をテーブルに置いた。


ジゼルはそれを見た瞬間、ゆっくり眼鏡を外す。


金色の髪が、ゆっくりと肩へ落ちた。


「……やはり」

「知っていたんですか?」


ジゼルはすぐには答えなかった。

代わりに、写真に写る石階段を指差す。


「その階段、今も残っていますよ」


修司の背筋に冷たいものが走る。


「どこに」


ジゼルは静かに微笑んだ。


「クイーンの地下です」


その瞬間、一階の店内のどこか下から

微かに拍手の音が聞こえた気がした。


 パチ……パチ……パチ……


修司はゆっくり床を見下ろす。

黒い月の舞台は、新宿で終わってはいなかった。


それは最初からずっと

この雑居ビルの地下で待っていたのだ………





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