第16話 観客
コツ……コツ……。
録音ブースの中から響く足音は、確実にこちらへ近づいていた。防音ガラスの向こうには、月島玲子が立っている。
白いワンピースは薄暗い地下録音室の照明にぼんやり浮かび上がり、その青白い顔はどこか切迫した表情をしていた。
彼女の唇が再び動く。
「聞いてはいけない」
だがスピーカーから流れる拍手は止まらない。
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
拍手の数が増えていく。
十人、二十人、三十人――。
パチ……パチ……パチ……パチ……
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
地下の小さな録音室ではあり得ない人数の音だった。
黒田慎一が苛立ったようにスピーカーを叩く。
「止まれ!」
だが音はむしろ大きくなる。
そして拍手の奥から、ざらついた男の声が聞こえた。
『本日の演目、“黒い月”』
続いて、何人もの笑い声。
修司は机の上のリールテープを見つめた。
赤字で書かれた「観客」。
榊原遼が残した最後の記録。
『修司さん』
まどかの声が緊張を帯びる。
『テープそのものから聞こえています』
ーー電源が入っていないのに?
『ええ。普通の録音じゃありませんから…』
◆
修司はゆっくりとリールテープを手に取った。
冷たい。
まるで長年氷の中にあったような温度だった。
翔太が青ざめた顔で首を振る。
「やめてください……それを再生したら……」
「榊原は“聞け”と書き残している」
「でも玲子さんは“聞くな”って……」
相反する警告。
修司は数秒考えた後、決断した。
「黒田、録音室の入口を見ていてくれ」
「マジでやるのか」
「ああ」
黒田は舌打ちしながらも頷き、通路側へ移動した。
美緒は不安そうに修司を見つめる。
「私、ここにいます」
修司は古いリールデッキを調べた。
意外にも電源ケーブルはコンセントに繋がっている。
誰かが最近使っていた形跡があった。
スイッチを入れる。
ブゥン……。
古いモーターが重く回転を始めた。
地下録音室の空気がさらに冷たくなる。
まどかが小さく囁く。
『来ます』
◆
修司は「観客」テープをセットし、再生ボタンを押した。
カチッ。
リールがゆっくり回り始める。
最初はノイズだけだった。
ザーッ……。
やがて、遠くで椅子が軋む音。
そして男の声。
『黒い月・試演会、開演します』
十五年前の録音だ。
若い榊原遼の声に違いない。
続いて、観客のざわめきが聞こえる。
しかし修司はすぐに異常に気付いた。
ざわめきの人数が多すぎる。
地下スタジオの観客は三十人程度だったはずなのに、録音には百人以上いるように聞こえている。
さらに奇妙なのは、その声がどれもくぐもっていることだった。まるで遠い水中から聞こえてくるような響き。
玲子の若い声が入る。
『本当に始めるの?』
榊原。
『これで完成する。月は開く』
その瞬間、録音の中で激しいノイズが走った。
ザーッ!!
美緒が耳を塞ぐ。
そして、別の声が混じった。
低く、複数の声が重なったような不気味な声。
『席が足りない』
録音室の照明が一瞬暗くなる。
修司はテープを止めようとしたが、再生ボタンが動かない。リールが勝手に高速回転を始めた。
◆
録音の中で、突然悲鳴が上がった。
『誰!? そこに誰かいる!』 玲子だった。
続いて、若い立花の声。
『観客席に知らない奴がいるぞ!』
『止めて、榊原!』 大庭。
そして最後に、榊原の震える声。
『……お前、誰だ?』
次の瞬間、録音は凄まじいノイズに飲み込まれた。
そのノイズの中から、地下録音室そのものに別の音が響く。
ギィ……。
修司たちは同時に振り向いた。
録音ブースのドアが、ゆっくりと開いていく。
中には誰もいない。
だが床に、濡れた足跡が一歩ずつ現れていた。
コツ……。
足跡がガラスのこちら側へ向かってくる。
「何か、来る!!」 美緒が悲鳴を上げる。
黒田がライトを向けるが、見えるのは足跡だけだ。
修司はカメラを構え、ファインダーを覗いた。
そこには、顔のない黒い影が
録音ブースから出てくる姿がはっきり映っていた。
十五年前に地下舞台へ現れた“六人目”。
影はゆっくりと歩きながら、修司たちを見回す。
そして録音テープから流れる声と同じ、不気味な囁きを漏らした。
「観客が……増えた」
◆
その瞬間、まどかが鋭く叫んだ。
『修司さん、火を!』
修司はジゼルから渡された銀色のライターを思い出した。
ポケットから取り出し、火を点ける。
小さなオレンジ色の炎。
すると黒い影がわずかに後退した。
まどかの声が続く。
『あのフィルムを燃やしてください!』
修司は迷わずバッグから、国立地下で撮影した黒い円の写真を一枚取り出した。
ライターの炎を近づける。
写真が燃え上がった瞬間――
録音室全体に凄まじい風が吹き荒れた。
リールデッキが激しく回転し
スピーカーから絶叫が響く。
『やめろォォォォォォォォーーー!』
男とも女ともつかない叫び。
黒い影が大きく揺らぐ。
そして燃える写真の中から、白い光が立ち上がった。
月島玲子だった。
彼女は黒い影の前に立ち、両手を広げる。
「まだ連れていかせない」
玲子の声が地下録音室に響く。
黒い影は怒ったように蠢く。
防音ガラスにヒビが入り始めた。
バキ……バキバキッ!
「ガラスが割れるぞ!」
修司は燃え残った写真を床へ落とした。
すると黒い影は苦しむように後退し、録音ブースの闇へ引きずり込まれていく。
最後に、空洞の顔だけがこちらを向いた。
「榊原は、まだ録音している」
次の瞬間、影は完全に消えた。
リールデッキも停止する。
地下録音室に、重い静寂が戻った。
◆
しばらく誰も動けなかった。
最初に口を開いたのは翔太だった。
「今の……本当に消えたんですか?」
修司は録音ブースを見つめた。
ドアは半開きのまま。
中には誰もいない。
だが床には、黒い水滴のような跡が残っている。
美緒が震える声で言った。
「玲子さん……助けてくれたんですよね」
『ええ』
まどかが静かに答える。
『玲子さんは、あれを閉じ込め続けているんです』
修司は停止したリールデッキからテープを取り外した。
するとケースの裏側に、これまで見えなかった文字が書かれていることに気付く。
鉛筆で小さく。
『新宿 B-13』
黒田が覗き込む。
「新宿?」
修司はゆっくり頷いた。
「榊原はまだ何かを残している。しかも場所は新宿だ」
翔太の顔が強張る。
「B-13……それ、アステリズム座の地下倉庫の番号です」
地下録音室の空気が再び冷たくなる。
国立。
三鷹。
そして次は、新宿。
黒い月の舞台は、再び最初の劇場へ戻ろうとしていた。




