第15話 三鷹のスタジオ
翌朝、中野の空は薄い雲に覆われていた。
喫茶店クイーンの開店準備の音が一階から聞こえてくる。
修司はほとんど眠れなかった。
机の上には、国立で拾ったペンダントの欠片と、榊原遼のロッカーの鍵が並んでいる。
PENTAX LXに触れると、微かな温もりが返ってきた。
『今日は嫌な感じがします』
まどかの声は珍しく不安げだった。
「三鷹か」
『地下よりも、“記録されたもの”が危険です』
録音室。観客の拍手……
翔太の言葉が頭から離れない。
◆
午前十時。
黒田慎一、美緒、そして傷の手当てを終えた翔太も事務所へ上がってきた。顔色はまだ悪い。
「本当に来る必要はありません」
修司が言うと、翔太は苦笑した。
「ここまで来て俺だけ待ってるなんて無理ですよ」
「無茶するなよ。倒れたら担ぐの俺なんだから」
美緒は翔太の隣に座り、心配そうに様子を見守っている。
修司は地図を広げた。
「三鷹駅北口から徒歩二十分。旧“ミカワサウンドスタジオ”跡地だ」
「知ってます」 翔太が頷く。
「閉鎖されたのは十二年前。でも建物自体は残っています」
ジゼルがコーヒーを運んできた。
「これを持っていってください」
彼女が差し出したのは、小さな銀色のライターだった。
「お守り代わりです」
修司は眉を上げる。
「…煙草は吸いませんが」
「火は…煙草のためだけのものじゃありません」
ジゼルは意味ありげに微笑んだ。
「古い地下では、光より火の方が効くことがあります」
◆
中央線で三鷹へ向かう。
車窓から見える街並みは、国立よりさらに落ち着いていた。
吉祥寺を過ぎると、都心の喧騒が少し遠ざかる。
翔太は窓の外を見ながらぽつりと言った。
「榊原は、昔は普通だったんです」
「いつ変わった?」 修司が尋ねる。
「大学二年の夏です。古本屋で “黒い月” の脚本を見つけてからですね…」
黒田が眉をひそめる。
「そんなヤバい脚本が普通に売ってたのか?」
「コピーでした。作者名もなくて……
最後のページだけ破れていた」
翔太は苦い顔をする。
「でも榊原は、“これは未完成だから価値がある”って喜んでいたんです」
未完成。
それは玲子の言葉とも繋がる。
“最初の五人を揃えなければならない”
◆
三鷹駅北口を出ると、空気は少しひんやりしていた。
翔太の案内で住宅街を抜ける。
やがて、古びた工業地帯の一角に辿り着いた。
そこに、灰色の三階建ての建物が立っていた。
MIKAWA SOUND STUDIO
色褪せた看板が辛うじて読める。
窓の多くは板で塞がれ、敷地には雑草が伸び放題だった。
黒田が低く口笛を吹く。
「完全にホラー映画のロケ地だな」
正面入口は鎖で閉ざされていた。
だが翔太は迷わず建物の裏手へ向かう。
「こっちです」
裏側には搬入口があり、錆びたシャッターが半分だけ開いていた。誰かが最近こじ開けたような跡がある。
修司は周囲を確認し、静かに中へ入った。
◆
建物の内部は埃っぽく、古い機材の匂いが漂っていた。
録音ブースのガラスは曇り、床にはケーブルが散乱している。
だが完全な廃墟ではない。
奥へ続く通路に、比較的新しい靴跡が残っていた。
「誰か来ている」 修司が呟く。
翔太の顔が強張る。
「大庭さん…かもしれない」
地下へ続く階段は、録音スタジオの奥にあった。
コンクリート製の狭い階段。
国立の防空壕とは違うが、やはり湿った冷気が吹き上がってくる。
まどかが小さく囁いた。
『ここ、声が残っています』
ーー録音された声か?
『もっと…もっと古いものです…』
◆
地下は複数の録音室に分かれていた。
壁には防音材が貼られ、扉には番号が振られている。
B1
B2
B3
そして一番奥に、赤いペンキで手書きされた文字。
LUNA
翔太が立ち止まる。
「榊原はこの部屋を使っていました」
扉には古い南京錠が掛かっていた。
修司は真鍮の鍵を差し込む。
カチリ。
驚くほど滑らかに回った。
鍵は間違いなく、この扉のものだった。
ゆっくり開ける。
中は小さな録音室だった。
ミキサー卓。
古いリールデッキ。
壁一面に貼られた防音材。
そして中央の机の上に、ノートと数本の録音テープが整然と並べられていた。
まるで昨日まで誰かが使っていたかのように。
「これ……」美緒が息を呑む。
ノートの表紙には、榊原遼の名前が書かれていた。
◆
修司は慎重にノートを開く。
最初のページ。
『黒い月 観測記録』
その下に日付が並んでいる。
20XX年7月12日
玲子が地下で消える瞬間、六人目を確認した。
20XX年7月15日
観客席は四つしかなかった。
なのに拍手は……確かに五人分聞こえた。
ページをめくる。
20XX年8月2日
六人目は役者ではない。観客でもない。
さらに進むと、文字は次第に乱れ始めていた。
あれは舞台を見ている
いや、舞台を作っている
月は人を集めるための“席”だ
黒田が顔をしかめる。
「完全に精神をやられてるな…」
しかし修司は最後のページで手を止めた。
そこには震える文字で、こう書かれていた。
『もし私が死んだら、録音テープ3を聞け』
机の上には三本のリールテープ。
一本目には「稽古」。
二本目には「地下音」。
そして三本目だけが赤いインクで、
『観客』
と書かれていた。
◆
その時だった。
録音室の古いスピーカーから、突然ザーッというノイズが流れ始めた。電源は入っていないはずだ。
美緒が後ずさる。
「勝手に……!」
ノイズの中に、かすかな声が混じる。
『……開演……』
修司はゆっくりリールデッキを見た。
停止している。 テープは回っていない。
それなのに、スピーカーから音が聞こえてくる。
次第にノイズは拍手へ変わっていった。
パチ……パチ……パチ……。
最初は数人。
やがて何十人もの拍手が地下録音室に響き渡る。
翔太の顔から血の気が引いた。
「これだ……俺が聞いたの……」
拍手の奥から、低い男の声が聞こえた。
『五つの席が埋まった』
続いて、女の悲鳴。
そして誰かが叫ぶ。
『玲子、逃げろ!』
立花の若い声だった。
修司はすぐにリールデッキへ近づき、「観客」と書かれた三本目のテープを手に取った。
その瞬間、地下録音室の照明が一斉に点滅した。
そして防音ガラスの向こう――
誰もいないはずの録音ブースに
白いワンピース姿の月島玲子が立っていた。
彼女はガラス越しに修司を見つめ、静かに唇を動かす。
「聞いてはいけない」
次の瞬間、地下録音室の奥で重い扉がゆっくり閉まる音が響いた。
ゴォン――。
そしてスピーカーから、拍手とは別の音が流れ始めた。
足音だった。
コツ……コツ……。
まるで誰かが、録音ブースの中をこちらへ向かって歩いてくるように。




