第26話 五匹と黒い月
最深部の巨大空間は
崩壊の余韻をまだ引きずっていた。
観客席は静まり返り
先ほどまで響いていた無数の拍手も消えている。
残っているのは、崩れた石の匂いと
舞台の奥から漂う冷たい風だけだった。
中央に置かれた黒い台本――
『五匹と黒い月』
その文字だけが、不自然なほど鮮明だった。
相良修司はゆっくり近づく。
月島玲子はまだ薄く残っているが
その光は先ほどより、弱くなっていた。
「触っても大丈夫なのか?」
玲子は少し迷うような表情を見せる。
「……分からない。
それは私たちが見ていた
“黒い月” より古いものなの」
黒田慎一が周囲を警戒しながら言う。
「嫌な予感しかしねえぞ」
風間美緒は
修司のすぐ後ろに立ったまま
離れようとしない。
「でも、ここまで来て
開かないわけには…いきませんよね」
修司は静かに頷き、台本を手に取った。
◆
表紙は綺麗な革張りだった。
触れた瞬間、ひどく冷たく感じた。
「黒い月」の原本のような、強い拒絶感はない…
ページを開く。
最初に書かれていたのは、奇妙な前書きだった。
『これは舞台ではない』
『五匹が月を閉じるための記録である』
さらに読み進める。
そこには五人の役名が並んでいた。
犬
猫
狐
烏
蛇
そして最後に、… 月を見る者
という役名が書かれている。
「六人いる……?」 翔太が眉をひそめた。
修司も同じことに気付いていた。
だが最後の役だけ名前ではなく
「見る者」としか書かれていない。
そのページの余白には、古い筆跡でこう記されていた。
『五匹は、封印する者
月を見る者は、記録する者』
まどかが小さく呟く。
『記録する者……』
◆
次のページを開いた瞬間
修司の視界が大きく揺れた。
地下最深部が消える。
代わりに現れたのは、古い新宿の街だった。
木造家屋。
ガス灯。
大正時代か昭和初期か?と思われる風景…
地下劇場の入口には
「黒月座」という看板が掲げられている。
そして五人の役者が舞台へ向かって歩いていた。
犬の面
猫の面
狐の面
烏の面
蛇の面
彼らは無言で地下へ降りていく。
最後に、一人の青年が古いカメラを抱えて後を追った。
青年は舞台へ立たない。
客席でもない。
ただ、カメラで五人を撮影している。
その時、背後から低い声が聞こえた。
「記録者がいる限り、月は完全には消えない」
振り返ると、黒いコートの男が立っていた。
顔は見えない。 六人目だった。
◆
修司は現実へ引き戻され、荒い呼吸をした。
美緒が心配そうに顔を覗き込む。
「また、何か見えたんですか?」
「ああ……」
修司は今見た幻視を説明した。
黒月座。
五匹の面をつけた役者。
そしてカメラを持つ青年。
玲子の表情が変わる。
「その人……どんなカメラを持っていました?」
「古いカメラだったが、形がLXに少し似ていたかな」
まどかが静かに言った。
『修司さんが手に入れたLXは
……もう普通のカメラではありません』
修司はファインダーを見つめる。
まどかが宿るPENTAX LX。
その力は偶然ではないのかもしれない。
◆
台本の最後の方に
五匹それぞれの役割が書かれていた。
犬 ――境界を守る
猫 ――闇を見抜く
狐 ――偽りを暴く
烏 ――死者の声を運ぶ
蛇 ――月を縛る
そして最後に、
月を見る者 ――封印を記録し、次代へ残す
黒田が腕を組む。
「なんか役割が妙に具体的だな」
翔太が小さく呟いた。
「まるで誰かに当てはめられるみたいだ……」
その言葉に、修司ははっとした。
犬 ――境界を守ろうとしていた 榊原。
烏 ――死者の声を聞き続けた 玲子。
狐 ――真実を暴こうとしていた 翔太。
完全には一致しないが、不気味なほど重なっている。
そして「月を見る者」。
記録者。
カメラを持つ者。
修司の胸がざわついた。
◆
その時、最深部の奥から微かな足音が聞こえた。
コツ……コツ……。
全員が振り向く。
崩れた観客席のさらに奥
暗い通路の向こうに、人影が立っている。
黒いコート。
細い身体。
しかし今度は空洞の顔ではない。
青白い男の顔がはっきり見えた。
榊原遼だった。
だが彼の目には、まだ深い闇が残っている。
「遼……?」
玲子が一歩前へ出る。
榊原はゆっくりこちらへ歩いてくる。
その手には、古いフィルム缶が握られていた。
「まだ終わってない」
彼の声は人間らしかったが
どこか遠くから響いてくるようでもあった。
修司が警戒して尋ねる。
「何が残っている?」
榊原はフィルム缶を差し出した。
「最初の公演の写真だ」
缶には、かすれた文字でこう書かれている。
『黒月座 昭和十二年 最終幕』
修司が受け取ると、フィルム缶は異様なほど重かった。
まるで中に鉛でも入っているかのように…
榊原は続ける。
「六人目は消えていない。席を失っただけだ」
玲子の顔が曇る。
「どこにいるの?」
榊原はゆっくり修司のカメラを見た。
「……記録の中だ」
地下最深部に冷たい沈黙が落ちる。
まどかの気配が、ファインダーの奥でわずかに揺れた。
そして次の瞬間
修司のカメラがひとりでに、シャッターを切った。
カシャッ!
誰も触れていないのに。
閃光が最深部を照らし出す。
その一瞬、舞台の背後の石壁に
黒いコートの男の影が映った。
六人目は消えていなかった。
そして影は、まるで修司のカメラの中へ入り込むように、ゆっくりと歪んで…消えていった。




