第17話 写る存在
三鷹の地下録音室を出た時には、外はすでに夕暮れに沈み始めていた。
廃スタジオのコンクリート壁には長い影が伸び、風が吹くたびに割れた窓ガラスがカタカタと鳴る。
修司は「観客」テープを慎重にカメラバッグへしまった。
結城翔太はまだ顔色が悪かったが、地下で見たもののせいか、逆に意識ははっきりしているようだった。
「B-13……本当にあるんです」
「アステリズム座の地下倉庫番号です。劇団員でも滅多に入らない場所でした」
黒田慎一が眉をひそめる。
「なんでそんな場所を榊原が知ってる?」
「分かりません。でも、失踪前の翔太は“劇場の地下にまだ旧舞台が残ってる”って言ってた」
風間美緒が不安そうに修司を見る。
「また地下なんですね……」
「今度は新宿だ」
修司は静かに答えた。
「国立、三鷹、そして新宿。榊原は最初からこの三つを繋げていた可能性がある」
◆
中野へ戻る途中、中央線の車内で修司はノートを整理していた。
国立地下の黒い円。
三鷹録音室の観客テープ。
そしてB-13。
まどかがファインダーの中で真剣な表情をしている。
『修司さん、テープを持っている限り
アレは……追ってきます』
ーー六人目か?
『完全には消えていません』
修司はバッグの中のテープに触れた。
確かに、微かに冷たい。
まるで誰かの手が触れているような感触だった。
◆
夜八時過ぎ。
中野の雑居ビルへ戻ると、一階の喫茶店クイーンは閉店間際だった。
松田ジゼルは彼らの疲れ切った顔を見るなり、何も聞かずに温かいスープを用意した。
「今日はかなり深いところまで行ったみたいですね」
修司は簡単に三鷹での出来事を説明した。
録音テープ。
玲子の警告。
顔のない影。
ジゼルは静かに聞いていたが、「B-13」という番号でわずかに目を細めた。
「新宿の地下倉庫……その番号、少し気になります」
「何か知っているんですか」
「昔、歌舞伎町周辺には戦前の防空壕や地下通路が複雑に残っていました。劇場街の地下倉庫は、それらと繋がっている場合があるんです」
黒田が顔をしかめる。
「また地下迷宮かよ」
ジゼルはカウンターの奥のほうから
古い新宿地下図のコピーを取り出した。
「父の資料庫にあったものです」
地図には現在の歌舞伎町周辺の地下構造が描かれていた。
アステリズム座の位置を確認すると、その地下に細い通路が伸びている。
そして一つの区画に、手書きで赤い丸が付けられていた。
B-13
修司は思わず顔を上げる。
「なぜここに印が?」
「分かりません。でも、この地図は二十年以上前のものですね」
つまり、榊原より前からB-13は特別な場所だった可能性がある。
◆
二階の事務所。
翔太は休憩室で休ませ、美緒が付き添うことになった。
修司と黒田は机の上に地図を広げる。
「明日、新宿へ行くとして……
問題はどうやってB-13に入るかだな」
黒田が腕を組む。
「正面から“地下倉庫見せてください”じゃ通るわけねえ」
「神崎を通すしかない」
修司はアステリズム座の主宰者・神崎の顔を思い出す。
彼は何かを隠していた。
そしてB-13の存在を知っている可能性が高い。
その時、休憩室から美緒の慌てた声が聞こえた。
「相良さん!」
二人はすぐに駆け込む。
翔太がベッドの上で苦しそうに呻いていた。
額には冷や汗が浮かび、目は閉じたまま震えている。
「翔太!」 美緒が肩を揺する。
翔太は夢の中で何かと戦っているようだった。
「……開けるな……B-13を……」
修司は彼の手を握った。
「翔太さん、しっかりしろ」
翔太の目が薄く開く。
焦点は合っていない。
「榊原が……地下で録音してる……
……まだ……終わってない……」
そして突然、彼は強く修司の腕を掴んだ。
「B-13には……舞台がある」
部屋の空気が凍り付く。
「舞台?」
「旧アステリズム座の……地下舞台……
……黒い月の本当の舞台だ……」
◆
その瞬間、事務所の固定電話が鳴った。
深夜十一時。
全員が息を呑む。
修司が受話器を取る。
「相良です」 数秒の無音。
そして、かすれた男の声。
『テープを持ち帰ったな』
修司の目が薄く細くなる。
「……誰だ?」
『観客を増やすな』
ノイズ。
そして低い笑い声。
『明日の深夜、B-13で待っている』
修司が問い返す前に、通話は切れた。
発信者番号はまたしても通知不可だった。
「榊原か?」 黒田が険しい顔で言う。
「分からない」
だが受話器を置いた瞬間、LXが熱を帯びた。
まどかの声が鋭く響く。
『修司さん、窓!』
修司は反射的にカーテンを開けた。
向かいのビルの非常階段。
そこに、黒いコートを着た男が立っていた。
顔は暗闇で見えない。
だが胸元には、ペンダントらしき光が見える。
修司はすぐにカメラを構え、シャッターを切った。
カシャッ!
フラッシュの光が夜を裂く。
次の瞬間、男の姿は消えていた。
非常階段には誰もいない。
しかし地面には、濡れたような黒い足跡が残っている。
黒田も窓から身を乗り出した。
「見えたぞ、今のは!!」
「人間だったんですか……?」
美緒が青ざめた顔で尋ねる。
修司は撮影したばかりのフィルムを巻き戻しながら答える。
「少なくとも、カメラには写る存在だ」
まどかが静かに囁く。
『あの人……榊原さんに似ていました』
修司は何も答えなかった。
もし榊原遼が本当に死んでいるのなら
今見たものは、一体……何なのか。
◆
深夜。
黒田は事務所のソファで仮眠を取り、美緒も翔太のそばで眠り込んだ。修司だけが机に向かっていた。
B-13の地図。 観客テープ。
そして国立地下で撮影した写真の焼け残り。
その時、まどかが静かに言った。
『修司さん、玲子さんは、やはり…
“閉じ込められている”んじゃありません』
「どういう意味だ」
『あの人は、自分から残っているんです』
修司は顔を上げる。
『六人目を外へ出さないために』
その言葉と同時に、机の上の観客テープがひとりでにカタリと動いた。誰も触れていない。
さらに、テープケースの裏側に新しい文字が浮かび上がっていく。
まるで見えない指で書かれているように。
『0:13』
修司は時計を見た。
午前零時十三分。
そして次の瞬間、テープケースの中から微かに拍手の音が聞こえ始めた。
パチ……パチ……パチ……。
それは昨日よりも近く、まるでこの事務所の中で誰かが拍手しているかのように響いていた。




