第20話 五番目の席
「座れ!!……相良修司!」
湿った囁きが耳元で響いた瞬間
修司は反射的に振り向いた。
だが背後には誰もいない。
完全な闇。
地下劇場の照明は消え、ライトだけが頼りだった。
風間美緒が震える声を上げる。
「相良さん、どこですか!?」
「ここだ」
修司が答えると、黒田慎一のライトがこちらを照らした。
しかしその光は奇妙だった。
部屋全体を照らしているはずなのに
中央の木椅子だけが、、、影に沈んでいる。
まるで光そのものが避けているようだった。
翔太が青ざめた顔で呟く。
「その席……十五年前の地下舞台にもあった……」
修司は椅子を見つめる。
黒く染みついた座面。
正面の集合写真。
そして写真に写る六人目の黒い影。
まどかが普段には無い、強い口調で言う。
『近づかないでください!』
ーー理由は?
『あの席は“観客”を固定するためのものです』
修司は一歩後退った。
その瞬間、地下劇場全体に低い唸り声のような音が響いた。
ゴォォォォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙………………。
客席の奥で、重い何かが…立ち上がる気配がした。
◆
黒田がライトを客席へ向ける。
「誰だ!」
当然、肉眼では何も見えない。
だが修司がファインダーを覗くと
十三席の黒い影たちが一斉にこちらを向いていた。
その中央。
五番目の空席の周囲に
他の影がゆっくり集まり始めている。
まるで空いた席へ誰かを誘導するように。
修司はすぐにファインダーから視線を外した。
胸の奥が、かなりざわつく。
ほんの一瞬だったが…
あの席に座っている自分の姿が見えた気がした。
「相良さん?」 心配そうに覗き込む。
「大丈夫だ」
だが自分の声が…少しかすれているのが分かった。
◆
その時、舞台中央の黒い円が微かに光を帯び始めた。
淡い銀色。
月明かりのような光だった。
そして光の中に、白いワンピース姿の月島玲子が現れる。
彼女は椅子と修司の間に立ち、静かに首を振った。
「まだ、駄目よ」
玲子の声は以前よりはっきり聞こえる。
神崎が呆然と後退った。
「玲子?……本当に……?!」
玲子は修司だけを見つめていた。
「席に座れば、 “月” に記録される」
「記録?」
「観客になった人は、舞台の外へ戻れないの」
翔太が震える声で尋ねる。
「じゃあ、榊原は……」
玲子の表情が悲しげに曇る。
「遼は……、自分から席に座ったの…」
地下劇場の空気がさらに冷たくなる。
修司は静かに問いかけた。
「なぜそんなことをしたんだ?」
玲子は黒い円を見下ろした。
「私を……私を、助けようとしたの」
◆
玲子の周囲の光が少し強くなる。
修司の脳裏に、断片的な映像が流れ込んできた。
三年前。
B-13地下劇場。
若い榊原遼が一人で舞台に立っている。
彼は痩せ細り、ひどく疲れた顔をしていた。
客席から拍手が聞こえる。
見えない観客たちの拍手。
榊原は叫んでいた。
「玲子を返せ!」
黒い円の中から、あの顔のない影が現れる。
影は静かに客席の五番目を指差した。
空席。
榊原は震えながら椅子へ近づく。
そして最後にこう呟いた。
「俺が座れば、お前は出て行かないんだな」
次の瞬間、彼は椅子に腰を下ろした。
拍手が暴力的に鳴り響く。
影が榊原の背後に立つ。
そこで映像は途切れた。
◆
修司は現実へ引き戻され、深く息を吐いた。
「榊原は……犠牲になったのか…」
玲子はゆっくり頷く。
「遼は、六人目を地下へ繋ぎ止めようとした。でも完全には閉じ込められなかった……」
黒田が険しい顔で言う。
「つまり、あいつはまだここにいるのか?」
「席に “記録” されている」
玲子の言葉は曖昧だったが
少なくとも榊原は完全に消滅していない。
その時、地下劇場の奥から、再び拍手が響いた。
パチ……パチ……パチ……。
パチ……パチ……パチ……。
パチ……パチ……パチ……。
今度はゆっくりとした、まるで誰かを歓迎するような拍手だった。
客席の五番目の空席が、ギシリと音を立てる。
まるで見えない誰かが、座ろうとしているように。
◆
突然、神崎が苦しそうに呻いた。
「うっ……!」
彼は胸を押さえ、その場に膝をついた。
「神崎さん!」 美緒が駆け寄る。
神崎の額には大量の汗が浮かんでいた。
「見える……客席が……全部埋まってる……」
修司はファインダーを覗く。
さっきまで空いていた五番目の席に
ぼんやりと人影が座り始めていた。
輪郭はまだ不完全。
だがその顔は、何処か自分に似ている気がした。
まどかの悲鳴が切り裂く。
『ダメ! 見ないでください!
席が…修司さんを写し取っています!』
修司は急いでファインダーから視線を外した。
胸ポケットの観客テープが、激しく震え始める。
パチパチパチ……と細かい静電気のような音。
そしてテープケースの裏側に
再び文字が浮かび上がった。
『0:13 開演』
同時に、地下劇場の古い時計がカチリと動いた。
針は止まっていたはずなのに
ゆっくりと動き出し……零時十三分を指し始めた。
◆
その瞬間、舞台中央の黒い円が大きく波打った。
闇の表面から、長いコートを着た男の姿がゆっくり浮かび上がる。
今度は顔が見えた。
青白く痩せた男。
榊原遼だった。
しかしその目は虚ろで、生者の光を持っていない。
「榊原……!」 翔太が震える声で叫ぶ。
榊原は修司たちを見ず
まっすぐ五番目の席を見つめている。
そしてかすれた声で呟いた。
「まだ……埋まっていない……」
玲子が一歩前へ出る。
「遼! もうやめて!」
榊原はゆっくり玲子を振り返った。
その表情には深い疲労と絶望が刻まれている。
「これを終わらせるには……
誰かが、誰かが…座らなきゃいけないんだ……」
次の瞬間
客席の影が一斉に立ち上がった音がした。
ギシ ギシ ギシッ!!!
木椅子が軋む音が、地下劇場に大きく響き渡る。
見えない観客たちが
そして、舞台へ向かってゆっくり歩き始めた。
榊原は、修司を真っ直ぐ見つめて言った。
「相良修司……お前なら、月を閉じられる」
地下劇場の照明が再び眩しく点灯し、黒い円の中央から冷たい風が渦を巻くように吹き上がった。
その風の中
バッグの中の観客テープのリールが
ゆっくりと、回転を始めていた………




