第25話 六人目の言葉
無数の黒い腕が、観客席から一斉に風間美緒へ伸びた。
ザザザザッ――。
影そのものが床を這うように迫ってくる。
美緒は恐怖で動けない。
「美緒さん!」
反射的に彼女を抱き寄せ、カメラを前へ突き出した。
その瞬間、レンズから銀色の光が溢れ出す。
まどかの力だった。
光に触れた黒い腕が煙のように崩れる。
だが……余りにも数が多すぎる。
次から次へと新しい腕が、観客席から湧き出してくる。
慎一が近くに落ちていた、鉄パイプを振り回した。
「下がれぇぇぇ!」
パイプが影を薙ぎ払うたび、黒い霧が飛び散る。
しかし完全には消えない。
六人目の空洞の顔が
舞台中央で静かに揺れていた。
「席は空いている」
その声に合わせるように
白木の椅子がギシリと音を立てる。
◆
月島玲子が美緒の前へ飛び込んだ。
白い光が彼女から広がり、迫る影を押し返す。
「この子は渡さない!」
観客席のざわめきが一気に大きくなる。
無数の影が玲子へ視線を向けた。
修司は気付いた。
玲子は「観客」ではない。
この地下最深部で唯一……
影たちに抵抗できる存在となっている。
「玲子さん、危ない!」
しかし玲子は振り返らない。
六人目を真っ直ぐ見据えたまま
低い歌声を響かせる。
その旋律が広がると
観客席の影たちの動きがわずかに鈍った。
まどかが言う。
『歌は “席の記録” を乱しています』
ーーなら、その隙に原版を壊す!
修司は舞台中央へ視線を向けた。
黒い舞台の表面には
先ほど生じた亀裂がまだ残っている。
あれを完全に破壊できれば
地下劇場の連鎖そのものを
……断ち切れるのかもしれない。
◆
しかし六人目はゆっくりと両腕を広げた。
すると観客席の影たちが一斉に立ち上がる。
ギシギシギシッ ギシギシギシッ!!!
石造りの観客席全体が軋んだ。
そして影たちは
今度は修司へ向かって歩き始める。
黒田が舌打ちする。
「囲まれるぞ!!!!」
「こんなの……人には……無理だ……」
神崎は完全に腰を抜かしていた。
修司は舞台へと駆け出した。
影たちが追ってくる。 冷気が背中に迫る。
舞台中央へ飛び乗った瞬間…
足元の黒い表面が、水面のように波打った。
修司の身体が沈み込みそうになる……
まどかが鋭く叫ぶ。
『直接触れないでください!!』
咄嗟に舞台の縁へ手をつき、踏みとどまる。
黒い表面の下に、無数の顔が浮かんでいた。
泣き叫ぶ顔。
笑っている顔。
そして客席に座る観客たちの顔。
その中心に……榊原遼の顔まで混じっていた
◆
その時、玲子が修司の隣へ現れた。
「原版は“舞台”じゃない」
「何だ?」
玲子は白木の椅子を指差す。
「あれが…最初の席なの」
修司は息を呑む。
これまで舞台こそが中心だと思っていた。
しかし本当に観客を生み出していたのは
………あの一脚だったのだ。
六人目が低く笑う。
「ふふふふ……気付くのが遅いぞ…」
椅子の周囲に……どす黒い霧が集まり始める。
椅子そのものが、呼応しているようだった。
玲子が叫ぶ。
「燃やしてぇーー!!!」
修司はジゼルのライターを取り出す。
だが椅子までは距離がある…………
その時、黒田が鉄パイプを投げた。
「修司!」
パイプは椅子の足元へ転がった。
修司はライターに火を点け
散乱していた、古い台本の紙片へ火を移す。
燃え上がる紙をパイプへ押し付けた。
黒田がそれをーー思いっ切り蹴り飛ばす。
燃える紙片が白木の椅子へ飛び込んだ。
ボォ゙ォ゙ッ!!
椅子の座面が一気に炎に包まれた。
◆
地下最深部に凄まじい絶叫が響き渡る。
『やめろォォォォォォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!』
六人目の空洞の顔が大きく歪む。
観客席の影たちが一斉に苦しみ始めた。
鳴っていた拍手が…悲鳴へ変わる。
石造りの観客席に亀裂が走った
ゴゴゴゴゴゴォ゙ォ゙ォ゙……!
天井から大量の砂と石片が降り注ぐ。
翔太が叫ぶ。
「崩れる!」
しかし椅子の炎は、消えない
むしろ黒い霧を燃料にするように…
青白く、そして大きく燃え上がっていく…
六人目が初めて明確な恐怖を見せた。
「席が消えれば、観客はぁぁ――ーっ」
玲子が…酷く静かに言った。
「解放されるのよ」
その瞬間、
観客席の黒い影たちが……
次々と光の粒子へ変わり始めた……
戦前の役者たち。
昭和の観客たち。
国立地下に囚われていた影。
三鷹録音室に残っていた声の主たち。
無数の光が天井へと、昇っていく……
◆
六人目は炎の中へ手を伸ばした。
だがその腕は燃え、
黒い灰になって…グズグズと崩れていく。
空洞の顔の奥から
初めて人間のような…声が漏れた
「私…は……消え…たく…な…い……」
PENTAX LXを…力強くしっかりと構えた。
まどかが静かに囁く。
『今です、修司さん』
炎に包まれる、白木の椅子…
崩れゆく、六人目…
解放されていく、無数の光…………
そのすべてを一枚に収めるように…
シャッターを切った。
カシャッ!!
眩しい銀色の閃光が、地下最深部を満たす。
六人目の身体が光に貫かれ、黒い霧となって四散した。
同時に、白木の椅子が音を立てて崩れ落ちる。
バキッ!
地下空間全体が大きく揺れた。
観客席の影は完全に消え
残ったのは舞台中央に立つ、玲子の姿だけだった。
彼女は修司を見つめ、静かに微笑む。
「ありがとう」
その声と同時に
彼女の身体も淡い光へと、変わり始める。
しかし修司が何かを言う前に
地下最深部の奥で……再び重い音が響いた。
ゴォォ゙ォ゙ン――。
崩れた観客席のさらに向こう
闇に隠れていた石壁が、ゆっくりと開く
その奥からは…古い木製の舞台が姿を現した
そして舞台の中央には
一冊の黒い台本が、静かに置かれていた。
表紙には、焼け焦げた文字でこう記されていた。
『五匹と黒い月』




