第18話 零時十三分
パチ……パチ……パチ……。
拍手は机の上の観客テープから確かに聞こえていた。
相良修司は息を潜め、耳を澄ませる。
深夜の事務所は静まり返っている。
ソファでは黒田慎一が眠り
休憩室では美緒と翔太が休んでいる。
それなのに、拍手だけが異様に鮮明だった。
まどかが低く囁く。
『再生はされていません。
テープの中の “何か” が起きています』
修司はテープケースに触れた。
冷たい。
しかし今度は、その冷たさの奥に微かな振動があった。
まるで心臓の鼓動のように。
時計は午前零時十三分を示している。
テープケースに浮かび上がった文字。
『0:13』
「ただの時刻じゃないのかもしれないな」
修司は小さく呟いた。
その瞬間、拍手がぴたりと止んだ。
代わりに、かすかな女の声が聞こえる。
『急いで…』
月島玲子の声だった。
◆
翌朝。
修司はほとんど眠らないまま、現像した写真を確認していた。向かいのビルの非常階段を撮影したフィルム。
暗室代わりに使っている小部屋で、印画紙を薬品から引き上げる。徐々に像が浮かび上がる。
非常階段。街灯。
そして黒いコートの男。顔はぼやけている。
だが胸元の逆さ三日月のペンダントははっきり写っていた。さらに奇妙なのは、その男の背後にもう一つ白い影が写っていたことだ。
長い髪。
白いワンピース。
月島玲子だった。
彼女は黒いコートの男の背後に立ち、まるでその動きを監視しているように見えた。
『玲子さん、あの男を追っていたんですね』
まどかが静かに言う。
ーー榊原かどうかはまだ分からない
『でも、生きている人間だけではありません』
修司は写真を封筒にしまった。
今日の目的は一つ。
新宿アステリズム座の地下倉庫B-13へ入ることだ。
◆
午前十一時。
四人は中央線で新宿へ向かった。
翔太はまだ完全には回復していないが、「自分が案内しなければ意味がない」と言って同行を譲らなかった。
歌舞伎町に近づくにつれ、街の空気が変わっていく。
昼間だというのに、ネオンの看板と雑踏がどこか落ち着かない。
アステリズム座は裏通りにひっそりと建っていた。
修司たちが事務所を訪れると、神崎は露骨に嫌な顔をした。
「またあなたたちですか」
修司は単刀直入に言った。
「B-13倉庫について聞きたい」
神崎の表情が凍り付く。
「……誰からその番号を?」
「結城翔太さんからです」
翔太が前へ出る。
「神崎さん、もう隠しても無理です。榊原遼の名前も、月島玲子の事件も全部知っています」
神崎はしばらく沈黙した。
やがて深く息を吐き、扉を閉める。
「地下へ行くつもりなんですね」
「案内してください」
神崎は苦い顔で頷いた。
「ただし、あそこは劇団の倉庫じゃありません」
「どういう意味です?」
「建物の名義上はアステリズム座ですが、B-13だけは戦前から残っている別の地下区画なんです」
◆
神崎に案内され、劇場の裏手へ回る。
搬入口の奥に、関係者以外立入禁止の鉄扉があった。
神崎は鍵束から古い鍵を取り出す。
「ここから先は、劇団員でも入ることを禁じています」
扉を開けると、冷たい地下の空気が流れ出した。
コンクリート階段が暗闇へ続いている。
国立や三鷹と同じ、あの湿った匂い。
「また地下……」美緒が小さく身を震わせた。
「最近そればっかりだな」黒田が苦笑する。
階段を降りると、地下通路は劇場の基礎部分を通っていた。壁には古いレンガが混じり、ところどころ戦前の建築様式が残っている。
神崎が立ち止まった。
通路の奥に、赤いプレートが掛かっている。
B-13
その扉だけが異様に古かった。
厚い鉄板に、逆さ三日月の紋章が刻まれている。
修司の胸ポケットの観客テープが、微かに震えた気がした。
◆
神崎は鍵を差し込もうとしたが、手が止まった。
「本当に開けるんですか?」
「あなたは中を知っているんですね」
神崎はゆっくり頷く。
「十五年前、玲子が失踪した後、、
榊原がここへ来ていましたから……」
「アステリズム座に?」翔太が驚く。
「当時、私は別の劇団で働いていました。榊原は“黒い月の続きがここにある”と言って、この地下を調べていたんです」
「中で何を見た?」
神崎は急に顔色を悪くした。
「見たというか、聞こえたんですよ……。
誰もいないはずの地下舞台から、拍手が」
修司たちは顔を見合わせた。
三鷹の観客テープと同じだ。
「それ以来、私はB-13を封鎖しました。だが数年前から、誰かが勝手に出入りしている形跡がある」
神崎は鍵を回す。
重い錠が外れる音が地下に響いた。
◆
扉を押し開けた瞬間、冷気が一気に吹き上がった。
ライトを向ける。
そこには広い地下空間が広がっていた。
劇場の倉庫ではない。
半円形の客席。 低い舞台。
天井から垂れ下がる古い照明器具。
まるで小さな地下劇場そのものだった。
そして舞台中央には
見覚えのある黒い円が描かれている。
国立地下と同じ形。
いや、こちらの方がさらに古いのか…。
「ここが……本当の黒い月の舞台……」
翔太が青ざめた顔で呟く。
修司はゆっくり客席を見回した。
全部で十三席ある。
そのうち五席だけが
不自然に埃をかぶっていなかった。
誰かが最近座った痕跡。
『修司さん、舞台の上』まどかが鋭く囁く。
ライトを向ける。
黒い円の中央に、一冊のノートが置かれていた。
表紙には、震える字でこう書かれている。
『榊原遼 最終記録』
修司が舞台へ近づこうとした、その時だった。
地下劇場の照明が突然バチッと点灯した。
誰も触れていないのに。
眩しい白光が舞台を照らし出す。
そして客席の奥から、ゆっくりと拍手が響き始めた。
パチ……パチ……パチ……パチ……
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
一人分ではない。
何十人もの観客が、暗闇の中で静かに拍手している。
修司がライトを向ける。そこには誰もいない。
だがファインダーを覗いた瞬間、景色が変わった。
客席の十三席すべてに、黒い人影が座っていた。
その中央、五番目の席だけが空席になっている。
そして舞台の上のノートが、ひとりでにページをめくり始めた。
パラ……パラ……パラ…パラ……………。
最後のページで止まる。
そこには、まだ乾いていないような
赤い文字で書かれていた。
『次の観客は、……相良修司』




